タイムリミット
エピローグ

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 季節は秋から冬へと変わり、正月が明けるとまたたく間に月日が経過して、康太の特殊能力が消失する日は翌日に迫っていた。 「来週から始まる学年末テストの勉強が残っているから……」  康太は夕食を済ませると、恒例となっている親子三人でのクラシック鑑賞をキャンセルして、早々に自室へ引き上げる。もちろん重人も一緒に付いてくる。  部屋に入るなり、康太は椅子に倒れこむように座ると、机に顔を突っ伏してヒクヒク肩を小刻みに震わせ始める。泣いているのは明らかだ。  食事のときは普段どおり食欲もあり両親とも普通に会話をしていたけれど、やはり明日のことは心の何処かに引っかかっていたのだろう。  男気に溢れ滅多に人に弱みを見せない康太のこんな姿を見るのは、重人も初めてだった。  しばらく傍観していたが、康太はその姿勢のまま一向に動こうとしない。  かれこれ一時間が経過したころ、見るに見かねた重人がそっと赤子をあやすように康太の耳元でささやく。 「康太君、泣かないで! 君だけじゃない。僕だって泣きたい気持ちなんだよ」 「……」  康太が顔を上げる。泣きはらした目が赤い。 「……僕なんて、いつ天国へ行けるかもわからないし……明日の夜からは康太君という唯一の話し相手もいなくなって……」  とぎれとぎれになりながら話す重人は、途中で言葉に詰まってしまう。 「……そうか、おまえの方が辛いのかもな。気付けなくて、ゴメンよ」  重人の言葉が康太の胸にグサリと付き刺さった。  明日という日を前にして周りが全く見えなくなっていた自分を恥じた。  この広い地球に肉体をなくした重人がたった一人で取り残されることがどんなに辛く苦しいことであるか。  それはわずかの間とはいえ幽霊だった経験のある康太にも痛いほどわかる。 「でもおまえだって天国へ行ける日は近いぞ。間違いないって!」  少しでも重人を元気付けねばと、康太はリップサービスする。 「だっておまえが頑張ってくれたおかげで、おまえの両親はオレが康太だとは夢にも思っていないぜ」 「え?」 「今まで何度も、ヤバい、バレそうだって思ったとき、おまえがいつもオレのそばにいて全力で助けてくれたよな。それって、絶対神様だって【善行】だと考えているに違いないって」 「僕もそうだといいと思う。でも、康太君がすっかり重人になり切れたのは康太君自身の努力があったからこそだよ。今じゃ、勉強だって僕の助けはもう何もいらないよね」 「確かにそうだね。勉強嫌いだったオレがこんなに頑張れたなんて、オレ自身が一番驚いているよ」  それは康太の偽らざる心境なのだ。  それまで自分の机に座って勉強したことといえば、どうしてもやらねばならない宿題があったときぐらいのものだった。それがこの部屋には大好きな漫画本は一冊もないし、ノートパソコンにはフィルタリングがかけられている。  つまり康太にとってこの部屋での過ごし方は、二者択一――勉強するか、寝るか――以外の選択肢はない。  そんな状況にそれまでの康太が置かれたとしたなら、間違いなく毎晩早々とベッドに潜り込んでふて寝を決め込んでいたはずだ。 「それは僕にも想定外だったよ。康太君と勉強って、どう考えても僕の中で結びつかなかったから。いくら切羽詰まった状況だからって、勉強嫌いだった康太君がどうしてこんなに頑張れたの?」  重人も最後とばかりに、訊くに訊けなかったことを口にする。  今までは親しき仲にも礼儀ありと考えて、ついつい遠慮してしまっていたのだ。 「やっぱり、おまえも不思議だと思っていたんだね。その答えは、オレが康太だったときの自分の脳みそと、オレが今使わせてもらっている重人の脳みそとは出来が全く違うってことだよ。実際、理解力も記憶力もオレは重人になってから何倍もレベルアップした。そうしたら不思議なもので、何だか勉強が楽しくなっちゃって」  以前の康太であれば試験勉強のとき、教科書の同じところを何度読み返してもなかなか頭に入らず、五割も記憶できれば上出来な方だった。それが今では、どの教科であっても一度見聞きしただけでスッと頭に入り、なおかつ、その応用問題まで解けてしまう。 「そうだったのか。僕が残した肉体には、僕のコンピュータ並みの優れた脳みそがそっくりそのまま残っていたんだね」  コンピュータに例えたのはさすがに自画自賛し過ぎかもしれないが、重人はとても誇らしい気持ちになって続ける。 「だから僕が考えたよりもずっと早く、僕が色々手伝わなくても、康太君の学力は僕並みになったということか」 「そう、おまえの脳みそがなかったら、半年でおまえになりきるなんてオレには絶対に無理だった。ありがとな」  康太は素直に感謝しつつ、もう一つお礼を言わねばならないことを思い出す。 「それと、おまえにこんなに素晴らしい運動神経があったなんて、嬉しい誤算だったよ。おかげで、オレは野球部で四番は無理だったけど三番でセンターのレギュラーを勝ち取ることができた。こっちもありがとな」  二学期に入った当初、康太は自分の野球人生は自分の肉体とともに終わったと思い込んでいた。  それが、いい意味で予想が外れた。  ガリ勉だけが取り柄だと思っていた重人は、走攻守ともに、康太に勝るとも劣らないレベルの優れた能力の持ち主だった。 「お礼なんてイイよ。康太君と僕は幼い頃からの親友だし、勉強も野球も僕が勝っちゃったら二人の間が気まずくなると思って、敢えて同じポジションでの戦いは挑まなかったってだけのことさ」  そのことは康太も鮮明に覚えている。  新チーム編成に向けてレギュラー争いを始めるにあたり、康太が先にレフトのポジションを希望すると、重人はセンターを希望し、二人が争うのを避けたのだ。能ある鷹は爪を隠すという格言があるが、康太の眼には重人がまさにその鷹と重なって見えた。 「おまえって奥ゆかしいと言うか、本当にイイ奴なんだな」 「そうでしょう。中に入っていて、とても気持ちいいでしょ?」 「うん。適温の温泉に浸かっているみたいだよ。いい湯だな〜なーんちゃって」  康太は結構大きな声で笑い出す。慌てて、重人が注意を促す。 「ダメだよ、リビングまで聞こえちゃうじゃない」 「ゴメン、ゴメン。最後の最後でドジッたら、今までの努力がすべて水の泡になっちゃうものな」  康太が頭を掻きながら謝る。 「……重人、そろそろ勉強を休憩にしてお風呂に入ってくれない?」  そのとき、ドア越しに母親の声が聞こえてくる。  時計を見ると、もう間もなく午後十時になろうとしている。 「はーい。今、入るよ!」  康太も大声で返しながら、重人には小声で続ける。 「まあ話は尽きないけどこのくらいにしようや」 「そうだね」  康太は椅子から立ち上がりドアに向かうが、ふいに振り返る。 「そうだ、最後に一つだけ。ここのマンションって、ペット可だよね?」 「うん」  すぐに重人にも康太が意図していることがわかった。  これから重人が【善行】をし続けるためには新たな‘手足’が必要になる。 「じゃあ、オレがおまえの親に頼んでやるよ。ワンちゃん飼おうよって」 「そりゃ、名案だね! 実は僕もずっと欲しかったんだ。できればジャック・ラッセル・テリアとか、元気で人懐っこいワンコがいいな」 「今までおまえから頼んだことはなかったの?」 「うん、勉強が忙しくて。でもね、ママは僕が中学生になった頃、子育ても一段落したし、イヌでも飼おうかしらって言っていたこともあるから、ママをプッシュしてみてよ」 「了解!」  最後の二人だけの会話はこれで終わる。  翌朝、重人は顔のほてりを感じて目覚めた。  エアコンの温風がかすかに頬に当たっているせいか。  寝ぼけ眼をこすりながらベッドサイドの目覚まし時計を見ると、まだ五時だ。  次第に意識がはっきりしてくると、今度は別の違和感が。  なぜか身体が重いし、羽毛布団にすっぽりくるまって寝ているのだ。  そこで熟睡しているのは、重人の肉体に棲みついた康太のはずなのに……。  昨晩も重人は、羽毛布団の上で壁と康太に挟まれる形で眠りについた。  入浴後勉強を始めた康太は、ちょうど十二時ごろ先に横になっていた重人に一言、「おやすみ」と声を掛けてベッドにもぐり込んできた。  ほどなくして重人が眠りに落ちるより早く、康太の気持ち良さそうな寝息が聞こえてきたのを記憶している。  それなのになぜ?   思わず顔の皮膚をツネると、ズキンと痛い。  すっかり忘れかけていた感覚がある。  慌てて起き上がってクロゼット横の姿見を見ると、そこには見間違えようのないパジャマ姿の重人自身が映っているではないか。  つまり、重人は元どおり重人の身体にすっぽり収まっているのだ。  ならば、康太の霊はいったいどこに消えてしまったのだろうか?    その答えを見つけるまでは、決してこの奇跡を心の底から喜んではいけない。  重人はそう決めた。  その日の午後七時ごろ。  東南中央病院で一人の男の子が産声をあげる。  母親は瀬川千代。  第一子を授かったのが二十二歳のときだから、十四年ぶりの出産となる。  昨年八月末に長男の康太が不慮の事故で亡くなったときは、ちょうど妊娠四ヶ月目に差し掛かるところだった。  あまりのショックから流産しかかり二週間入院して絶対安静を強いられたけれど、その後胎児は順調に育ち、生まれたときの体重は三千三百グラムもあった。  目鼻立ちが康太に瓜二つで、泣き声の大きな元気な赤ちゃんだ。  退院予定前日の三月六日土曜日。  昼過ぎに、瀬川千代の病室を山本家の親子三人が訪れる。 「幼い頃の康太君にそっくりの赤ちゃんですね」  お祝いの言葉の後、重人の母親が感じたままを言う。 「やっぱり、そう思われますか?」 「ええ、本当に似ていますね」  母親の傍らで、重人と父親も笑顔で頷いている。 「この子、とてもいい子なんですよ。夜泣きもしないし、ウンチとオシッコが出ると、声を上げて教えてくれるんです」  母親の話がわかるはずはないのに、赤ちゃんはにこやかに微笑み始める。 「おばさん、『名探偵コナン』って知ってますよね?」  唐突に重人が訊く。 「もちろん。でもなぜ?」 「この子って、もしかしたら昔の康太君が、コナンみたいに小さくなって戻ってきた子なのかも知れませんよ」  夢みたいな話を始めた重人に、その赤ちゃんは確かにウインクを返した。                                  (了)

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません