中途半端ブルース
1話 幼少期

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 ここに一冊の小説がある。  部屋の片付けをしていたら出てきたものだ。  これは、ある時期に付き合いのあった男が書いたもので、義理で彼から買ったか、ありがた迷惑で貰ったかは、記憶が曖昧だ。  一度も読んだことはなく読む気もなかったが、捨てるのもなんとなく忍びなかったので、部屋の片隅に埋もれていたのだ。  ハッキリ言って要らないものなので、もう捨てようと思ったが、何となく私に魔が差してしまった。  捨てる前に一度読んでみようと思ったのである。  私は何の期待もせず、美容院の待ち時間に読む中途半端に古い雑誌をめくるような心持ちで、その小説を開いた。  ...... ーーーーーーーーーーーーーーー (一)  今年で〇〇歳になる中途半端な男は、節目に感じるその年齢に至るにあたり、何か今までにない、不思議な心持ちになっていた。  ここで一度、過去を、人生を振り返ってみようと思ったのである。(たかが〇〇年で?というのは置いておこう)  それがなぜ不思議かというと、この男は、元来極端に過去を振り返りたがらないからだ。それこそ昨日の事すら思い出したくないのである。  自分の、そのたいした事のなさ極まりない人生そのものに、その苦労とも不幸とも経験とも言えない、ただ要領の悪いだけの人生そのものに、恥ずかしさ、いや、それこそ劣等感すら抱いているぐらいである。  しかし今、それでも尚、振り返らざるをえないような不思議な感情が、この男の中に沸き起こっている。  やがてどうもこの感情には逆らえそうにないというのがわかり、諦めて、苦痛を想像しながらも「よし、今ここで一度だけ、本格的に自分の人生を振り返ってみよう」と、中途半端な男は決意する。  すると、次第に男の頭と心に、走馬灯のように様々な記憶が、温かさと冷たさを持って流れ始めた。 ーーーーーー    まず、自分の中にある最も古い記憶は何か。そこから始めよう。  最も古い記憶、といっても、当たり前だが、言葉を話せなかった頃の記憶はない。  では言葉を話せるようになってから、所謂物心ついてからの最も古い記憶は、幼稚園生後期以降になる。  幼稚園生の頃の僕は、一体どんなだっただろうか。  この頃の記憶ははっきり言って夢うつつなのだが、僕は幼稚園で友達が一人しかいなくて、それ以外の子供達とは全くしゃべらなかったように思う。  極度の人見知りで、いつもおどおどしている子供だった。 でも家では元気で、所謂内弁慶というやつだ。  そんな人見知りで内弁慶の僕が、運動会のリレーでダントツに一位をとってしまった事がある。  周りはみんな驚いたように褒めてくれたのだが、僕は自分が目立ってしまった事がたまらなく恥ずかしくなって逃げ出したいような気持ちになってしまい、もう思いっきり走るのはよそう、とその時思った。  どうもこの時から僕は、体育の授業が嫌いになったような気がする。  この出来事は妙に印象的で、これに関しては今でもハッキリと覚えている。  そして、これともう一つ、この頃の印象的な出来事がある。  ある日、どこかの公園に家族で行った時の事。  その日は冬真っ只中の寒い日で、その公園の中にある池の表面が凍っていた。  僕は無謀な子供心で、その凍った池の上に乗れるんじゃないかと思い、池に足を伸ばして乗ろうとすると、案の定、バチャン!と池に落ちてしまった。  そしてずぶ濡れになった僕を、父は鬼神の如く叱ったのだ。  僕は反省とか叱られたというよりも、ただ恐怖し、そしてすごく悲しかった。  この時、父にも僕を心配する素振りがあったのかもしれないが、いや、あったとしても、鬼のように叱られた事と、とてつもない恐怖と悲しさしか僕の中には残っていない。  この二つの事件が(事件と言える程のものなのか......)僕が幼稚園の頃の今でもハッキリと覚えている出来事だ。  もちろん他にも思い出はあるのだが、この二つの出来事の印象には遠く及ばない。  僕はなぜか、こんなパッとしない憂鬱な思い出程、ハッキリと覚えているようだ。

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