世界で三番目の男
二章 ③『向日葵と百合と紫陽花』

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 その日、深地は今朝、占いをしっかりとチェックした。午後からの待ち合わせだというのに、いつも見ている朝のニュース番組が放映される二時間も前に起きてしまった。 『第六位は魚座のあなた! 今日はこれといって何も起こらない日! 平和が一番!』  という、占い師が締め切りギリギリに半ばやけくそで提出したんじゃないかと疑うような内容だった。十二位の蠍座も「天敵といがみ合う日になるかも。イタチのような人には気をつけて!」というよくわからない具合だ。  そんな結果でも気にせず、深地は念入りに身支度をした。集合時間は午後一時。まだまだ時間はたっぷりあった。いつもは店のエプロンに合わせたコーディネートをしているが、今日は休日の格好でいいと有から言われている。深地は姿見の前に立った。ボタニカルな総柄のカーキのオープンカラーシャツに、黒のスキニーパンツ。作業もあるので動きやすさも重視して装飾品はつけなかった。いつもはつけないが、香水も控えめに振りかけた。  もし、哲太の占いの結果がなかったら。有と出会っていなかったら。今朝の占い通りに世界は回ったのかもしれなかった。はたまた、結果として、今日は何もない日になるのかもしれなかった。  でも、今日の深地も自らの意思を持ってして、特別な日にすることができる。そんな期待に胸が高鳴っていた。  そして、深地は時計の時間を確認してから、すぐに玄関に向かった。   「この量を一人で運ぶつもりだったんですか?」  深地は店先に並べられた十を超える数の、一個一個が大きな鉢植えを指した。 「こんなのどうってことないよー。いつものことだし。今日行く知り合いの家、お庭がおっきくてね。いろんな花を育ててるんだ。きっと驚くよ」  店の前には配送用のワンボックスカーが駐車されている。積み込むために店先に有が出してくれた鉢植えを車の荷台に積み込んでいく。有は一番大きな鉢植えを運ぼうと手をかけていた。 「有さんそれは流石に僕が」 「大丈夫! 私、けっこう力持ちだから!」  言葉通り、小さな掛け声とともに有はその鉢植えを持ち上げた。 「メロマヨさまも言ってた。身体的に、精神的に、力あるものはその力を人のために行使せよ。その力をやっかまれたとしても、自ら奉仕せよ。メロマヨ教の基本理念の一つだよ。私が中学の時に同じクラスの男子に体力測定の結果を揶揄われた時に授けてくれた言葉だよ。私、握力すごいんだから」  握力の問題ではない気がする……。その話を聞いて、ふと、メロマヨさまは有の行動に沿って、教義を作っていたのではないかと感じた。メロマヨさまの教えに則れば、私の世界を救ってくれる——。と、有は話してくれた。しかし、聖訓の方が有のために作られているような。彼女が現実と擦れ合うことで教えの内容は作られて、彼女が今こうして教条を一つ一つ思い出して言葉を蘇らせていくことで、この世に再生産されていくような。  それを聞いている深地の頭には風車が浮かんだ。少し形の歪な風車。風があって、やっと回ることができる。風が当たってやっと風車は回り、後ろ風ではよく回らない。風車はその間に風を通して、風の流れを作っていく。 「深地くん、もっと中にあるもの詰めて寄せたいから、動かしてくれる? あと、向こうにあるの持ってきてくれるかな」 「はい」  深地は思考を切り上げて、言われた通りに鉢植えを運んだ。そして車の荷台に乗っかった有がそれを受けとって、車内の奥から積み込んでいく。深地はヒヤシンスの鉢植えを抱えながら言った。 「有さんは今日行くところが地元なんですよね? メロマヨさまとの思い出が色々あるんじゃないですか」 「うん。たくさんあるよ」  有は笑った。その顔はいつも見せる笑顔とは少し違ったものだ。胸の中心が鋭く痛んで、深地はぐっと鉢植えを抱いた。 「深地くん?」 「あ、すみません!」  有が手を差し出しているのに気がついて、深地は慌てて手渡した。  残りの鉢も全て積み終わって、有が車外に出ると、深地がバックドアを閉めた。    深地の運転で、都会の細道を進み、次第に背の高いビルは少なくなってくる。  途中で学校が見えた。校庭にいる学生の雰囲気から、おそらく中学校だった。  有が懐かしそうに声を上げる。 「ここが私とメロマヨさまの出身中学。