薔薇色の人生
不思議な女

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 要と初めて話したときの印象は『不思議なことを言う女だ』というものだった。 「わたくし、本名は芙蓉ふようと申しますの。でもそれじゃ不要、要らないみたいじゃございません? ですから『不要ではなく必要』という意味でお店ではかなめと名乗ることにしましたの。以後よろしくお見知りおきくださいましね?」  そう挨拶して微笑んだ要の口元から見える歯が綺麗だったので、「綺麗な歯だね……」と馬鹿みたいな返事をしてしまった。『もう少し気の利いたセリフを言えば良かった』と後悔したが、要はそんなことはまったく気にしない様子で言葉を続けた。 「小学生の頃二回、歯で表彰されましたわ。虫歯が一本もなくて歯周炎も歯肉炎もなければ表彰されるんですの。でもクラスメイトたちからは不興を買いましたわ。『歯磨きしてないくせに!』って」 「誰が歯磨きをしてるとかしてないなんてわかるの?」  私は素朴な疑問を口にした。 「ええ、私の通っていた小学校では歯磨き運動というものが盛んで、給食後には歯磨きをするという指導がございましたの。でも私は給食後の歯磨きはしておりませんでした」 「どうして?」と、至極当然な疑問を口にした。 「だって、歯ブラシは教室の後ろに無防備にかけておかなければなりませんでしたものですから。いつ誰にどんなおぞましい悪戯をされているかもしれませんもの」 「たとえば?」  おぞましい悪戯という意味がわからなかったのだ。 「私の歯ブラシが床にこすりつけられているかもしれませんし、便器の水たまりの中に浸けてから戻されているかもしれませんわ。私、クラスメイトたちからは憎悪されておりましたものですから」  要は淡々と語った。 「『憎悪』ってずいぶん強い言葉を使うんだね。そんなに君が憎まれるのってなぜだい?」 「それは、私が宿題もしないくせにテストの点数が良かったからですわ……」 「なぜ宿題をしなかったの?」  要の言うことは謎だらけだった。 「父が私に課した教育方針で、宿題も予習も復習も一切禁止されておりましたの。ですから私は宿題をすることが許されず、先生方からは嫌われクラスメイトたちからは軽蔑されておりました」  要は少しだけ悲しげに言った。 「それは妙な教育方針だね」  私は要を気の毒にも思ったし、そんな教育方針は奇妙だと思ったので率直な感想を口にした。 「ええ、まったく同感です。おかげで『宿題もしないくせに僕、私より成績が良いなんて許せない!』と憎まれました。ええ、ほとんどのクラスメイトたちは私より成績が悪かったものですから」  現代では銀座でもめったに聞くことのない山の手言葉で要は話した。どこまで本当の話なのかと思うくらい不条理な話だったが、親しくなるにつれ彼女の言っていることは本当のことなのだとわかってきた。  要は何より嘘をつくことを嫌う正直者だったのだ。要は子供の頃から心の痛みを知っている。だから人の心の痛みもわかるのだ。私が何も言わなくても慈悲深い聖母のようにすべてを理解し、私という存在を丸ごと暖かく包み込み、優しく癒やしてくれるのだ。

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