手がかりを失ったが得た情報は多い。深地は家に帰って顔を洗いながら、前向きに考えていた。 幸則と有は一緒にいる——そして幸則は有を隠している。 まさか有が切迫して危険な状況にあるとは考えづらかったが、幸則の意味深な発言が引っかかった。すぐに何か行動に移さないではいられなかった。 ヘアバンド姿の深地は男性用化粧水をコットンにつけてパッティングしながら考える。 有がいそうな場所はどこか。そして、これだけは確信があった。 有がこの街を出るわけがない。 突き詰めて考える。有がこの街にいるのだとしたら居る場所は限られてくる。 高垣の家にも伺って、有のことを尋ねたが、高垣は休業中であると知らせが来たという他は何も知らなかった。高垣に有を説得してもらおうかとも考えていたが、味方になってもらえるとは考えづらかった。 化粧水を馴染ませ終わって、深地は足元に目を向けた。 その時、脳内に閃きが広がった。そして深地は手の中にある使い終わったコットンを見て、自分が見たものをしっかりと思い出したのだ。 顔あげて鏡を見る。曇った鏡をタオルで拭って、映り込んだ自分自身に向かって大きく頷いた。 そして、コットンを足元のゴミ箱に放った。 * その翌日の早朝、深地はMelopeponの前に立っていた。 深地はすぐに店の裏手に回る。 やっぱり。深地は確信した。そこには廃棄の花が置いてあった。 ゴミの回収は、火曜日と土曜日。そして今日は土曜日の早朝。 その前だってそうだった。一週間ゴミ袋が回収されないまま置いてあることに違和感を感じるべきだった。よく見ることもしないで、深地は違うゴミを同じものだと思い込んでいたのだ。 店の裏手はそのまま周辺の店のゴミ集積場所になっている。 深地はしゃがみこんでゴミ袋の中を確認する。その中身は初日に確認した花ではなく、全く別のものが入っていた。それに加えて、ゴミ箱には花に混じって生活ゴミも混じっている。 ーー有さんは、ここにいるんだ。 そして、それから三日後の月曜日まで深地は耐えた。そして夕方になって、再び店を訪れた。 裏の勝手口の見える位置で曲がり角を利用して身を隠す。数時間そこでひたすら待った。 すると、十九時半を過ぎた時、ドアが内側から開かれ——有が出てきた。 新たなゴミ袋を持っていた。有はいつも回収日前日の営業終了前後にはゴミを外に出すのが習慣となっている。営業はしていないが、慣習通りの時間に現れた。 その表情には、生気がなかった。ドアの中に戻っていく背中もいつもよりずっと頼りなく見えた。そのまま冷たくドアは閉ざされる。 今すぐ駆け寄ってなんとか話してくれないかと詰め寄りたい気持ちにもなったが、深地は堪えていた。この位置から駆け寄ってもすぐにドアを閉められて逃げ込まれてしまう可能性の方が高かったからだった。 ただ生きていることに安心した。深地はすんと鼻を啜って、早速メールを作成するためにスマホを開く。あまりこんな手は使いたくなかったが、覚悟してメールを送った。 【お久しぶりです。実は店に置いてきたものがあるので、中に入りたいです。どこにあるのか分からないので自分で探します。今からお尋ねしてもいいでしょうか】 返信は三十分ほど後になってきた。 【わかりました。今日は困るので明日お願いします。私は会えないので、明日丸一日裏口の鍵を開けておきます。鍵のことは気にしないで、そのまま帰って大丈夫です】 スマホの画面に目を落としながら、深地は下唇を噛んだ。今からすることは有の信頼を裏切る行為だ。そうわかりながらも、深地は裏口のドアに近寄った。 深地には不安があった。幸則は有を隠していると言った。それは幸則が有を今の状況に追いやったという意味なのではないかと考えた為だった。幸則が有を傷つけるはずがない。そう信じていても、今、確かめなくてはならないと思った。 耳をそばだてる。何時間か待つことになるかもしれない。 しかし、予想に反して、内側からの解錠の音はすぐにした。 自分自身の大きな心音を聴きながら、深地はドアの前に移動した。通報されるかもしれない。それによって有に一生会えなくなることが怖かった。それでも、彼女があんな顔をして、今いるのなら、何もしないままでいられなかった。 まだドアの近くにいる有を追いかけても、怯えさせるだけだと思った深地は、五分ほど待ってからドアを薄く開けた。そして静かに室内に呼びかける。 「有さん、こんばんは! ごめんなさい、来ちゃいました」 しかし、返事はない。居留守を使われているらしかったが、ここまで来たら引き下がれなかった。 店の正面口はシャッターを上げてからではないと開くことができないので、有が外に逃げた可能性はない。しかし、花がほとんどなく、植木の緑しかなくなったがらんどうとした店内にも彼女はいなかった。それから更衣室、控室、トイレもノックしてみて、探して行っても、彼女の姿は見つけられなかった。 そして、最後に残ったのは——地下の物置。 深地は控室と通じている地下室への扉を見つめた。店と同じ敷地面積の地下室では、在庫などのほか、蘭の鉢植えを保管している。普段は施錠してあり、鍵は有が管理していた。 緊迫感を感じながらドアノブを回すと、ドアはあっけなく開いた。その下には長い階段が続いており、急勾配のため、入り口から見下ろすと、階段のすぐ真下くらいしか見ることができなかった。 地下室にはぼんやりと明かりが灯っていた。