深地はハンドルを回すことなく、本来曲がらなければならない道をまっすぐに行って、緩やかに坂道になっている道を車で登ってゆく。目的の場所は高台にある。 信号待ちになって、深地は有に話しかけた。もっと彼女の口から彼女のことが知りたいと思った。深地が踏み込むことのできない場所はあると理解はしていた。上からでは確認もしずらい氷の薄いところを避けながら、踏み抜かないように渡っていく感覚だった。 「この間店に来た苗代さんとはいつからの知り合いなんですか? 有ちゃん、って呼んでたから、元々親しかったのかなって」 深地は内心の緊張をおくびにも出さないように言った。有は特に怪訝な顔をすることもなく答えた。 「うん、メロマヨさまより長い付き合いなんだ、実は。苗代さんは昔からよくしてくれて、本当は、良い人だよ。だけど、あんまり私の信仰をよくは思ってないみたい。私ね、中学の時不登校だった時期があって。それはずっとメロマヨさまと一緒にいたからなんだけど、それが原因だと思う」 有は詳しく苗代さんとの出会いの話をした。既に知っていた話がほとんどだったが、深地は平然とした顔で相槌を打った。 「苗代さん、出会った時はもっと優しかったんだよ。あんな意地悪な言い方する人じゃなかったのに」 「なんか、わざと悪く振る舞ってるところありますよね」 「え、そうなのかな?」 有は目をぱちくりとさせて寝耳に水という顔をした。そして、少し考えるような仕草をした後に、苗代のことを話してくれた。 「苗代さんとは遺言書のことでもだいぶ揉めたから、色んなところで拗れちゃってて。メロマヨさまと苗代さんも昔からの付き合いだから、最終的には苗代さんが折れてくれて、遺言書の通りになったんだけどね」 シートベルトを掴んで話す有は、苗代の気持ちにどこまで気付いていたんだろうか。有はおそらく、彼の好意を知らない。きっと苗代は有を傷つけないために反対したのだろうに。 「苗代さんは、きっと、有さんのために色々言ってくれるんですよ」 「え? うん、まあ、付き合いが長いし、昔から大人だからね、苗代さんは」 違和感を察したのか、こちらを窺うような顔を有にされて、深地はどきりした。ちょうど信号が青になって自然を装って視線を外した。 信号を超えて、急な坂道に差し掛かる。目的の場所はもうすぐこの上だ。後ろの荷台に乗っている予備の植木鉢がカタカタと揺れている。 「そういえば、深地くんはお姉さんが二人いるんだよね?」 有が興味津々に尋ねてきた。有が一人っ子である事は以前に会話の中で聞いたことがある。 「はい。二つ上と、三つ上に。二人とも結婚してて、上の姉には子どもがいます。姉の方が両親と同居してるんですけど、下の姉もパートナーと喧嘩してよく実家に帰ってるみたいで、そこで姉同士がまた喧嘩してるみたいです。きょうだいの三人グループトークがあるんですけど、何故か僕もわざわざ巻き込んで喧嘩するんですよ。まったく、小さい頃から仲がいいのか悪いのか分からなくて…」 「うふふ。でも、いいなあ。きょうだいって憧れる。歳の近いきょうだいとかいたら、変わってたのかな……」 羨ましいという気持ちを滲ませて、有ははにかんでいる。 「僕は姉二人ときょうだいじゃなかったら、こうなってなかったのかも…とか思ってしまうことありますよ」 苦笑しながら記憶を辿る。どの記憶の中でも姉二人は喧嘩をしている。しかも必ず深地を間に挟むのだ。流血沙汰にならないように無意識で二人ともやっているのかもしれないが、昔からとても迷惑だった。 「随分と影響されてるんだね。深地くん、なんとなく女性慣れしてるのも二人のお姉さんの影響なんだろうね」 「え! 女性慣れはしてるかもしれないですけど、別に遊んでないですよ!」 慌てて訂正する。有におかしなイメージを持たれたら叶わない。有は姉達が絶対に見せたりしない女神さまみたいに優しい笑顔で微笑む。 「はは、わかってるよ〜。そうじゃなくて、接客でも若い女性だからって態度が変わらないなって思って。誰にでも分け隔てがない感じがしていいなって思ってたよ」 「ああ、あんまり、性別ってそんなには意識しないかもしれないです。す、好きな人とかは別ですけど……いや、あっ、あと、彼氏がいる子は気を使うんですけどね。僕の親友同士がカップルなんですけど、彼女の方があんまりにも何も気にしない人だから困るんですよね」 「へぇ、私同年代のお友達っていなくて、よくわからないなぁ」 少し混ぜてみたフックにもちろん有は気がつかない。友達がいないことを自覚しているのか、とも思った。 「有さんは、友達欲しいですか?」 気の緩みから突っ込んだ質問が口から滑ら出る。そして、ほんの微かに期待を込めていた。 「同年代の? いやあ、どうかなぁ。ほら、高垣さんとかいるから特に欲しいとも思ったことないかなぁ。メロマヨさまは最初、私がクラスでひとりぼっちでいたら、たまに話しかけてくれるようになって仲良くなったの。そういう人、メロマヨさましかいなくて。苗代さんとは偶に会って話すだけだったし、年上だったから友達って感じもしなくて」 「ははは……」 何十歳も年上であろう高垣さんは友達の括りなのに……。だんだん苗代への同情による共感が強くなった。もしかしたら、苗代も合わせる人なのかもしれない。そして、有は誰にでも分け隔てなく優しい人だが、おそらく本質的には自分が興味のある人や事にしか興味がない。 