「大変だったね深地くん」 普段通りまで回復していた有は、自分のことよりも先に深地の心配をした。あれから一ヶ月経っていた。 店の中は秋の花々が新しく仕入れられていて、営業再開の準備は万全だった。 「いえ、ご心配おかけしました。有さんも、大丈夫でしたか?」 あの夜のことは三人の秘密にするつもりだったが、致し方なく、苗代には説明したらしい。 苗代に有が営業の再開を連絡し、その後、苗代が店を訪ねてきた。連絡はくれていたし、深地から離れるためだったとはいえ、突然の失踪に不信感を抱いたことを伝えられて、今までどこにいて何をしていたのかの説明を、有は苗代に求められたそうだ。有は、事の顛末を正直に話した。もちろん苗代はそれを聞いて幸則を引き取ると強硬な姿勢を作ったが、幸則が割って入ったそうだった。 「神さまの子どもはやめる。もうオレはメロマヨ教とはかんけーない」と宣言して。 有は苗代に、幸則を宗教儀式に参加させないことを約束し、今後は店内でのお祈りも控えることを取り決めた。苗代は渋い反応をしたらしいが、元から苗代は有に甘いので(深地はそう思っている)経過を見ることになった。 「うん、この通りだよ」 有が二の腕を叩いて快気をアピールする。 有はメロマヨ教の信者を辞めることはなかった。幸則だけが神さまの子どもを辞めた。祭壇を壊しても、信仰はなくならない。当然のことだった。 あの夜、祭壇を壊した後、深地は有に絶縁されると思っていた。「私はメロマヨ教はやめられない。けど、幸則くんを神さまの子ども扱いするのは辞める」と告げられた。また同じことを繰り返すのかも知れなかったが、取り決めを守ると言った有を信じようと思った。 深地は有のすぐ隣に話しかけた。 「幸則くんは元気?」 「まあね」 いつも通りの生意気な態度で、幸則は返事をよこした。 幸則は有に、神さまの子ども扱いをしないと言われて、複雑な表情を浮かべていた。寂しさと心許なさが多くみて取れた。彼にとって、人生と同じ時間を共にしてきたものとの訣別でもあるのだ。自分は神さまでないと自覚が元からあり、まだ子どもといえども、別の生き方をするのは容易ではないと深地は思っていた。実際に彼がどう思っているのかはわからない。 深地は思い切って、このひと月考えていた事を二人に提案した。 「あの、幸則くんが人の子になった記念に、何かしませんか?」 「なにそれ」 しれっとした顔で幸則は返したが、少し照れ臭そうに腕を後ろに回した。 有が嬉しそうに何度も頷く。 「いいね! じゃあ、幸則くんがしたいことをしよう!」 自分よりも乗り気な有を見て、幸則の頬が赤らむ。 「うん」 素直に頷いた幸則の目は、喜びに輝いていた。絵日記なんて幼稚だと馬鹿にしていた彼の姿が今急に思い出されて、深地は反省した。思いを正確に汲み取ってあげられていなかった。 「幸則くん何かやりたいことないの?」 深地が尋ねると、幸則はうーん、と唸って考えだした。そして、数秒の後、言った。 「どこかへ行ってみたい。この街の外に」 「外……」 有を連れ去られるのではないかと怯えていた幸則がそんな事を言ったので、深地は驚いた。そしてまた、そうかと一人で納得する。遠足も自分の意思で全て欠席していたようだ。幸則もこの街を出たことがないのだ。彼も有と同じで、外の世界を知らない。 有の目も、驚きと期待に瞬いたが、大きな不安が籠っているのがわかった。 「どこかって、どこに行く?」 有が探るように尋ねると、幸則は元気に答えた。 「海、行ってみたい」 「海!」 高い声を上げて繰り返しつつも、有の顔が少し陰る。深地が有の心中を想像して心配になって彼女を見ていると、目があった。有は気まずげに、目で不安を伝えてくる。幸則もそれを感じ取ってしまったらしく、少し遠慮がちになって言った。 「だめ、かな」 有が慌てて言う。 「そうじゃ、ないよ、だけど、街の外に行くのがね、私はちょっと怖くて……。この前、深地くんに夜景を見に連れて行ってもらった時も感動したんだけど、怖くて怖くてしかたなくて……」 「そうだったんですか……」 有が「あの時、言えなくて早めに切り上げちゃった。ごめんなさい」と深地に頭を下げた。自分の無配慮に責任を感じて、深地も頭を下げる。 「ごめんなさい。僕、気がつかなくて……」 「ううん、感動したんだよ。嬉しかったよ。改めてありがとう深地くん」 「有さん……」 有は節目で忙しなく左右に瞳を揺らしている。そして、何か心に決めたように顔を上げた。 「だけど、行こう。私も、幸則くんが行きたいって言ってくれて、勇気もらった。行きたい」 幸則の表情が嬉々としたものになる。有が頭の後ろに片手をやって言った。 「東京湾も見たことないんだぁ」 「オレもテレビとかネットでしか見たことない。深地は行ったことある?」 「友達や家族と何回かね」 海はどんな感じなのかと根掘り葉掘り聞かれた。見た事のないものに想いを馳せる二人はとても幼くて、眩しかった。 その顔を見ながら、深地は決心した。
コメントはまだありません