タイムリミット
第1章 神様の手違い2

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 ここは、東南中央病院の救急処置室。  五台のベッドは満杯で、何人もの医師や看護師が忙しなく治療に当たっている。  意識が戻ったとき、康太は何故か一番入口に近いベッドの足元にボーッと立っていた。  目の前に寝かされているのは、頭に包帯が巻かれ顔を酸素マスクで覆われた患者だ。  上半身は裸で、腕には輸血のためのチューブが、胸には心電図モニターから伸びたコードが付けられ、傍に置かれた椅子の背もたれには真っ赤に血で染まった野球用ユニフォームの上着が掛けてある。  次第に意識がはっきりしてくる中で、康太は気づく。そのユニフォームは我が五中野球部のもので、しかも患者の目鼻立ちは鏡で見慣れた自分自身と瓜二つだ。  「あれ? 何でオレが二人も……」  狐につままれた思いで康太がつぶやくと、心電図モニターからピーッと音が鳴り始め、ベッドサイドにいた看護師が叫ぶ。 「先生! 波形がなくなりました。心停止です」  隣の患者を診ていた男性医師がその声に素早く反応し、慌てた様子で心臓マッサージを始める。重ね合わせた両手に力を込めて康太の胸の中央部分を規則正しく何度も強く押していく。 「この子のご両親に連絡は?」  医師は額に汗を滲ませながら、切羽詰まった表情で訊く。 「はい。救急車で付き添ってこられた野球部の監督さんが、携帯電話でお母さんと連絡が取れたと言っていました。でもちょうどご夫婦で食材の買い付けに来ているところとかで、病院に着くまで四、五十分はかかるそうです」  引き戸が開けたままになっている入口の横には大きな鏡が掛けられていた。  康太がその前に立つと、クラゲのようにやや青みがかった半透明の自分が映っている。つい今しがた車に轢(ひ)かれたはずなのに頭にもどこにも怪我の痕跡はない。着ている半透明の白いユニフォームは家を出たときそのままで汚れひとつなく、履いているのは同じく半透明のよく磨かれた黒いスパイクだ。  しかし、誰も康太の存在に気づいていない。 「オレは肉体から抜け出して幽霊になってしまったのか!」  自分が死亡したという現実に、康太は絶句する。  そうこうするうち、中央のベッドに二人の看護師が歩み寄り、揃って合掌してから患者の薄汚れたジャージを脱がせて、身体をくまなく拭き清め始める。  それが済むと、真新しい白い浴衣に着替えさせて、両手を胸の上で組ませた。  最後に、ひとりの看護師が顔に白い布を掛けたとき、康太は信じられない光景を目撃することに――。  亡くなったはずの患者の上半身が、ベッド上でスーッと起き上ったのだ。  正確には起き上がったのはその患者の身体ではなく、半透明の白い浴衣姿のおじいさんだった。白髪混じりの髪はボサボサで皺(しわ)だらけの頬は痩(やせ)せこけて、まさに骨皮筋衛門という形容がピッタリに見える。  おじいさんは一旦ベッドに腰かけの姿勢をとってから、「よっこらしょ」と言って立ち上がる。しかしその声も姿も康太にしかわからないのだろう。周りを動き回る医師や看護師は誰も何の反応も示さない。  数秒後、おじいさんの視線が入口近くの康太を捉える。 「いやあ、これはこれは」  満面に笑みを浮かべたおじいさんが、素足のまましっかりとした足取りで康太の方に近づいてくる。 「ワシは峰岸隆一。よろしくな」 「オレは瀬川康太」  初対面で失礼かとは思ったが、疑問をぶつけることにする。 「ねえ、なんでそんな嬉しそうなの? 死んじゃったというのに」 「だって、ようやくカミさんと再会できるんだから、もうワクワクしとるよ。君もワシと一緒に行くんだよね?」 「え、どこへ?」 「きまっとるじゃないか。天国だよ。おっと……君にはまだ案内が来ていないのか」  そう言いつつ、峰岸さんは康太の奥を見ながら会釈する。 「え?」  振り返ると、いつの間にかすぐそばに半透明の中年男性が立っていた。髪はオールバックで、白いワイシャツに白いスーツを着込んで赤い蝶ネクタイを付けている。 「どちらさま?」 「康太様。私は天使です。峰岸様を天国へご案内するために馳(は)せ参じました」  康太はその男性をまじまじと見つめてしまう。  昔、美術館で見た宗教画に描かれていた天使は、男性も女性もダボっとした白いワンピースのような服に大きな二枚の白い羽を付けていた。