タイムリミット
第2章 新たな人生1−1

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 八月三十一日の日曜日。  山本重人は夜の七時少し前に東南中央病院を退院する。  短い時間とはいえ一時心停止状態に陥ったことで若干の記憶障害が残っている可能性はあったものの、精密検査では肉体的な異常は見つからなかったため、入院は一日で済んだ。  自宅へ帰る道すがら、父親が運転するドイツ車が新しくできたセレモニーホール前の赤信号で停車すると、黒山の人だかりができている。  礼服姿の大人に混じって、五中の制服を着た見覚えのある生徒もたくさんいて、あちらこちらからすすり泣く声がかすかに聴こえてくる。 「そうか。今、ちょうど康太君の通夜をやっているところだな。まさか交通事故で死ぬなんて、かわいそうに……」  運転席で父親が声を詰まらせながら黙礼する。  横に座る母親も、その後ろに座る重人も、それに倣(なら)う。 「あそこであなたの合同葬儀って可能性もあったのよね。そうならなくて本当に良かった」  母親が後ろの席を振り返りながら、しみじみと言う。 「……うん、そうだね」  重人は曖昧な相槌を打つ。  その前日のこと。  康太が「指示書」のとおり救急措置室に戻ると、患者は一番窓側のベッドの一人だけで、顔は酸素マスクで覆われていて年の頃も人相もわからない。  ちょうど、その患者に覆いかぶさるようにして心臓マッサージを続けていた医師が身体を起こしたところで、波形のなくなった心電図モニターはピーという甲高い連続音を流し始める。 「もう、戻りそうもないな……。午後七時十五分、死亡確認」  その医師は腕時計を見ながら看護師に告げた。 「よし、オレはこれからこいつになって生きるぞ!」  意を決した康太は、プールの水に飛びこむような気持でその亡骸に入り込んでいく。  どれくらいの時間が経過したのだろうか――。  康太が意識を取り戻したとき、ベッドの両側から自分を見下ろしている男女の顔には見覚えがあった。確か、あの顔は……自分が誰に生まれ変わったのか全く分からないことへの不安が、二人の顔を見たことで徐々に後退していく。  そんな気持ちの変化が、無意識のうちの微笑みに変わったのだろう。  女性の方が康太の手を握ると、疑心暗鬼といった様子で話し掛けてくる。 「重人、わかるの? ママよ」 「え……」  康太は驚いた、そして混乱した。予想もしない名前で呼ばれたからだ。  まぎれもなく、その女性は重人の母親だ。  もしかしてオレ、あの重人に生まれ変わったの?   ということは、あいつも死んじまったってこと?   何かの間違えじゃないの?  疑問ばかりが次から次へと湧いてくるけれど、一向に答えが見つからない。  反応が鈍い康太の首周りを念入りに確かめながら、母親は驚くべきことを言い始める。 「なんであなた、自殺なんてしようとしたの? 校庭の端にある大きなサクラの枝にベルトを巻き付けて首を吊るなんて……ベルトに幅があったおかげで首の鬱血痕(うっけつこん)も目立たないし、本当に不幸中の幸いだったわね」  聞いているうちに、頭の中が真っ白になってくる。  あの成績優秀ですべてに満たされているように見えた重人が自殺を?  北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込んできたなんていった類いのフェイクニュースよりも、さらに信じがたいことだと康太は思う。 「えっ、本当に?」  康太のその言葉に、母親の表情は急激に暗くなる。 「まだ、自分のやったことが思い出せていないみたいね。あなたの心臓は間違いなく一回は止まったのよ。私たちが駆けつけたとき、奇跡的に再び動き出したわけだけれど。先生もおっしゃっていたわ。一、二分間脳に酸素が送られなかったことで、もしかしたら一時的に記憶障害が残るかもって……それで思い出せないのよ、きっと」  ここはとりあえず母親の話に乗って、記憶が欠落してしまった重人を演じ続けるしかない。今最優先でなすべきは、重人がなぜ突然自殺しようとしたのかを探ることだ。  康太は記憶をたどり、重人が自分の親をどう呼んでいたのか必死に思い出そうとする。  だがなかなかすぐには出てこない。 「……どうして、オレ……いや、僕、自殺なんて考えたんだろう? かあちゃ……いや、かあさんが知っていること教えてくれない?」  若干ドジってしまったことで、重人の中身が入れ替わったことを勘付かれたのではないかと内心ヒヤヒヤしたが、それは無用の心配だった。 「それはいいけど。