それから期末テストまでの間、美穂は母親の看病と家事をこなしながら寝る間も惜しんで懸命に勉強する。何とか全教科で「4」以上の成績を取り続けねばならないからだ。 「このまま三年間『オール4』以上の成績を続けられれば、高校在学中、返済義務のない奨学金を受け取ることが出来ます。ですので生活はお苦しいでしょうが、美穂さんの高校進学を決してあきらめないでください」 五月下旬に行われた親子面談のとき病気を押して来てくれた母親とともに秋山先生からそう聞かされたのが、美穂にとって心の支えである。 それなのに今回の期末テストでは、まんまとさゆりたちの策略にはまり、英語の肝心な出題範囲を聞き逃してしまったのだ。 直接訊(たず)ねたくても、英語担当の先生は非常勤講師で、もう期末試験終了後まで来校しない。 ならばほかのクラスメイトの誰かに教えてもらえば良いものだが、その時点で美穂が気安く話ができる友達はひとりもいなくなっていた。 やむなく一学期に学んだことは全て満遍なく復習したつもりだったけれど、やはり出題範囲を集中的に復習しないことには高得点は難しいかもしれない。 それがさゆりからの悪魔のオファーに繋がることに――。 期末テスト二日目、水曜日の放課後。 英語のテストは翌日に迫っていた。 校門を出て足早に歩き始めた美穂をさゆりが呼び止める。 「もう英語の試験の準備はバッチリ?」 さゆりの方から私に話し掛けてくるなんていつ以来だろうか? その意地悪そうな笑みを見た途端、これはきっと何か魂胆があるに違いないと美穂の本能が囁(ささや)く。 あんたにだけは言われたくない! 喉まで出掛かった言葉を飲み込んで押し黙っていると、さゆりがしつこく訊いてくる。 「もしかして、出題範囲を知りたいんじゃない? 美穂って、全科目で『4』か『5』を取らなくちゃダメなんだよね?」 なぜさゆりが奨学金のことを知っているのか? 美穂には思い当たることがあった。 母親がさゆりの父親の会社を五月末に退職するとき、これからの生活を心配する社員たちに向かって、安心させる意味で秋山先生から聞いたことを話してしまったと言っていた。 「知りたいに決まっているじゃない」 「じゃあ、五万円で教えてあげる」 さゆりは不敵な笑みを浮かべたまま、さらりと言う。 「え……」 そこで目をまん丸にした美穂は言葉に詰まるが、心の中では全てが繋がった。 頭が切れるさゆりのことだ。須藤由香里が欠席なのがわかってから急遽たてた作戦なのだろうが、共犯のリコによって、自分は英語の授業を欠席せざるを得ない状況に追い込まれたというわけなのだ。 そして今、五万円を巻き上げようとしている。 でもお金に困っているはずのないさゆりが、なぜそんな大金を欲しがるのか、いまひとつ理解できない。 ここは偽らざる気持ちを伝えて、もう少し探りを入れてみることにする。 「そもそも私みたいな貧乏人が、そんな大金を持っているわけないじゃない。どうやって払えっていうの?」 「私、知っているのよ。あなたが夏休みに新聞配達のアルバイトをするってことを」 そう言われるとは、美穂は全く予想していなかった。でもいったい誰が? 深く息を吸い込むうちにその答えはすぐにわかる。美穂がその話をしたのは一人だけだったから。 「秋山先生から聞いたのね」 「そのとおり。ついこの前私と山本君が先生に呼ばれたときに」 「なら、知っているんでしょう? 私がアルバイトを特別に許可してもらったのはお小遣い稼ぎのためじゃないって。修学旅行の積立金を五万円払わなくちゃならないし、生活費は足りないし……なのになぜ、私に五万円も要求するわけ?」 そう訊きながら、美穂はアルバイトで果たしてどのくらい稼げるのか計算してみる。 新聞販売店主のおじさんは七月に十日働くと三万円と言っていたから、八月はその三倍で九万円になる。とすれば合わせて十二万円だから、学校に五万円払い込んだとしても残金はまだ七万円。そこからさゆりに五万円渡しても手元に二万円は残る。 「慰藉料よ。あなたは気づいていないだろうけど、私ものすごく傷ついているの」 聞いた途端、美穂の中でこれまで溜まりに溜まっていたさゆりたちからのイジメに対する怒りが爆発する。 「なんですって? 慰藉料なら私がもらいたいぐらいだわ。これまで散々廣瀬さんを使って私をイジメておいて、よく言うわよ」 日頃から大人しく、これまで一度も自分に逆らったりしたことのない美穂がものすごい剣幕で言い返してきたものだから、さすがのさゆりも一瞬戸惑いの表情を見せる。しかし怯むことなく返してくる。 