翌週十八日木曜日の昼休み。 一週間ぶりに登校したリコは給食を食べ終えると、教室から出て行こうとするさゆりを捕まえ、無理やり屋上の片隅へ連れていく。 その日さゆりが、朝からずっとリコを避けていたことは明らかだった。 休み時間になるとトイレなのかはともかくすぐに教室から出て行き、戻ってくるのは次の授業の開始直前ということを繰り返していて、話し掛けようにもそのチャンスが全くなかった。 屋上でも、さゆりは隣にいる人間のことは無視を決め込んでいるのか、遠い目をして柵越しに遥か先の高層ビル群を眺めている。 期待していたお詫びの言葉の一つも出て来ないことで、リコの中で次第にイライラが募り、まるで沸騰寸前のヤカンの蓋みたいに握りしめた両手がガタガタ震え始める。 パシッ! 遂に怒りが頂点に達したリコの平手がさゆりの頰を打つ。 思ったより大きな音がして、さゆりが仰け反る。 近くでドッジボールに興じていた生徒たちは関わり合いになるのを恐れたのか、蜘蛛の子を散らすように慌てて教室へと戻って行く。 「何すんのよ!」 睨み返してきた色白のさゆりの顔は、リコの手の跡が赤く腫れている。 リコとしてはそれほど力を入れたつもりはないのに、結構なダメージだったようだ。 「それは、こっちのセリフ。私はあんたにいわれたことをやって、その結果一週間の出席停止になったんだからね」 「嘘つかないでよ。私の頼んだこと、ちっともやってくれてないじゃない。懲らしめるはずだった本田しのぶは、毎日ニコニコご機嫌で通学しているわ。もう、腹立つったらありゃしない」 意外にもさゆりは反省どころか、本当に怒っている。 叩かれた部分のみならず顔全体を紅潮させて、身も心も凍てつくような冷たい眼差しを投げてくる。 「……確かにやれなかったけどそれは……しのぶのカバンに鍵が掛かっていて開けられなかったから」 それまでの勢いはどこへ行ってしまったのか、リコは大きな身体を縮こませて申し訳なさそうな言い方になる。 「え、そうだったの」 鍵の件はさゆりにも想定外だったようだ。目を丸くし、口をポカンと開けたまま固まってしまう。 その表情を見て、リコは一週間ずっと抱いていた疑念が晴れた気がした。 さゆりは自分をハメたわけではなかったのだ。 「しのぶって、いつもカバンに鍵をかけているのかな?」 リコがふとつぶやく。 「……そうかもね。きっと用心深い性格なんだよ。だって、私たちの作戦を事前に知っていたなんてことは絶対にあり得ないし……きっと、以前に何か盗まれたことでもあったんじゃないかな」 さすが頭の良いさゆりの分析は的を得ていると、単純なリコは一瞬感心してしまいそうになるが、今はそんな場合ではない。 今回のことで学校からもクラスメイトからも不良少女のレッテルを貼られてしまった責任の一端はさゆりにあるのだから、ここはキッチリと償ってもらわねば自分としては納得するわけにはいかないのだ。 どう凄み返そうかと考えている、表情を和ませたさゆりがリコの手を握ってくる。 「ゴメンね。辛い思いさせてしまって」 さゆりの口から謝罪の言葉が出た途端、それまでリコの肩に入っていた力がストンと抜ける。目からは留めどなく、熱いものが流れ出てくる。 「……」 感極まったリコは声が出ない。 涙を拭くことも忘れて、さゆりの手を固く固く握り返す。 「私たちはいつまでも、何があっても友達だからね」 耳元にさゆりが優しくささやいてくる。 「うん」 リコはそれだけ言うのが精一杯だった。 それから約一週間後の二十四日水曜日。 放課後の部活が始まる前、今度はさゆりがリコを先週と同じ屋上の片隅に誘う。 二人の間のギスギスした感じはなくなっている。 「ねえ、みんなに聞かれちゃマズイ話?」 周りに誰もいないことを確認して、リコが訊く。 「実はね、昨日とっておきのネタを仕入れたのよ。それに今日、朝から色々苦労してこんなものまで調べたんだから」 さゆりは右手に持った小さな紙切れをひらひらさせて、意味深な笑みを浮かべる。 その紙には「4785」「2808」と四桁の数字が二つ書かれている。 「8」は小さな〇を団子のように重ねた字体で、「7」の方も短い横線が一本加えられていてカタカナの「ヲ」のようにも見える。どちらも、さゆり独特の字体だとリコにはわかる。 「え、何それ。本田しのぶをイジメるための?」 訊き返すリコの目は、ランランと輝き始める。 「もちろん、そうよ」 さゆりはその四桁の数字が何かには触れずに、昨日の放課後クラス委員として秋山先生から呼ばれたときのことついて話し始める。普通なら一緒のはずの重人ならぬ康太が野球部の対外試合で不在だったため、一人だけで行ったという。 職員室の打ち合わせコーナーには、先生のほかにもう一人、二学期初めに北海道から転校してきたばかりの森山みどりがいた。 先生が十月末に予定されている広島への修学旅行の説明をしているところだった。 「グループ別行動の日、森山さんを君のグループに入れてくれないか? 廣瀬さんには長友さんが抜けたグループに移ってもらって」 目が合うなり、先生はいきなり懇願してくる。 二年三組ではすでに一学期のうちに、男女混成の五人グループが八つ出来上がっている。 分け方の原案は名前の順をベースに先生が作ったものだが、ホームルームの時間にみんなで話し合って、一生の思い出になる旅行だからと仲良し同士が同じグループになるよう一部組み替えられた。そのおかげで、さゆりとリコも同じグループに変わっていた。 先生の言葉の裏には、転校したばかりでまだ親しい友人もいない女子生徒の面倒をクラス委員として見て欲しいという気持ちが込められていることにさゆりはすぐ気付いた。 けれど素直に応じる気はさらさらなかった。ネクラな感じで見た目もパッとしない森山みどりは好きなタイプではなかったから。 「私のグループでは既に当日の行動予定表を作り終えていますので、これからメンバーを入れ替えるとなると、ほかのみんなが文句を言うと思います。ですから、長友さんが抜けたグループに入れてあげればいいのではないですか?」とさゆりは逆に提案する。 やむなく、「それでいいか?」と先生が訊くと、「そのグループは五名中三名が男子になるので、私の性格では気後れしちゃうかも……」と森山みどりはためらっている。 そこで先生が、「男子のうち一名はクラス委員の山本君だから、いざというときは頼りになると思うよ」と付け加えると、渋々ではあったが森山みどりは了解した。 「その話のどこが、とっておきなの?」 まだ話がよく見えてこないリコがそこで口を挟む。 「話はこれからよ」 さゆりは嬉しそうに続ける。 森山みどりの入るグループが決まったことで、さゆりは部活があるからと言って一旦はその場を離れる。しかしバスケ部の部室へ向かう途中で、メモ帳をテーブルの上に置き忘れてきたことに気づいて職員室へ引き返した。 打ち合わせコーナーにはまだ二人とも残っており、先生がテーブルにA4版の冊子を広げて何やら説明をしているところだった。 近づくに連れて、否が応でも先生の声が耳に飛び込んでくる。先生はさゆりを気にするそぶりも見せず、淡々と話し続ける。 メモ帳を拾い上げたさゆりがそそくさとその場を引き上げようとしたとき、先生の話は参加費七万五千円の支払方法に移る。 「現金を学校に持参するのと、銀行の積立金口座に振り込むのとどちらが良いかな?」 先生の問い掛けに、みどりは即座にこう答える。 「振り込むと手数料がかかるので、学校に現金を持ってきます」 そのときさゆりはほんの十歩ほど歩いたところだったが、次の先生の言葉がとても気になった。 獲物にありつこうとする本能も、止まれ! と叫んでいるようで、足が前に出ない。さすがに振り向くのは気が引けたので立ち止まって耳を澄ませていると、実に嬉しい話が聞こえてくる。 「今日の明日では厳しいだろうから、明後日金曜日の昼休みにこの封筒に入れて職員室まで持ってきてくれるかな。そのとき引き換えに領収書を渡すから」 「なるほど、話が読めたわ。そのお金を奪おうっていうのね?」 得意満面の笑みを浮かべてリコが言う。 「バカね、違うわよ。それじゃ、しのぶを懲らしめたことにならないでしょ?」 しばしの間目を泳がせて考え込んでいたリコがさゆりの方に向き直る。 「今度こそ、わかった!」 「言ってみて」 「金曜日に、私は森山みどりが持ってくる七万五千円を盗んで、それを本田しのぶが盗んだように細工すればいいんでしょ?」 「正解!」 さゆりが拍手を送るが、リコの表情には明るさが戻らない。 「でも私、そんな細工なんてやれるか自信がない。また失敗したら……次は出席停止どころかもっと厳しい罰を与えるって、秋山先生にキツく言われたばかりだし……」 「今度は絶対大丈夫よ。私ね、今日一日かけて確実に成功するシナリオを考えたの。だからリコは何も考えずに、私が言うとおり動いてくれるだけでうまくいくから」 「でも……」 「やってくれたら、今度は五千円じゃなく、一万円あげるよ。この前のお詫びの気持ちも込めて」 さゆりも必死だ。五千円上乗せすると、美穂から奪い取ったお金は残り三万円になり、三万五千円する目当てのバッグが買えなくなってしまう。でも背に腹は変えられない。 「わかった、やるよ」 リコはあまり気乗りしないがという感じで、もったい付けた言い方をする。 しかし心の中では小躍りしていた。初めから目論んでいたわけではなかったとはいえ、自分が渋ったことで成功報酬は二倍になったのだから。 出席停止処分を受けた罰として親から九月分の小遣いをストップされたリコにとって、まさに喉から手が出るほど欲しいお金だった。
コメントはまだありません