出会った場所だよ」 「ここですか!」  早速思い出の地を見ることができて、深地は聖地巡礼した気分になってテンションが上がった。回収された跡もない古めかしい校舎はきっと、有が通っていた頃のままなのだろう。有が見ていたものを追体験できるだけで、嬉しくてしょうがなかった。 「深地くん、なんだか機嫌いいね」  有がくすくすと笑ったので、赤面して前を見る。 「有さん、有さんの昔のこととか、メロマヨ様のことでもいいし、もっと教えてください」  そう言うと、有は不思議そうな顔をしたが、悪い気はしなかったようで「なんでも聞いてね」と快く答えてくれた。  そして、周りの建物が住宅街の雰囲気になってきた。細い道を何度も曲がって、目の前に立派な門構えの邸宅にたどり着いた。 「深地くん、ここだよ」  二十分もかからないうちに目的の場所に着いたようだ。中学校をみることができたものの、ドライブデートにしては早く終わってしまい、不完全燃焼な気持ちで深地はブレーキを踏んだ。 「このまま中に停めちゃって」  高い石塀で囲まれた広い敷地の日本家屋だった。車に乗ったまま塀の内側に入ると、多種多様な植物たちが、ある意味で家主の節操なさを表すように、ある意味では植物本来の在り方として至るかしこに存在していた。日本家屋に似合いの松や盆栽。それとは対照的に西洋風の低木や薔薇も植っている。奥には畑も見えた。有のいう通り、驚くほどの広さだった。  有は車の扉を開けて、玉砂利の地面に足をつけた。有がインターホンを鳴らす。深地はその後ろで控えていた。高齢の男性と思しき声がインターホンから聞こえる。少しやりとりした後、ガラス戸の向こうに影が差して、玄関の引き戸が開かれた。 「はいこんにちは。ありがとねいつも」  白髪頭の男性は杖をついて現れた。高垣さんというそうだ。植物に詳しく、花屋の店舗を持つ時に色々とお世話になった有の恩人だ。 「この子がバイトくんね。じゃあ早速言う通りに運んでね」 「はい!」  高垣に言われるまま、鉢植えを下ろして配置していく。高垣が鉢植えを見て、杖で置く場所を差し、深地と有が二人がかりでその指示に従う。 「ヒヤシンスはそこ」 「はい」  広い敷地の中に、鉢植えたちを埋め込むように置いていく。松の真下にアガパンサスの長い植木鉢が置かれていたり、苔生した庭石の真横にハーブ類の生えた花壇があったりと、ややちぐはぐだが、不思議と調和が取れていた。塀に囲まれたこの家全体が、一個の寄せ植えの鉢のようだと思った。  一時間半ほど経った頃、全ての作業が終了した。 「おあがんなさい。お茶でも飲んでいきな」 「ありがとうございます。深地くんも遠慮しないで大丈夫」 「はい」  有が先に入って、そのまま「お茶の準備させてもらいますね」と言いながら、高垣の横を通って奥に行ってしまった。高垣が冷蔵庫の麦茶のことを言ったが、「高垣さん熱いお茶が好きでしょう?」と有は譲らなかった。  玄関には、上り框を上ったところにいる高垣とまだ敷居も跨いでいない深地だけが残された。深地は遅れて中に入ると、煤けた白いスニーカーを脱いで、靴を揃えるために高垣の方に背を向けてしゃがんだ。  そんな深地の背中に向かって、高垣は言った。 「有ちゃんは変わってるけど優しいから。君もよくしてくれると嬉しいね」  杖の柄で、深地の肩をトントンとしてくる。深地は自信を持って答えた。 「はいもちろんです。とてもよくしてもらってますし、素敵な人ですから」 「ほう」  高垣は表情の乏しい顔で頷くと、それ以上何も言わずに、ついて来いといった感じで襖の向こうに進んだ。深地も大きな家に萎縮しながら、その後に続いた。  畳敷の居間に通された深地は、座卓の下座についた。フリーター生活が長くなったとはいえ、新卒では食品メーカーに営業として勤めていたので、知識は普通にあった。残業続きの会社勤めが性に合わずに、三年経たずに辞めてしまったが。でも、辞めてからの生活の方が好きなので、未練はなく、挫折とも思っていなかった。 「君、花は好きか」 「はい」  上座の方から投げかけられた高垣の質問に、深地は考える時間を要さずに頷いた。好きか嫌いかで言ったら、好きだ。好意がある。それで深地には十分だった。  それきり沈黙が落ちる。 「そうか」  しばらく待っていたように一声出した高垣は、どこか寂しげに言った。正座を崩さず、杖をついている時とは打って変わって、背筋が伸びている。深地はただ沈黙に耐えるしかなかった。