「何言っているの。私がイジメたって証拠でもある? ないはずよね」 「……」 「私の方は、あなたのお母さんのおかげで家の中がめちゃくちゃになったのよ。知らなかったみたいだから教えてあげる」 さゆりの話は、ざっとこんなところである。 さゆりの父親と美穂の母親は社長と社員の関係を越えて、長い間不倫をしていた。 それが昨年夏にさゆりの母親に発覚し、家庭は崩壊。以来さゆりたち姉妹と母親は、東南駅近くの父親が所有するマンションで別居生活となる。 二人の不倫がバレたきっかけは、美穂の母親がその不適切な関係の解消を言い出し、手切れ金三百万円を要求したことだった。美穂とさゆりが同じ中学校に進学して母親同士がPTAで顔を会わせる機会も増え、日増しに彼女の中で罪悪感が募ってきたというのがその理由らしい。 昨年八月のある日、さゆりの母親は久しぶりに会社を訪ねた。 部活の合宿に参加するさゆりの姉が昼食を持参すると言うので、手によりをかけた弁当をどうせならばと夫の分まで作ったからだ。 驚かせようと、ノックもせずに社長室のドアを開けると――。 応接テーブルの上には百万円の札束が三つ重ねて置かれ、その横で夫が美穂の母親に向かって土下座をしているではないか。 その光景から全てを悟ったさゆりの母親は、咄嗟にその三百万円を奪い取って社長室を飛び出し、夫婦関係はあっけなく破綻した。 さゆりの母親が二人の関係を疑い始めたのは四、五年前のこと。 その頃から父親は急に朝帰りが増えた。その都度、二軒目のクラブで酔いつぶれて寝てしまったとか何とか苦しげな言い逃れをするものだから、疑念は深まる一方だった。美穂たちをホームパーティに招いたときも二人は意識してよそよそしくしているようで違和感があったという。 美穂にとっては、すべてが寝耳に水の話なのだ。 記憶を紐解いてみると、美穂の母親がさゆりの父親の会社で働き始めたのは十年ほど前になる。その前年に美穂の父親が若くしてクモ膜下出血で倒れ急逝。残された母子が生き抜くためにはやむを得ない選択だった。 働き始めて四、五年経過した頃から、母親は急に化粧が濃くなった。 口には出さなかったものの、自分と違って目鼻立ちが整った色白の母親には全く必要ないように感じた。 次第に帰宅が深夜になったり、徹夜残業で翌朝着替えに戻ってくるなんてことも増えてきた。 そんなときの言い訳はいつも同じセリフなのだ。 「女手一つで暮らしていくためには頑張って残業しないとね」 でもまさか、こんないけないことをしていたなんて……。 「ごめんなさい」 美穂は思わず謝罪の言葉を口にする。 本来の優しく穏やかな性格もあって、先ほどまでの怒りの気持ちはどこかへ消えてしまっていた。 これまで自分が何度も受けてきたさゆりたちからのイジメと、母親の不倫によってさゆりが味わった苦しみと、どちらがより罪深いものなのか全く分からなかった。 「でもね、それだけじゃない。私、見たのよ。あなたがバスケ部の片山君とデートしているところを」 そこでさゆりは、さらに驚くべきことを言い出す。 「デートじゃないし、そもそも恋人なんかじゃない。私のような母子家庭の娘と片山君が釣り合うわけないじゃない」 美穂にしては大きな声ではっきりと否定するが、さゆりは怪訝そうな表情のままだ。 「嘘だと思うなら、片山君本人に直接訊いてみれば?」 美穂がそこまで言うと、その途端さゆりからそれまでの強気な表情がスッと消え、それ以上の追求は止んだ。 「ねえ、さっき言った五万円のことだけど、払うの?」 さゆりが話を戻す。 実はそのとき、背に腹は変えられない状況に追い込まれていたのだ。 多少法律に触れようが、何としても美穂からまとまったお金を奪い取るしかなかった。 両親が別居してからというもの、母娘三人の生活費は毎月きちんと父親から振り込まれてくるとはいえ、母親は急に締り屋になった。小遣いは半分の一万円に減らされた上、洋服とかアクセサリーの類いにはお金を出し渋るので、欲しいものは自分で買うしかない。 加えて美穂へのイジメに際しては、実行役のリコに何度も謝礼を渡したため、それまであった多少の貯金も底をついていた。 「払います。だから、教えてください」 先程の計算では、それでもまだ多少は手元に残るはずだ。 美穂は八月末に支払うことを約束し、引き換えに英語の出題範囲を教えてもらうことができた。 そのおかげもあり、翌日の英語のテストは百点満点だった。
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