電気が通っているので、普段は天井の照明一つで部屋全体が明るくなるのだが、今は電気は消されていて、蝋燭と思しきあかりでぼんやりと照らされている。 深地は靴音を立てないように注意しながら、一段一段降りていく。 深地が降下していくに連れて、段々と部屋の様子が見えてくる。 薄暗い部屋の正面には、祭壇があった。店にあるものをもう少し大きくしたくらいの大きさだった。コスモス、ダリア、ピンポンマム、菊など、多種多様な秋の花で飾られていた。その中には彼岸花の切り花もあった。水の入ったガラスの花瓶に一輪さされている。 そして、その中心には、メロンパンが、一つ。 祭壇の目の前の床には円状に蝋燭がいくつか立てられていた。 その中心に、正座する女性の後ろ姿があった。 「有さんっ——」 「深地くん……」 座ったままの有は、やや愚鈍な動きで首だけ振り返った。顔の血色が悪い。深地はなるべく刺激しないように正直に頭を下げて説明した。 「すみません、嘘ついて入って来ちゃいました。なんか、様子がおかしかったから……」 「会えないって言ったよね。こんなところまで入ってきて……地下室の鍵閉めておくんだった……。深地くん、ごめん、帰ってもらえるかな……」 鬱陶しそうに、有は深地をあしらった。それでも深地は引き下がるつもりはなかった。 「顔色がすごく悪いし、体調悪そうですけど、病院に行きましょう。ここから出て」 「ここを離れられないの、今」 「どうして」 「人に会ってはいけないって言われてて……深地くんにも会いたくなかったのに……どうしよう、また罪が増えてしまう……」 有は額に手を当てて前髪を乱雑にかきあげ、口の中で何か言った後、祭壇に振り返る。 「メロマヨさま……」 有は呟いて、手を合わせて何かを念じるだか、祈るだかを始めていた。 その有の様子を目にして、深地は湧き上がる感情のまま、半ば叫びに近い声を上げる。 「言われてって……それって、有さんの意思でここにいるわけじゃないんじゃないですか!」 すかさず有は反論する。 「私の意思だよ。ここにいなきゃなの」 「そんな、だって……。会ってはいけない、離れてはいけないって……ここに監禁されてるんじゃ——」 深地は顔を青くして有の姿を改めて見る。薄暗い中でも、やつれた表情は見てとることができた。心なしか最後にあった時よりもずっと痩せているような気がした。 「監禁って……そんなんじゃないよ……」 有は説明するのも億劫そうに、重い口を開いた。 「私の信仰の乱れがあって、ここでお祈りしなくちゃいけなくて」 有は片腕をもう片方の腕で抱いた。有の体は震えていた。 「実はね、裏の教義があったの。本当はメロマヨ教は誰にも教えちゃいけなかった。だけど私、色んな人にたくさん話しちゃった。教義に反する事をしたら、重い罰がある。だけど、悔い改めて禊をすれば許される」 有は目に涙を溜めて、迷い児のようだった。地下の空気は冷たく淀み、蝋燭の炎は小さく今にも消えてしまいそうに揺れる。地下に人工的に作られた穴はまるで棺の中を思わせ、閉塞感が深地の恐怖を煽った。 有が俯いたまま、ぼそぼそと言った。 「深地くんはずっと近くにいて親しい位置にいたし、それが一番良くないって」 「そう、言われたんですね——幸則くんに」 深地は有言ったが、彼女は反応しない。しかし、それは肯定の意味が読み取れた。 すると。 「そうだよ」 深地は背後から掛かった肯定の声に振り返った。かつんかつんと冷たい足音がして、スニーカーを履いた足が見えてくる。地上から差し込む、蛍光灯の光が後光のように降り注ぎ、地下の地面に人影を落としていた。そして、地下室の頼りげのない灯りに照らされていた室内が、パチンッという音とともに明るくなる。 「見つかちゃったね」 幸則は浮世離れした微笑みを浮かべていた。深地は幸則と対峙する。ぴりぴりとした緊張感の中、深地は幸則に尋ねた。 「どうしてこんなことしてるの」 「有が怖がってるから」 「怖い?」 深地は有に視線を向ける。有は床にへたり込んだまま微動だにしない。 「きこえないんだって。だから怖いんだって。だからここで守ってるんだ」 「聴こえないって何が」 「聴こえないの」 言って、有が急に顔を上げた。怯えた瞳は祭壇を見ている。 「いつもは頭の中で、歌が聴こえてくるの。いつかメロマヨさまと見た、アニメの主題歌。僕には君がいれば大丈夫。君には僕がいれば、大丈夫って、言ってたのに……」 有は息を詰まらせて、涙を流していた。 「聴こえ、ないの」 有は耳を塞いだ。神経を内側へと集中するために見えた。 気がつくと、幸則が有に近づいていた。その耳元に囁く。悪魔にも天使にも見える、美しい表情だった。 「メロマヨさまから送られてくる、メロマヨさまとの特別な繋がりが薄れているんだ。お祈りを続ければ怖くなくなるよ。また聴こえるようになる」 「幸則くん!」 名前を呼んで制止すると、幸則は深地を敵意の眼差しで見上げた。深地は幸則から目を逸らして、有に語りかける。 「もうやめてください」 「でも私、ここにいなきゃ」 「こんなことしなくたって、聴こえなくたって、あなたは生きていけるはずなんです」 「——深地くんは、私から神さまを奪う気なの」 見開かられた目は、深地を憎悪していると伝えてきた。強い口調で憎しみを向けられて、深地は怖じける。有の表面に張った膜に、深地の言葉は全て跳ね返されているような感覚に陥る。電話口で苗代に言われた言葉が思い出されて胸に刺さった。
コメントはまだありません