タイムリミット
第2章 新たな人生2−1

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 母親が夕食の準備に三十分ほどかかるというので、その間康太は明日の登校準備を済ませることにする。  康太の記憶によれば、明日提出しなければならない宿題は一つだけ。  五中では夏休みに塾の夏期講習に通うことが一般化しているため、生徒の負担を考慮して学年が進むごとに宿題の数は減ってくる。一年生のときは国、数、英の三教科とも一学期に学んだことの復習になる簡単な問題集を一冊ずつ渡されたけれど、二年生になった今年は確か国語の読書感想文だけだった。  とはいえ、康太自身はまだ一行たりとも書いていなかったことを思い出す。  活字が嫌いでしかも読むのが遅い康太は、やっと一昨日、つまり亡くなる前の日に課題となっている太宰治の「走れメロス」を読み終えたばかりなのだ。  だが、あの真面目な優等生の重人に限ってそんなことがあるはずはない。  きっと、立派な感想文が仕上がっていることだろう。  こと宿題に関しては、オレは重人になってラッキーだったってことだよな。  そうひとりごちる康太の顔からは自然と笑みが漏れてくる。  重人の部屋に入るのは、いつ以来だろうか?   兄弟同然に遊んでいた幼稚園の頃まではほぼ毎日、小学校に上がってからも四年に進級して疎遠になるまでは時折、この部屋に来ていたはずだ。  でもこの六畳の洋間に長居した記憶が康太にはない。  よく二人でベッドの上に座り込んで、トランプの神経衰弱とかオセロゲームとか頭を使うゲームで遊んだものだが、いつも勝つのは重人ばかり。それで結局三十分もすると康太が飽きてしまい、リビングルームに戻って互角に勝負ができるテレビゲームで遊び直すというのがお決まりのパターンだった。  室内は基本的にあの頃のままだ。  ベッドも勉強机も書架も昔と同じところにある。  カーペットの上には塵一つなく、掃除も整理整頓も重人らしく完璧のようだ。  制服や野球のユニフォームはきちんとハンガーに掛けてクロゼットに収まっている。  書架に眼を向けると、予想はしていたもののびっしりと並べられているのは学習参考書や純文学の本ばかりだ。残念ながら、康太の大好きなマンガ本は一冊も見当たらない。  でも、勉強机の上に置いてあるのは最新型のノートパソコンだ。  さらに、真新しいミュージックプレーヤーも机横のサイドボードの上にある。  しかもそれは憧れの英国製。  確か夏休みに入ったばかりの頃、重人が「小遣いを貯めて遂に買ったよ!」と得意げに話していたことが思い出される。  これら二つのアイテムは康太もずっと欲しかったものなのだ。それが一度に揃うなんて、この部屋での暮らしもまんざら捨てたものではないかもな、と康太は気持ちが昂ってくる。  ところが、プレーヤーのスイッチを入れた途端、その昂ぶりは急速に縮みペシャンコになってしまった。  流れてくるのは、康太が学校の授業でしか聴いたことのないクラシックのメロディ。  ジャジャジャ、ジャーン……。  お、この曲はオレでも知ってるぞ。ベートーベンの「運命」じゃないか。  しかし、今はこんな音楽を聴いている気分ではない。  まだ神様から与えられたこの新たな「運命」に全く自信が持てていないオレとしては、大好きなJポップでも聴いて気分を盛り上げたかったのに……などとつぶやきながらサイドボードの中にズラリと並んだCDのタイトルを順番に見ていくと、案の定クラシックの作品ばかりだ。  ならば、こっちは?  康太は祈るような気持ちで、パソコンのスイッチを入れる。 「なんだよ、これ……」  思わず康太の口から嘆き節が漏れる。  自宅の居間に置かれた共用パソコンで、両親が居ぬ間にこっそり楽しんでいた動画サイトにアクセスできない。スマホを持っている友達とやり取りしていたSNSもフィルタリングがかけられていて開けない。  デスクトップに並ぶアプリは、ニュースサイトや学習塾の教師とチャットができる対話アプリなど、お堅いものばかり。つまり重人にとってこのパソコンは遊び道具ではなく、勉強のためのツールだと認めざるを得ない。 「ああ、いやになっちゃうなあ。もしかして今日からはガリ勉一筋ってこと?」 絶望した康太がイスの背もたれに寄り掛かって仰け反るような伸びをすると、さらに見たくもないものが――。  勉強机の上方の壁に重人が書いたと思われる習字が貼り付けてあるではないか。 「目指せ、東京第一高校」と力強く太い字で書かれていた。 「なに? 偏差値七十超の都立最難関校がオレの目標かよ!」  康太は稲妻が頭上に落ちたかのような強い衝撃を受ける。  もはや逃げられない。  この世に戻してくれた神様に恨み言の一つや二つ言ってやりたい気持ちで、重人の強い決意が込められたその文字を見つめていると、この部屋に来た目的をすっかり忘れていたことに気付く。  そうそう、明日の準備をしなくては……。  まず、ベッドの枕元に置かれた目覚まし時計をセットする。  午前八時登校と電話連絡があったことを思い出して、アラームの針を午前七時ちょうどに動かそうとすると、既にそうなっている。重人はこの時刻に起床していたらしい。  毎晩夜遅くまで勉強をして、その上大好きな睡眠時間まで削らなければならないのか。  午前七時半起床が習慣となっている康太は、また一つクリアすべき難題が増えたことで、さらに落ち込んだ気持ちになる。  