そしてまた、深地も有にとっては友達だという認識はないらしい。人に期待をするなという話はさまざまな場面で言われる事だが、深地は未だにできていなかった。そして一生自分にはできないのではないかと思っていた。大いに期待して、傷ついて。それが深地の人との接し方だった。 有は深地の傷をまだ塞がらぬうちに撫でつけるように話し出す。深地は自分が望んだ事だったので有の方をしかと見た。 「メロマヨさまと付き合うきっかけはね、メロンパンだったんだけど、話すようになったきっかけは他にあるんだ。私、クラスの人たちに掃除の当番を一人で押し付けられちゃったことがあって、理科室の掃除をしに行ったの。そしたら、そこに日枝くんがいて、子どもが見るアニメの主題歌を歌っててね。その番組、日曜の朝にやってるんだけど、毎週欠かさず見てたからおもわず話しかけちゃったの。日枝くんは私と違って社交性はあったけど、一人でいることが多かった。その日から私たちは二人で一緒にいるようになったんだ」 車がカーブに差し掛かる。触れたりはしないが、ゆっくりと有の体が深地の方に傾ぐ。車道の電灯の光が、有の腹のあたりに差し込み、そして、カーブが終わるのと同時に光が引いていき、暗闇が潮のように満ち溢れた。有は構わずに話し続けた。 「メロマヨさまってね、替え歌とかが好きで、その曲を使って歌を歌ってくれた。毎回歌詞が変わったりしてすごい適当で。教義の一部を組み込んだりとかして」 有が窓に頭を預けて、鼻歌を歌う。吐息が、窓にかかる。その部分が少し白く濁った色になった。 「私の頭の中にずっと流れてる曲。流れている間はすごく安心するんだ」 「なんか、お守りみたいですね」 深地が素直な印象を言ってみると、フロントガラスに映った有の表情が俄かに華やぐ。 「深地くんいつも良いこと言ってくれるなあ。そうね、お守り。これも人に話したの初めてだよ。深地くんってすごく話しやすいから何でもかんでも話せちゃうな。お姉さんたちもそんな深地くんに甘えてるのね」 姉たちが自分に甘えているという発想はなかった。でも確かにそうなのかも知れない。今度喧嘩に巻き込まれたら、僕にいつまでも甘えていないでよと怒ろうかと思った。 それから何よりも、有が自分に信頼を寄せて嬉しい言葉をくれているのだと思うと、心が温かくなった。受けた傷なんてかすり傷程度のものに思えてきた。 しかし、和やかな雰囲気はそこで不意に途切れる。有が消沈して息をついた。 「でも最近聴こえないことがあって……」 「え?」 「あ、ううん。なんでもないの」 「そうですか? あ、有さんつきました。ここです」 車はちょうど高台の一番上に着いた。駐車スペースに車を停めると、もうそこから有に見せたい景色が見えていた。有のこぼした一言が気になったが、先に見せたい物があった。 「うわあ」 有から感嘆の声が上がる。深地はそれだけで来てよかったと報われてしまった。 高台の上からは、深地たちが生きている街の夜景を一望することができた。高いビルやタワーが遠くに見えて、大きさや色の違う光がひしめいている。光の粒の集まったところなどを一纏めにして花束のようにしたいと、恥ずかしいことをつい思ってしまう。 「降りて見てみよっか」 有はいうやいなや、扉を開ける。有に続いて深地も車から外に出た。 有は落下防止用の柵に手を置いて、身を乗り出した。深地はその後ろで景色を楽しむ。後ろから垣間見える有の表情は子どものようだった。 夏の盛りを過ぎた夜気は、秋の気配を含ませて、少し肌寒かった。けれど胸は暖かさに包まれている。吸い込む空気は何か新鮮なものに感じて、まだまだ遠い、夜明けまでの期待をたっぷりと含んでいた。 「うちの店はどこだろう」 「あの辺だと思います」 深地が後ろから指差して、振り向いた有の視線がその先を追う。 有は「そうかあ」と、感慨深げに漏らした。 数分間の無言の時が流れた。それぞれの中で、同じものを見て同じ時間が消費されていく。 深地は期待していた。もし、こうして少しずつ有が今まで見てこなかった世界を、自分が見せてあげられるようになれば、有は次第に自ら外を望むようになってくれるのではないかと思ったのだ。 「綺麗だね、深地くん」 「はい」 「じゃあ、そろそろ帰ろっか」 余韻を切り上げるように、有が言った。ぴょいと興味を失って、有は淡白にも夜景に背中を向ける。 「……」 そこで深地は気がついてしまう。彼女の今日のこの体験はごくごく小さな異常であり、明日になれば無意識に修復可能なただの記憶の一片になってしまう出来事になると、深地は確信した。それが妙に切なくなって、深地は有が横を通り過ぎるまで動けなかった。 「今日はありがとう」 後ろからかかった言葉に振り返る。有は何も知らずに笑っていた。深地はその言葉をどう受け止めたら良いのかがわからずに、彼女の言葉に何も返すことができなかった。彼女の中身は相変わらず過去で満たされていて、体の細胞ばかりが入れ替わり立ち替わりで彼女の内面が変わるのを許さなかった。 有の背後には鬱蒼とした木々が長く高く、空を覆っている。その隙間から見える月は、どこまでもどこまでも彼女を追いかけてきて、有を車に乗せて走っても、振り切ってあげられる気がしなかった。 「ここからは私が運転しようか」 「……いえ、大丈夫ですよ」
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