タイムリミット
第2章 新たな人生6−2

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 その翌日、三日水曜日の六限目終了後。  康太としのぶは上条さゆりに気付かれぬよう、別々に西棟一階の職員室に秋山先生を訪ねる。もちろん、康太には重人もぴったりと付いてきている。  先生は開口一番、全く予想もしないことを言い出すではないか。 「本田さん、君は本当にはっきり見たのかな?」 「え、何をですか?」 「だから、その……上条さんが長友さんから何か茶封筒らしきものを奪おうとしていたところを」 「はい、昨日もお話ししたとおり、この目ではっきり見ました」 「本当に?」  先生は納得がいかないといった表情で訊き返す。 「はい」 「でもな、上条さんは見間違いだときっぱり言っていた」 「……そんな……」  しのぶは戸惑いの色を隠せない。顔から血の気が一気に引き、握りしめた拳が微かではあるがわなわな震えている。  次の言葉が出てこないしのぶに代わって、康太が訊く。 「では伺いますけど、あの公園で彼女は一体何を争っていたと言ったのですか?」 「揉めていたとか喧嘩していたとか、そういったことではなかったと言っていた。彼女が言うには、父親から預かった長友さんのお母さんへのお見舞い金を手渡そうとしたら、『いらない!』 と言われて押し問答をしていただけだったそうだ」  そう聞いて、あの「お別れ会」の前に重人が言っていたことが頭に浮かぶ。 「なるほど。長友さんのお母さんって、確か元は上条さんの父親の会社で働いていたんでしたものね。それなら、本当にそうだったのかもしれませんね」  康太が納得したようなことを言うものだから、困惑気味の重人が諭すように言う。 〈ちょっと待って! 騙されちゃいけないよ。康太君は自分でも、上条さんは言い逃れするに決まっているって、本田さんに言っていたじゃない。もう忘れちゃったの?〉 〈そうだった、ゴメン〉と詫びながらしのぶの方を伺うと、裏切り者を見るような目つきでこちらを睨んでいる。 〈でも、今日のところはもう引き下がろう。ここでこれ以上先生を追求しても、何も出てこないよ〉 〈そうだね。もう一度作戦を練り直そう!〉  賢明な重人のアドバイスにテレパスで返しながら、まだ肝心なことを訊いていなかったことに気付く。 「先生色々ありがとうございました。ただ最後に一つ確認してもいいですか?」 「どんなことかな?」 「こんなこと伺って気を悪くなさらないでいただきたいのですが、先生は上条さんに、本田さんの名前は伏せてくれていますよね?」 「それはもちろんだよ。本田さんには決して迷惑はかからないように、『ある人が目撃した』としか言っていないよ」 「ご配慮いただきありがとうございます。安心しました」  まだ何か言いたげなしのぶを無理やり促して、二人は職員室をあとにする。  五日金曜日、三限目は二年三組と四組合同の体育。  両組の女子は校庭で十月初旬に行われる体育祭に向けて、クラス対抗千メートルリレーに出場する代表チームの選考レースを行うことになっている。  このリレーは五人一チームで、各走者がトラック一周二百メートルを走るのだ。  女子の人数は両組とも二十名なので、チーム分けは単純に出席名簿順に行い、うまい具合に各四チームが出来上がった。  しのぶのチームには、上条さゆりの金魚のフンとも言える広瀬リコがいた。  走る順番をどうしようかとメンバー五人が集まったところで、そのリコが提案する。 「私、四番目がいい。で、アンカーは本田さんにしない? 一学期の百メートル競走のとき、上条さんと本田さんが同じタイムで一位だったよね。だから適任だと思う」  ほかの三人は自己主張するようなタイプではなく、もちろんしのぶにとってもアンカーは望むところである。リコの提案はすんなり受け入れられ、残る一から三番目の走者は三人がジャンケンで決めた。  