続いて五中指定の通学用鞄を探すと、それはドアの横のハンガーに。  鞄の中には授業がないため教科書は入っていなかったが、生徒手帳、筆箱、メモ帳とともに目当ての宿題もちゃんと入っている。  良かった! と重人に感謝しながら目を通してみる。  原稿用紙五枚にぎっしりと書かれた「走れメロス」の感想文は、ところどころに難解な表現があったけれど、全体としてとても読みやすい。しかも康太自身が読んで感動したポイントもほとんど網羅されている。  それまで康太は、重人のものに限らず、優秀な生徒が書いた作文を読んだことはなかった。  そのため自分は作文が苦手で下手だと思い込んでいた。  しかし意外に上手く書けるのかもしれない。  もし「走れメロス」の感想は? と問われたら、表現力では重人にかなわないにしても、内容的には同等のことが言えるはずだ。康太の中で妙な自信が湧いてくる。 「……オレは読書とか作文とか、活字そのものに興味がなかっただけなのかも。よし、こうなったからには、せめて作文の出来ぐらいは重人のレベルに追いつけるよう頑張るぞ!」  握り締めた手には、無意識のうちに力がこもる。 「重人、ご飯ができたわよ。早くいらっしゃいな」 ド ア越しにキッチンの方から、母親の声が聞こえてくる。 「わかった。今行くよ!」  大声で返しながら、康太はそれまで空腹を忘れていたことに気付いた。  急いでダイニングルームに行くと、すでにテーブルの右奥の席に父親が座っている。 「おう、来たか」 「……うん」  言いながら立ったまま動けない。  四つある席のうち、どこが重人の定位置なのかわからないからだ。 「どうした?」 「いや、ちょっとかあさんの手伝いでもしようかなって……」  本当のことを言うわけにもいかず、思いついた嘘をつく。 「え、そんなこと今までしたことなかったろう?」  どうやらこの家ではオレのところと違って母親が焼肉屋の厨房を切り盛りしているわけではないし、配膳の手伝いはしなくていいってことのようだ。  ここは何とか辻褄を合わせねばヤバい状況だ。  イチかバチか、さらに出まかせの嘘を重ねてみる。 「……うん。でも、昨日はかあさんにも心配かけたし、ちょっとお詫びのしるしにでもって思ったんだ」  父親が笑顔で聞いてくれているのを見て、康太は安堵する。 「まあ、気持ちはわかるけれど、親子なんだからもうそんなこと気にするな」 「わかった」  そう返事しながら、今度もうまくいきますようにと念じつつ、父親の前の席を選んでどっかりと座る。  そこへキッチンから大きなトレーを持って母親が入って来る。  三人分のカレーライスとサラダをテーブルに置きながら、康太を見て驚いた表情になる。 「重人、どうしてそこに座っているの? いつもはその隣の席で、私の前のはずよね」 「……」  心の中で、しまった! と思いつつも、下手(へた)な言い訳はかえって逆効果だと判断し、ただ笑顔で母親の言葉を受け流すことにする。 「ということは、やっぱりあなた、記憶が完全には戻っていないみたいね」 「……確かにいつもはかあさんの前の席だったね。今、思い出したよ。だから僕、帰りの車の中で言ったじゃないか。まだ本調子じゃないかもって」 「そうだったわね」 「うん」 「まあ、あんなことがあったばかりだし、席を変えてみるのもかえって気分転換になっていいかもね」  母親の言葉に父親も頷き、ようやく食事となる。  カレーライスは康太の大好きなメニューの一つだ。瀬川家では手軽に調理ができることもあって、ビーフ、シーフード、キーマと様々な種類のカレーを三日おきぐらいに食べていたが、飽きたことはない。  でも、今日のカレーはちょっと何か変だ。具はチキンがメインのようなのに、いつも食べ慣れたものとは色もにおいも若干違う。  恐る恐るスプーンを口に運ぶと、カレー風味に混じって何やら甘ったるい変わった味がする。もしかして牛乳がたっぷり入っているのだろうか? 好き嫌いは少ない方だけど、あの液体だけはどうしても身体が受け付けなかった。  咀嚼(そしゃく)しながらそんなこんな考えていると、途端に、先ほどまでの食欲が失せてきた。  どうにかこうにか一口目を飲み込むと、自分を心配そうに見つめている母親に気付く。 「美味しくないの? あなたの大好きなココナッツミルク入りのカレーなのに」  この風味が牛乳ではないとわかると、不思議なもので再び食欲がよみがえってくる。 「ううん。ただゆっくり味わって食べているだけだよ。もし生き返らなかったら、もうこんな美味しいもの食べることができなかったんだものね」  我ながら上手い言い訳を思いついたものだと自画自賛しているうち、口の中に残っているココナッツミルクの味が決して嫌いな味ではないことに気付く。 「うまい、うまい」  大口を開けてモリモリ食べ始めると、母親の怪訝な表情も次第に緩んでくる。  結局、康太は二回もお代わりをする。 「重人がこんなに食べるなんて、今までなかったことだわ。食欲中枢でも狂ってしまったのかしら?」 「病院のお昼ごはん、美味しくなくて残したからとてもお腹がすいていたんだ」 「そうだったの。ということは……あなた、身体はすっかり回復したってことだわね。記憶の方はまだ完全には戻っていないようだけれど」  嬉しそうに話す母親の様子を窺(うかが)いながら、やれやれ重人としての人生は片時も気が緩められそうもないな、と康太は気を引き締め直す。

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