私が知っているのは、救急車に同乗してくださった警備員さんと、知らせを受けて病院に飛んできてくださった桐原監督から聞いたことだけよ」  そう断わって母親が話してくれたことは、ざっとこんなところだ。  ボールを追って康太が校門の外へ飛び出たとき、もちろん重人もそのあとを追っていた。  ただ、転んで膝を地面に強く打ち付けたときの痛みが残っていて早くは走れず、現場にたどり着いたのは事故が起きた数秒後のことだった。 「何で!」  血の海を見て顔面蒼白になった重人は大声で叫ぶと、康太に駆け寄るでもなく、当事者として実に不可解な動きをした。  重人の姿はほかのチームメイトや桐原監督が駆けつける直前に、逃げるように校舎の中へ消えたのだ。その一部始終は、ちょうどバスケットボールの部活で登校してきた数人の男子生徒がしっかり目撃していたので、間違いはない。  二中との試合はそのまま中止となる。  ほかのチームメイトは皆一様にショックのあまり無言のまま足早に下校してしまい、重人の行方を気遣う者は誰もいなかった。  救急車に同乗した桐原監督も、重人のことどころではなかった。  搬送後絶命した康太の遺体に寄り添い、両親が到着してからは、狼狽のあまり何も手につかない彼らに代わって、親戚への連絡から葬儀屋の手配まで一手に引き受けた。さらにその後、関係者の一人として警察に呼ばれて事情聴取も受けた。  午後四時過ぎにやっと学校に戻った監督は、試合直前に倒れた佐藤幸雄が気になって真っ先に保健室へ向かうと、養護教諭から熱が下がり切っていないので早く親元まで送り届けて欲しいと頼まれた。  そのとき重人の行方も若干気に掛かってはいたものの、きっと心の整理がついて帰宅したはずと楽観的に考えて、幸雄のことを優先した。よもやまだ校内に残っていて、自らの命を絶とうと逡巡しているところだったとは、夢にも思っていなかった。  話を聴いているうちに康太は確信する。  あの重人ならば、オレの死に責任を感じて自殺を選択することは十分あり得ると。  つい先日も、心優しく責任感の人一倍強い重人がとてもカッコ良い役回りを演じたことは鮮明に覚えている。  野球部の練習中、ある一年生部員が素振り二百回の練習メニューを勝手に百回でやめてさっさと休憩に入ってしまったところ、すぐ桐原監督に気付かれて罰として腕立て臥せ五十回を命じられた。  そのとき、その部員の指導役だった重人が自ら汚れ役を買って出たのだ。 「監督、彼にもう休んでもいいよ、と言ったのは僕なんです。とても疲れていたように見えたので」  それから重人はその部員と一緒に、腕立て臥せの罰メニューを笑顔でこなした。  その日の部活終了後、嘘をついてまで庇ってくれた重人に、その部員が恐縮しきった様子で深々と頭を下げているところを康太は見逃がさなかった。  心ここにあらずといった表情になっている重人、いや康太の目を覗き込むようにして、母親が話し続ける。 「……あなたが首を吊ったとき、校庭はもぬけの殻だった。六時半を過ぎていて、部活の生徒も先生も全員下校したあとだったからよ。あなたがこうして生きているのは奇跡だと思う。もしあのサクラの枝が身体の重みで折れていなかったら? もし警備員さんの巡回時間がもう少し遅くて発見がもっと遅れていたら? あなたは本当に死んでしまっていたに違いないわ」  「……確かに、そうだったかもしれない」 「えっ、思い出したの?」  母親の顔に笑顔が戻る。 「うん、まあ……康太君が事故に会って死んじゃったのって、元はと言えば打球の目測を誤った僕が悪いんだもの。首を吊って一緒に死ぬしか康太君に詫びる方法はないって……そのときはそれしか考えられなかったんだ」  中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず、だろうと想像しながら康太は答える。 「それは違うわ! 交通事故は康太君の不注意が原因。あなたがそこまで思い込む必要はないのよ!」  また死のうなんて考えたら大変とばかりに、母親は血相を変えて反論する。 その必死の形相からは、何があろうとも血を分けた息子を守ろうとする母親の本能のようなものが伝わってくる。 「……」  どう返そうかと康太が逡巡するうちに、たまりかねた母親がまた訊いてくる。 「じゃあ、一つ教えて。夕方首を吊るまで、いったいどこに隠れていたの?」 「……ずっと体育館の倉庫の中に隠れていた。跳び箱が何台も置いてあるし、マットが高く積んであるから、誰にも見つからなかったのさ」  これ以上の追及をかわしたい康太は、咄嗟に浮かんだ口から出まかせを、さも本当らしく平然と言ってのける。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません