タイムリミット
第1章 神様の手違い7−1

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 ママは、それからもなかなかベンチから腰をあげようとはしなかった。  自分から言い出したこととはいえ、突然飼い犬が一匹増えることになった現実を受け入れるのに時間が必要だったのだろう。  そんな飼い主の様子を横目で見やりながら、ジョンとジェニーはこの上もない幸せな気持ちに酔いしれていた。想定外に見えるこの展開が、実は二匹にとってはともに密かに思い描いていた夢そのものだったのだから。  ひと目会った瞬間から、互いに互いを運命の相手だと無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。  夕陽が傾くにつれて長さを増してきた噴水栓の影が、いつの間にか池をはみ出して石畳のグレーの中に溶け込み、見分けがつかなくなってきた。  ちょうど時計の針は午後六時半を指している。  やっと瞳に輝きが戻ってきたママは、その場で居住まいを正すと、両手を組んで感謝の祈りを始める。 「天の父なる神様、私にジェニーをお与えくださり本当にありがとうございます。これからジョン共々、精一杯可愛がります。ですから、どうか一日も早く私が立ち直れますように、お導きをよろしくお願いいたします。言い尽くせぬ感謝と願いを、主イエス・キリストの御名(みな)により神様の御前(みまえ)にお捧げします。アーメン」  ママが胸で十字を切るタイミングで、二匹は揃ってオスワリをする。  そのときジェニーの目が捉えていたのは、エリカと並んでベンチの後ろから遠巻きに一部始終を見守っていた康太のことだ。 〈康太さん、すべてあなたのおかげです。本当にありがとうございました〉 ジェニーはテレパスで感謝の気持ちを伝える。 〈オレからもお祝いを言うよ。本当におめでとう!〉 〈私からも、おめでとうって言わせて。これからジョンと仲良くしてね!〉  二人の会話が聞こえたエリカも口を挟む。 〈エリカさんも、本当にありがとうございます〉 〈いやあ。実を言うとな、オレもこうまでうまく事が運ぶか、半信半疑だった〉  康太は照れ臭そうな笑みを浮かべながらベロを出す。 〈えっ、そうだったのですか?〉  康太はそれには答えず、今度は隣にいるエリカに声を出して得意げに言う。 「オレって運悪く死んじまったけど、やっと運も味方してくれたようだよ。頭だって生きているときよりずっと冴えてる気がする」 「康太君のことを信じて良かった!  きっとこれで、ママも元気が出てくるに違いない。ということは……ママを公園に連れてきたことは、神様の目にも、私が【善行】したって映っているわよね?」  エリカは嬉しそうに同意を求める。 「うん、一つ目の【善行】になる。絶対に!」  頷きながら、康太は断言する。  闇がさらに増して広場の外灯に火がともると、ジョンが「クウーン」と甘えた声を出す。 〈ママ、そろそろ帰ろうよ! ボク、早くジェニーにウチを見せたいんだ〉  康太とエリカにはジョンがそう言ったのがわかったが、まだママは座ったままだ。  しびれを切らせた二匹は一緒に立ち上がり、手や腕をペロペロ舐め始める。  そこでようやく、二匹の要求に気づく。 「そうか、あなたたちはお家へ帰りたいのね?」  その問い掛けに、二匹は同時に、可愛らしく「ワン!」と一声ハモって吠える。 「わかった、帰ろうね! 私もやっと心の中のモヤモヤが取れてきた気がする」  ママは生気が戻り、シャキッとしてきたように見える。  二匹は嬉しそうに尻尾をより激しく振る。 「そうだ、スーパーに寄ってお買い物をして、私が夕食をつくろう!」  家の近くのスーパーに着いたママは、入口横のペット用ポールに二匹のリードを縛りつけてオスワリを命じる。 「いい子で待っていてね。私も何だか急におなかがすいてきたし……今晩はおばあちゃんの大好きな天ぷらを揚げようかな」  そう言いながら、それまでよりもはるかに軽快な足取りで店内へ入っていく。  スーパーの前は交通量の多い通りで、そこから入口まではなだらかな上り勾配になっていて駐輪スペースとして使用されている。  康太とエリカは中には入らず、二匹とともに入口の横でママを待つことにする。 「どうせわたしたちは何も食べられないし、おいしいものがいっぱい並んだ売り場を見て歩いても、ちっとも楽しくないものね」 エリカがぐちると、「確かに。今さらだけど、こんなに動き回っているのに全く喉 は乾かないし腹も減らないんだよね」と康太もおどけて言う。 〈お気の毒さま!〉  ジェニーとジョンが揃ってテレパスで同情の声を掛ける。  スーパーの店内はちょうど夕食の食材を買い求める人たちで込み合っていた。  駐輪スペースにもチャイルドシート付きの自転車などが二十台ほど停められていて、ほぼ満車だった。  四、五分後、入口から買い物を終えた若い女性が一歳ぐらいの女児を乗せたショッピングカートを押して出てくる。  女性は二匹がつながれているポールに最も近い場所に停められた自転車のところまで来ると、女児をショッピングカートに座らせたまま荷卸しにかかる。食材でいっぱいに膨らんだレジ袋二つを一度に取り出して、自転車の前籠に積み込もうとしたちょうどそのとき、予期せぬことが――。  女児を乗せたままショッピングカートが車道に向かって、音も立てずにスーっとゆっくり動き始めたではないか。  この緊急事態に最初に気づいたのはエリカだ。 「きゃあ、あぶない!」  大声を張り上げつつ、ジョンに向かって、〈あのショッピングカートを止めて! このまま下っていったら、あの子は車に轢かれちゃう〉とテレパスでも叫ぶ。 〈うん、わかった!〉  ジョンはショッピングカート目掛けてダッシュし、五十センチメートルほど下ってきたショッピングカートの真ん前に、まさに絶妙のタイミングで飛び出した。 「キャイーン!」  ジョンはショッピングカートのタイヤが自分の身体に食い込む激痛に耐えきれず悲鳴をあげつつも、必死でその場に踏みとどまり、ショッピングカートはその場で停まった。  レジ袋を積み終えてようやくこの事態に気付いた女性は顔面蒼白になって駆け寄ると、右腕で大事そうに女児を抱き抱え、左手でジョンの身体に食い込んでいたタイヤを外した。 「あなたは、なんていい子なの。娘の命の恩人だわ。本当にありがとう!」  恐縮しきった女性は、その場にフセをしたジョンの身体のことも気遣ってくる。 「どこか怪我をしていない? 歩ける?」 〈ボクは大丈夫ですよ! ちょっとだけ痛かったけれど、ほらこのとおり歩けます〉  ジョンはスクッと立ち上がり、ゆっくり尻尾を振りながら二歩、三歩と歩いてみせる。  この間、ジェニーはオスワリの姿勢のまま身動き一つせずに、手に汗を握る思いでジョンの活躍を見守っていた。  ショッピングカート目掛けてジョンが突進していったときには、まさかそんな無茶なことを生身のイヌがするとは到底信じられず、一瞬自分の目を疑った。それがジョンの悲鳴で現実に起きたことだとわかると、今度はジョンがきっと大怪我をしたに違いないと気が気ではなくなった。  だが幸いにも、ジョンは何事もなかったかのように元気そうだ。  ジェニーはホッと胸を撫で下ろした。と同時に、自らが犠牲になることを厭わず勇猛果敢に人助けをしたジョンがとても誇らしく思えた。  これからジョンと一緒にいられるなんて、ワタシって本当にラッキー。  いてもたってもいられない気持ちで、ジェニーはジョンのもとへ駆け寄っていく。 〈本当にどこも何ともないの? 大丈夫?〉 〈もちろん、平気さ!〉 〈さすが、男の子ね! ワタシが好きになっただけのことはあるわ〉とジェニーが言うと、〈え、何だって? お願いだから、もう一度言ってくれないかなあ〉とジョンが嬉しそうに催促する。  買い物を終えたママが出てきたとき、二匹のそばには、女児を膝に乗せた見知らぬ女性がしゃがみこんでいた。  母娘から優しく撫でられて、二匹とも目を細めて気持ち良さそうに身を任せている。 「ワンちゃんがお好きなのですか?」  ママは声を掛ける。 「はい……実は、このワンちゃんのおかげで娘は命拾いできました」  女性はジョンの頭を撫でながら、ジョンの信じられないような大活躍ついて話す。 「そうでしたか。お子さんもウチのイヌも、怪我がなくて本当によかったですね!」 「ありがとうございます。このワンちゃんたち、お名前は?」 「あなたのお子さんを助けた子がジョン。その隣にいる子がジェニーです」 「ジョン、ジェニー、本当に本当に、ありがとう!」

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