それ以来、天国は空の上にあるところと思い込んでいたので、羽が生えていないその男性に違和感を覚えた。  「本当に?」  すると、トンチンカンな答えが返ってくる。 「いえいえ、羽は必要ありません。この世と天国は違う次元にあって、私たち天使は瞬時に移動できます。それとこの服装ですが、天国に死者をお迎えするというのは新メンバーを歓迎するイベントでありますので、天使は男女とも白地にワンポイントの赤をあしらった晴れ着を身につけております」  どうやらこの天使には康太の考えていることがお見通しなのだ。  驚いていると続きがある。 「天使は普段天国におりますが、人が亡くなるたび、その方を天国へご案内するためにこの世に派遣されるのです」  それまで天使の役割について考えたことがなかったので、康太は目が点になる。 まさか、道案内をしてくれるとは。 「ならば、オレの案内をしてくれる天使はどこ?」 「さて……我々天使は天国を立つとき、通常は、自分が担当する方にご連絡を差し上げることになっています。ですので私は先ほど、ご臨終を迎えてまだ肉体の中に峰岸さんがおられたとき、これからお迎えに伺いますとお伝えしました。あなたにはそんな連絡は届いていませんか?」 「うん、何も聞いていないけど」  天使は困惑顔になって続ける。 「仮に、康太様を担当する天使がご連絡するのを忘れていたとしても、もし峰岸さんとご一緒に天国へお迎えするのであれば、すでにこの場にその天使がいるはずです。でもどこにもいないとなると、まだ神様から天使には何の指示も出ていないということですね」  入口付近に陣取って話し始めた三人を素通りして、時折医師や看護師が出入りするけれど、全く邪魔にはなっていない。  ならばこの際、ここでもう少し粘ってみよう。 「それって、どういうことなの?」 「となると、いくつか理由が考えられますね。一つは、あなたがまだ死んでいないということです。今は肉体を離れていらっしゃいますけど、また心臓が動き出して肉体に戻れるのではありませんか?」 「いや、それはないよ。絶対」  ベッドにいるのは頭が潰れてしまっている自分自身なのだ。最早どう転んだところで、生き返るはずはないと強く思う。 「そうなると、次に可能性が高いのは、天国に呼ばれない死に方をしたのではありませんか? 人殺しとか重罪を犯した方は天国ではなく地獄へ落ちるので、その場合、じきに黒い大きなハゲタカが現れて、クチバシで掴まれて地獄へ連れていかれるそうです」 「そんなわけないじゃん!」  康太はムカついた。天使は人の心が読めるのだから、オレがそんな悪人でないことはもうとっくにわかっているはずなのだ。 「失礼いたしました。私はただ一般論を申し上げただけですので、ご機嫌を直していただけませんか? 峰岸さんをお連れする時間まで、あと五分ぐらいしかありませんので」  何でそんなに急ぐのか? よく分からぬものの、その理由解明はあとにして、まずは話の続きを聞かねばならない。 「わかった。じゃあほかの可能性を教えて?」 「はい……誠に申し上げにくいのですが、あなたは自殺なさったのではありませんか? その場合、すぐには天国へお呼びできないことになっています」 「それも違うよ!」  康太が語気強く否定すると、天使は身体を小さくして実に申し訳なさそうな表情になる。 「あ、またまた申し訳ありませんでした。交通事故で亡くなられたんですね。そうなりますと、残る可能性はもう一つだけでして……」 「え、何なの?」 「恐らく手違いで、天使からのお声掛けが遅れているのかと……。前にもあなたのような方がおられたと記憶しております」  天地の創造主であらせられる神様もミスすることがあるなんて。あまりのことに、康太は混乱するばかり。  まもなく幽霊のオレだけになってしまうと、誰にも存在を気づいてもらえないから、話し相手はいなくなっちゃうし、いったいどうしたらいいんだろう。 「いえいえ、そんな心配しなくても、きっとすぐに誰か自殺した幽霊に会えますって」  口に出して訊かずとも、天使には康太の不安が伝わっている。  しかも、嬉しい話はまだ終わっていなかった。壁にかけられた時計を見ながら続ける。 「天国の『扉』は、病院以外の場所で人が亡くなった場合、その都度その場に出現しますが、病院の場合、毎日六時間おきに出現することになっていて、その場所は正面玄関付近です。今度の出現は午後一時、あと一、二分後ですので、その次は午後七時になります」  それはつまり、病院というところは死んでしまう人が多いので、神様もあらかじめ定期ルートをおつくりになった、ということだと理解した。  