ややあってから、高垣は言う。 「有ちゃんは、よくわからないことも言うが、花のことも色々知っていて、よく話すだろう?」 「そうですね。仕事のことも、趣味で育ててる花のことへもアドバイスしてくれたりします」  メロマヨ教のことばかりで忘れがちだが、接客の場面でも、業者とのやり取りでも、流石は花屋の店主だと、何度も思った。真面目で働き者で勉強熱心なところも尊敬している。 「私は植物が好きだ」  高垣は宣言するように言った。視線は外の庭に置かれている。 「何故好きかなんてことは歳をとるのに連れて忘れていった。もしかしたら、そんなものは初めからなかったのかもしれん。しかし、その理由を追い求めているから、私は今もこうしているのだ。〝何故〟に想いを馳せると深入りする。そこが良い結果を産んだり、悪い結果を招いたりする。その時の状況にも影響を受ける」  高垣は目を閉じた。死んでしまったかのように動かない。深地は余計に何も言えなかった。目を閉じたまま、高垣は言った。 「妻とは趣味を通じて知り合って、趣味のせいで離れていった」  縁側の外には、緑が眩しいくらいにその生をまっとうし、混じり合い、食い合いながらも、その形を保っている。統一感のない庭は、それでも一つ一つが丁寧に世話されて、葉や茎、枝、花弁、雄しべと雌しべの一つ一つまでが他に同じもののないものとして、存在を主張していた。複雑な調和が生み出されているのは、高垣の育成技術の高さに寄るものなのだろうと推測できた。  高垣は節目で薄く目を開く。まだ微睡の中にいるように、周囲には静かな時間が流れていた。 「妻は私に合わせていてくれただけで、同じ熱量を持ってして応えてはくれなかった」  深地は自分と高垣の元妻を重ねた。花が好きだということは借り物の感情なのだろうか。 「花が、好きか?」  高垣は深地にまた同じことを聞いた。深地は躊躇いがちに答えた。他と比べてしまえばい、自信はないのかもしれなかった。それでも。 「好き、と思います。好きです。一番ではないと思います。いろんなきっかけで今ここにいるだけだから、今周りにあるものが変わったら、入れ替わってしまうのかもしれない。だけど、今の僕は、嘘なく言えます。好きです」 「……そうか。そういう好きもあったのかもしれないな」  高垣は苦々しく笑った。高垣の顔を見て、疑問が湧き立つ。花は今、深地の人生にとって大きな割合を占めていた。だから、好きだと言える。  ならば、メロマヨ教はどうだろう。  彼女の好きなもの。神さま、神さまの子ども。それから神さまの教え——教義それ自体は一体何位になるのだろう。彼女の血肉であり、一部である教義を、自分はどこまで許容することができるだろう。こんなことを考えている自分を、有はどこまで許すのだろう。 「——なんの話ですか?」  お盆に湯呑みを三つと急須、茶葉の缶を乗せて、有が居間に入ってきた。湯呑みを深地と高垣の前に起き、自分の湯呑みを持って高垣の側に座った。 「深地くんは花が好きだそうだ」 「ふふ、面接の時に言ってたよね。花に囲まれて、素敵な人になりたいって」  言われて深地は思い出す。そんなことを言ったような気がする。面接の時はメロマヨ教のことで頭がいっぱいで、あまり覚えていなかった。 「深地くんが花が好きで良かったよ」  有の何気ない言葉が、深地に突き刺さった。自分は彼女の期待に応えられる人間でいられているのだろうか。  深地は触った湯呑みの熱さに手を引っ込めた。有が湯呑みを置いてくれた手を思い出す。熱のこもった表面になんなく触れていた。  有が言った。 「花屋は花が好きなだけじゃやっていけないけど、前提として、花が好きじゃないとやっていけない。朝から晩までお花に振り回されるような生活してるでしょう。花が咲く前に迎えに行って、萎れる前に届けてあげなきゃいけないし、その分お手入れが必要だしね。それにとても繊細。花に合わせて生きないと、花の方が死んでしまう。美しさは賞味期限が短いからね」  有は息をついた。まるで手のかかる恋人の話をしているようだと思った。  高垣が、有から出されたお茶をぐいと飲む。有も普通の顔で口にお茶を含んで、飲み込んでいた。それに倣って、焦りを誤魔化すように湯呑みに口をつけると、舌を酷く火傷した。深地はそのことを二人に告げずに、会話に適度な相槌を打つ。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません