タイムリミット
プロローグ

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 夏休みも残すところ二日となった八月三十日の土曜日。  朝七時の気温はすでに30℃。最高気温が35℃以上の日を気象庁は猛暑日としているが、今年の夏は太平洋高気圧の勢いが例年になく強いため、その日数が異常に多い。既に昨日で過去最多と並ぶ十三日に達し、朝の天気予報では今日にもその記録が更新されるのではないかと報じられていた。  ここは東南区立第五中学校の校庭。  軟式野球部の練習が始まる午前九時前になると、東の空にはビルの谷間から真っ赤な太陽が顔を覗かせ、早くも容赦ない日差しをジリジリと照りつけ始める。  明け方の雷雨であちこちにできた水たまりからは、水蒸気が蜃気楼のようにゆらゆらと立ち上り、グラウンド全体が巨大な蒸し風呂のような状態になりつつあった。  区内で強豪として知られている五中野球部は、七月に開催された東京都夏季大会ではベスト3と好成績を残し、それを機に三年生部員全員が高校受験専念のために引退した。  夏休みに入ると、九月末から始まる都秋季大会の区内予選突破を目指して、体育教師で監督を兼務する桐原先生の指導のもと新チーム作りがスタート。  レギュラー争いが終盤に入ったお盆明けの十七日以降は、一、二年生部員総勢四十名が毎朝九時から三時間みっちりと猛暑をものともせず練習に打ち込んでいる。  その中には、二年生の瀬川康太と山本重人の必死な姿もあった。  同じ病院で生まれた二人は康太の方が三日早く生まれたとはいえ、偶然母親同士が同じ病室でウマが合ったことから、まさに生まれついたときからの幼馴染みである。  康太の家は、中学校から歩いて五分のところに五階建てのビルを所有しており、その一、二階で両親が祖父の代から続く老舗の焼肉屋を営んでいる。  重人の方はそこから歩いて一、二分の高級マンションに住んでいて、父親は内科の勤務医、母親は家事の傍ら自宅で翻訳の仕事をしている。  家庭環境は大きく違う二人だったが、どちらも一人っ子で家が近かったため、幼い頃からまるで兄弟のように一緒にいることが多かった。そのため互いに遠慮がなくなりケンカもよくしたけれど、一晩寝ると翌日にはまた何事もなかったかのように楽しく遊ぶなんてことの繰り返しだった。  小学校に入学する頃には、二人は互いに互いを何でも隠し事なしに話ができる無二の親友と思うようになっていた。  だがそんな蜜月関係も、高学年になると、両家の教育方針の違いから大きく変化する。  康太の両親は息子が店を継いでくれるものと勝手に決め込んでいて、五年に進級して大半の同級生が塾通いを始めてからも、低迷したままの息子の成績を気にする素振りすら見せなかった。  勉強が大嫌いな康太にとっても、それは好都合なこと。  家で勉強机に向かうのはやむなく宿題をやるときぐらいのもの。それ以外の時間はテレビを見たり漫画本を読んだりTVゲームに興じたり、向上心のかけらも見られない自堕落な日々を送り続けた。  一方、両親ともインテリの重人の家庭はとても教育熱心。  いつしか本人も、親の期待に応えて将来は父親と同じ医者になると明確に意識し、まさに勉強漬けの毎日を自ら選択する。  平日の放課後は塾通いを続け、さらに夕食後も最低二時間は学校や塾の予習復習をきちんとこなすのが日課となる。そんな涙ぐましい努力の甲斐もあって、成績は常に学年トップを維持した。  そうなると、六年に進級する頃には、二人が一緒に過ごす時間は全くなくなり、次第に相手のことを住む世界が違う存在と認識するようになる。たまに学校の廊下ですれ違っても目と目を合わせるだけで、あいさつの言葉をかけ合うこともなくなった。  二人の間は完全に冷え切ってしまったのである。  ところが運命とは皮肉なもので、中学校入学を契機として二人の運命の糸は再び手繰り寄せられる。  偶然、クラスが小学校四年のとき以来三年ぶりに同じになり、加えてクラブ活動も共に軟式野球部を選んだからだ。  軟式野球部の練習初日。  新入部員たちは部室で真新しいユニフォームに着替えると、一斉に駆け出していく。  集合場所は校庭の北東の隅にあるバックネット前。  距離にしてわずか百メートルなのに、重人は久しぶりに全力疾走したせいでかなり疲れたのか、膝に手をついたままハアハアと嘆息呼吸を繰り返している。 「おまえって、ガリ勉にしては足早いんだな。ちょっぴり見直したぜ」  ほんの少し早く着いていた康太は呼吸ひとつ乱さずに、皮肉交じりに言う。 「僕、もともと足は早いのさ。忘れちゃった? 小学校のとき、運動会の五十メートル競争で何度か一緒に走ったけど、勝ったり負けたりでいい勝負だったじゃない」  やっと普通の息づかいに戻った重人もムキになって言い返す。 「そうだっけ? おまえがガリ勉に変わっちまってからはオレらほとんど付き合いがなくなっただろ。だからそんなことはすっかり忘れていたよ。でも、これぐらいでそんなに息が切れていたんじゃ、今のおまえの体力って相当ヤバいんじゃない?」 「確かに今の僕は、体力面じゃ康太君には全然かなわないよ」  重人は小学五、六年の二年間、連日の塾通いに加えて、最後は家庭教師まで付けてもらい受験一筋で頑張った。にもかかわらず、入りたかった志望校に落ちた。  それからというもの精神的に相当落ち込んでしまい、何をやっても楽しめず、夜の寝つきまで悪くなった。そのうえ最近は風邪ばかりひくようになって、こんなに身体が弱くてはさらに過酷な高校受験などとても乗り切れないと悟ったのだ。 「それにしても、おまえが野球部に入るとはな。 幼稚園の頃からジャイアンツの大ファンだったのは覚えているけど、でも本当に何で野球部なの?」 「ほかにやりたいスポーツが見つからなかったからね」  康太は重人を改めて上から下まで舐めるように観察する。  もともと色黒でなかったとはいえ、長い間勉強ばかりで太陽に当たることが少なかったためか肌はまるでもやしのように白い。身長は自分と同じ一メートル六十五センチくらいはあるものの、痩せてひょろっとしてとても弱々しく見える。 毎日のように一緒に遊んだ三、四年の頃まではもう少しがっちりしていてエネルギッシュな感じだったのに、変われば変わるものである。 「でも野球部の練習はキツイって有名だし、勉強時間が減ってしまうんじゃない? そもそもおまえ、親に相談したのか?」 「もちろん。とうさんもかあさんも僕に体力がないことをとても心配していたので、条件付きで賛成してくれたのさ」 「どんな条件?」 「毎日必ず二時間は勉強をすること。つまり、学校の予習復習もおろそかにしないのならば、っていう条件だよ」  重人は平然と言ってのけ、さらに続ける。 「昨日の夜、とうさんが言ったんだ。何事も最後までやり続けることが自信につながるから、野球も始める以上は決して途中で投げ出さないで頑張れよって」 「へえ。マジで?」  康太の脳裏には教育熱心だった重人の両親の顔が浮かぶ。 「うん! 僕は決めたんだ。三年の夏までこの野球部でバッチリ体力をつけて、高校受験は三年の二学期から短期集中型で乗り切ろうってね」  康太は少し心配になってくる。  小学校のときは勉強が出来なくても、スポーツ万能ということで一応男としてのメンツが保てた。なのに、もしこの野球部でオレより重人の方が先にレギュラーの座を掴むなんてことになったら大変なことになる。馬鹿なオレは何のとりえもないダメ人間のレッテルを貼られたも同じじゃないか。  そんなの絶対にオレ様のプライドが許さない。何が何でも重人よりうまくなるぞ!  康太は固く心に誓う。 「じゃあ、また今日からは昔のように仲良くやろうぜ! 互いにレギュラーを目指して」  ライバル心むき出しの胸中はおくびにも出さず、笑顔で右手を差し出す。 「よろしく!」  重人も笑顔で応え、二人はがっちり握手をする。  それからの日々、重人は親との約束を守り夕食後二時間の勉強を続けながら、康太ともども野球部の練習にも欠かさず参加した。  そうした努力の甲斐もあって、二年生になって迎えたこの七月の夏季大会では、重人はその初戦に代打で初出場を果たし、レフト前ヒットといきなり結果を残した。 もちろん康太の方も負けてはいない。  初戦の代打ではセンターフライと結果が出せなかったが、勝ち進んだ二回戦では勝利に貢献する働きをした。一点勝ち越して臨んだ八回表、一死一、三塁のチャンスで代打に指名されるやダメ押しとなるライト線への痛烈な二塁打を放ったのだ。  その時点での二人の実力を比べると、バッティングと走力は甲乙付け難く、守備では康太の方が重人より多少ミスが少ないというところだった。

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