そうなると、午後七時の出現までには、オレにも天使からのお招きが来るはず……なんて考え始めたところ、天使が笑顔で言う。 「必ずそうなると思います。ですので、それまでの六時間、のんびりとお待ちください」 「幽霊になっちまった以上、オレはここでボーッと待っているしかないってことかよ」  誰とはなしに康太がつぶやくと、峰岸さんが口を挟んでくる。それまでずっと嬉しそうに二人のやりとりを聞いていたのに、なぜか笑顔が消えている。 「なあ、康太君。実は心残りが一つだけある。ウチで留守番しているジェニーという二歳になるメスのゴールデンレトリバーのことなんだ」 「え、どういうこと?」 「ワシはマンションで独り暮らしだったから、ここに来る救急車の中で、付き添ってくれた管理人さんに色々よろしくと頼んだんじゃが、これから誰がジェニーの世話をしてくれるのか……心配で」 「本当だね。可哀想なジェニー……」  実は康太もハンクという名のオスのトイプードルを飼っているので、峰岸さんの気持ちが痛いほどわかった。ハンクには康太の両親がいるけれど、ジェニーはたった一匹になってしまって、どんなにか心細い思いをしているに違いない。 「もしその気になったら、ちょっと様子を見てきてくれんか?」 確か、誰も飼い主がいなくなった犬や猫は殺処分されるなんて話も聞いたことがある。そんなことはなんとしても阻止してやりたい。 「わかった。でもオレ、何もしてやれないけど」  そう答えざるを得ない自分に康太は歯痒い気持ちでいっぱいになる。  今さらだけど、あんなところで事故死してしまった自分が情けなくもなる。 「それはそうなんじゃが……」  峰岸さんも腕組みして考え込んでしまう。 「もうお時間です。峰岸さん、急ぎましょう!」  そこで、天使が割り込んできて、天井から吊り下げられた案内板に従って、二人は急ぎ足で正面玄関へと向かう。  取り残されてたまるかとばかりに、康太もその後を追う。  さっき天使が、自殺した人はすぐには天国へ行けないとか言っていたことも気になっていたが、詳しくその理由を教えてもらう時間はなそうだ。  峰岸さんが振り返って、最後に一言。 「康太君、悪かった。今の話は忘れてくれていいから」  一足遅れて康太が正面玄関前に着くと−――。  午後一時を知らせるチャイムが響き渡る中、不意に、強烈なストロボが焚かれたかのような眩しさを感じて、康太は思わず両手で目を覆う。  いったい何が起こったのか?   恐る恐る指と指の隙間から覗いてみると、並んで立っている峰岸さんと天使の目と鼻の先に、何と、燦然と虹色に輝く《光のリング》が縦に浮かんでいるではないか。  直径二メートルぐらいはあるだろうか。赤色、黄色、緑色、青色、紫色……七色の光が一束の輪になってまばゆいばかりの光を放っている様は、巨大な丸型のネオンサインがキラキラ輝いているようでもある。外から見る限り奥行きは全くないけれど、リングの中は、深い霧に覆われていて、奥まで見通せない。  しかし生きた人間には何も見えないのだろう。病院を出入りする人たちは誰一人としてその存在に気づいていない。 「これが天国の『扉』なのか……」  でも、感慨に浸っている暇はなかった。 「康太君、先に行くよ!」  峰岸さんが康太の方に振り返って手を振りながら《光のリング》に一足踏み入れると、あっという間に霧の中に消えていく。  それを見届けた天使も後を追おうとする。  慌てて、康太が声を掛ける。 「ねえ、お願いだから神様にオレのことを急ぐように頼んでよ!」 「わかりました。康太様が地上で首を長くして待っておられますことは、必ず神様にお伝えすることを約束いたします」  天使の姿が見えなくなると、たちどころに《光のリング》は跡形もなく消えてしまった。  ひとり残された康太は、たった今のやりとりを反芻する。  のんびりと……なんて言われたけど、何もしないで待ち続けるというのは、オレの性分には合わないに決まっている。生まれつき、勉強とか読書とか、じっと動かないで何かをやり続けることは最も苦手なことなのだから。  とはいえ、今は肉体を失った幽霊なのだ。 「あと六時間、何かやるったって、いったい何を……」  康太は出口が分からない迷路に迷い込んだような気持ちになる。

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