レースは稀に見る接戦となる。  第三走者までは八チームが抜きつ抜かれつほぼ横一線の争いで、第四走者にバトンが渡ってはじめて、意外にもリコが頭一つ抜け出した。縦にも横にも大きな身体なのに足は早い。  最終コーナーを回ったときにはほかのチームに五メートルの差をつけていた。  アンカー八人の中には、予想どおり上条さゆりの姿も。  リコがリレーゾーンの直前に迫ってきたとき、しのぶは一足先にバトンを受け取る姿勢に入る。右手を目一杯後ろに伸ばして助走を始めると、程なくバトンが手に触れたので、しっかり握って全速力で走り出そうとした次の瞬間、信じられないことが――。  何故かスーッとしのぶの掌からバトンの感覚がなくなった。  慌てて後ろを確認すると、バトンはリコの手も離れてグランドに転がっている。  結果、しのぶのチームは八チーム中最下位で、三組の上条さゆりのチームが一位。しのぶはすぐにバトンを拾い必死に走ったけれど、散々な結果となってしまった。  ゴール横では、走り終えた上条さゆりをチームメイトが囲んで、互いの健闘を讃え合っている。  うなだれてチームの元へ戻るしのぶに上条さゆりが声を掛ける。 「あなた、レースをぶち壊しちゃったわね。勝っていたのに」  その一言で、しのぶの頭は真っ白になる。  えっ、私がワルイの?  しのぶには自分がミスを冒した自覚がなかったのだ。  そこへリコが物凄い剣幕で駆け寄ってきて、追い打ちをかけるように責め立てる。 「ねえ、どうしてバトンを落としちゃったのよ! せっかく私が一番になっていたっていうのに」 「ゴメン……」  反射的にしのぶはそう言ってしまう。  だがこの状況に全く納得できていなかった。バトンの受渡しは渡し手と受け手の共同作業であり、今回のようにバトンが地面に落ちてしまった場合、その責任がどちらか一方だけなんて理不尽なことがあるはずはないからだ。  睨みつけてくるリコの目は、獲物を捉えたオオカミのように異様に光っている。先程までの友好的な眼ではない。  そう言えば、こんな眼をこれまでにも何度か見た記憶があった。  長友美穂をからかったりしていたときには、いつもそんな目をしていた。  そうなると、リコは私を美穂の代わりにしようとしているのか?   私がバトンを握ろうとする前にリコがワザと落としたのか?   疑問が次々と湧いてくるものの、証拠がない以上、ここで言い返せば火に油を注ぐことになりかねない。しのぶはだんまりを決め込むしかなかった。  不可思議なことは続く。  週が変わり八日月曜日の三・四限目、美術の時間。  二学期は毎週テーマを決めて水彩画を一枚ずつ描くことになっており、この日は「自画像」。各自が気に入った写真を持参し、それを見ながら自分の顔を描いていくのだ。  生徒はスケッチブックを開いてイーゼルに載せ、まずデッサンを描き始める。  片手に持った写真を確認しながら、もう片手で鉛筆を動かして、画用紙に目、口、鼻と自分の顔を再現していく。真正面から、少し斜めから、真横から、生徒によって描く角度はまちまちで、表情もはにかんだような笑顔、大笑いしている顔、生徒証の写真のように真面目くさった顔など、まさに十人十色だ。  しのぶは予想外のトラブルに見舞われて、授業開始にやや遅刻する。  トイレで用を済ませてロッカーから絵の具箱を取り出した瞬間、箱の留め金が外れていたため、パカッと蓋が開きチューブ入りの絵の具が全部廊下に散乱してしまったからだ。  拾い上げていくと白色のキャップの付いたチューブに違和感があった。  かなり中身が減っている上に、チューブに巻き付けられている紙も半分以上ちぎれて、何色なのかわからなくなくなっている。しのぶにはそれほどその白色を使い込んだ覚えがなく、これが自分のチューブでないことは明らかだった。  いったい誰が何でこんなことを? 単なるいたずらなのか?   あるいは……先週金曜日のバトンの一件が脳裏をよぎるものの、このことと関連があるのかどうかもわからない。狐につままれたような思いでその場にボーと立ち尽くしてしまい、授業開始のチャイムが耳に届かなかった。  しのぶは遅れて描き始める。しかしあっという間にほかの生徒に追いついた。もともと絵を描くのが大好きで、小学校の間は近所の絵画教室にも通い、毎年写生大会では入賞していたのだから腕には自信がある。  鉛筆を持つと手はスラスラ動く。夏休みに家族旅行で訪れた琵琶湖が一望できるロッジをバックに撮った写真を見ながら、真正面を向いてニコリと微笑んでいる自分の顔を手早く描き上げる。チャームポイントだと思っているエクボをくっきりと二つ描くことも忘れなかった。  デッサンが終わると、次はいよいよ絵の具の出番となる。  最初は肌に色を塗る。生徒たちは十二色しか持っていないので、肌色は白色、オレンジ色をベースとして、そこに茶色、黄色、赤色を少しずつ加えて作るのだ。  しのぶはもともと色白な方だが、夏の強い日差しで小麦色に焼けている自分の肌をチェックして、この日はいつもより茶色と赤色をやや多めに混ぜることにする。  多く使う色から順にパレットに絵の具を出していく。 まずは白色だ。中身がかなり減った自分のものではないチューブを手に取ると、全く無意識のうちに、一つ右隣のイーゼルに向かっている広瀬リコに視線が向く。  バトンを落としたあと自分を睨み付けてきたリコのあのときの視線がまざまざと脳裏に蘇ってくる。敵意丸出しでまるで獣のような目をしていた。冷房が効きすぎているわけでもないのに、思い出すだけでゾーッと寒気がする。  リコの方は、こちらの視線に気づいたのかはともかく、素知らぬ顔で鉛筆を動かしデッサンを続けている。  ただ、何かがおかしい。  その違和感の元を探っているうち、すぐにリコの絵の具箱の中に白色の絵の具が二本入っていることに気づいた。一本は半分ほど中身が減り、もう一本はまだほとんど新品同様で、しかもキャップがついていない。  あの新しい方はもしかして……でも証拠がない以上、追求したところでしらばっくれられるに決まっている。  気を取り直して、再び自分の作業に集中することにする。  自分のものではない白色のチューブから絵の具を絞り出す前に、もしや?と慎重に覗くと、案の定中身は白色ではない。どう見ても黒色だ。もし今パレットにこの色を出していたなら、私の肌色は台無しになるところだった。  やはりこれは軽いイタズラで済ませられるようなことではない。  明らかに自分に対するイジメだ。  すべて仮定の話にはなるけれど、金曜日にリコがバトンをわざと落としたのだとして、今日絵の具に小細工をしたのもリコであるなら、それは私によほど強い恨みを抱いてのことなのだろう。  だがいったい何故なのか? 全く思い当たらない。  リコが犯人ではないとすると、ほかに誰か私を凄く恨んでいる人がいることになる。  手を動かさずにそんなことを考えているうち、心臓の鼓動がバクバクと早くなり、寒気が増してきた。 「本田さん、具合でも悪いの? 顔色が悪いわよ」  岡本先生の声で我に返る。 「いえ、大丈夫です。ただ私、白色の絵の具を忘れてきてしまって……どうやって肌色を作ろうかと迷っていただけなんです。でもやっぱり白色がないと出来そうもありません。先生、白色の絵の具を貸していただけますか?」  しのぶは思わず大人の対応をしてしまう。  本当のことを訴えたところで自分には何のメリットもない。  クラス中が犯人捜しで混乱するばかりか、結局迷宮入りし、しまいにはしのぶの狂言ではなかったのか?なんて噂が立ちそうなことは目に見えている。  そんなことになったら真犯人の思う壺ではないかと咄嗟に考えた。

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