タイムリミット
第1章 神様の手違い6

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 容赦なく照りつける日差しによって灼熱地獄と化していた東南公園にも、日没の時間が近づいてきた。  秋の気配を感じさせるさわやかな微風が木々の葉を揺らし始めると、それに誘われるかのようにイヌを散歩させる人や買い物帰りの親子連れなどが集い始め、「噴水広場」にも賑わいが戻ってきた。  康太は約束の時間に遅れるのではないかと気が気でなかった。そのためジェニーが用を足したときと赤信号以外は立ち止まることなく、終始早足に公園を目指した。  ジェニーは約束どおりピタリとそのあとに続き、柴崎さんもリードを持つ手を離すまいと必死の形相で汗をぬぐいながら小走りを続けてくれた。  そのおかげで、時計の針が午後六時を指すのとほぼ同時に、康太たちはからくも「噴水広場」に到着できた。まさにギリギリセーフだった。  約束の相手はすぐに見つかった。  池をぐるりと囲むように置かれたベンチの一つに痩せた中年の女性がポツンと座り、そのすぐ近くにゴールデンレトリバーがフセをしている。  エリカのママとジョンに違いない。  エリカはそのベンチの後ろに立って心配そうな顔で、キョロキョロ辺りを探している。  康太が背後から近づくと、半透明の身体からは息遣いなぞ聞こえるはずはないのに、エリカはハッと振り向いた。  笑顔の二人は互いの肩に右手をまわして、出来るはずのないハグのまねごとをする。 「良かった! 約束どおり来てくれて」 「康太君こそ、約束を守ってくれてありがとう!」 「正直言うと、オレ自身こんなにうまくいくか半信半疑だったよ」 「わたしたちはなんとか五分ぐらい前に着いたんだけど、あなたを見つけるまでは、もう不安で不安で……」  感激のあまりか、エリカはそれ以上言葉が出てこない。 「ママを外へ連れ出すのは大変だったかい?」 「確かに、ちよっとね。わたしがウチへ帰ったとき、ママったらソファーに座ってただボーっとしていたの。ダイニングテーブルには、おばあちゃんが俳句の会に出かける前に用意してくれたらしいカレーライスの昼食がラップして置いてあって、それには全く手を付けていなかった……」  また言葉に詰まってしまったエリカを見て、幽霊が悲嘆に暮れた母親を散歩に連れ出すことが簡単ではなかったのだと康太にもわかった。  ややあって、平静を取り戻したエリカが話を続ける。 「……わたしなりに、頭を使ったのよ。ママをまた散歩に連れ出すには、まずはシャキッとさせなくちゃダメでしょ。なのでジョンをママにまとわりつかせてみた。しつこいぐらいに手や顔をぺろぺろ舐めさせて、それからクウーン、クウーンと甘えさせた。そうしているうちに、やっとママがソファーから身体を起こして、『どうしたの? 私に何かしてほしいの?』ってジョンに話し掛けてくれた」 「それは良かった。それで?」  康太は続きを催促する。 「ジョンに、玄関横の壁に掛かっているリードをくわえて持って来させた」 「なるほどな。リードを見れば、おまえのママにもジョンの気持ちがわかるね」 「そう。ママが『またお散歩に行きたいのね』って笑いながら身支度を始めてくれて、あなたとの約束を果たすことが出来たというわけ」 「なるほど、一か八かの作戦だったようにも思うけど本当に上手くいってよかった。さすが、 オレが見込んだだけのことはあるよ」  康太は心から祝福する。  エリカも努力が実り康太にも認められたことで、とても気持ちが高揚していた。  振り返ってみれば、パパが死んで日本に来てからというもの、自信をなくすようなことばかりが続いていた。もし生きているうちに、こんなようなことが一つでも経験できていれば……などと考えながら康太の隣に目を移したところで、頑張ったのは自分だけではなかったことに気付く。 「ところで、あなたの横でフセをしているイヌと、そのリードを持っているおじさんはいったい誰なの?」 「このイヌはジェニー。さっき病院前から天国に旅立ったじいさんを見ていただろ?」 「ええ」 「ジェニーは、そのじいさんの飼い犬さ」 「それじゃ、このおじさんはジェニーの新しい飼い主さん?」 「いや、そうじゃない。この人はじいさんが暮らしていたマンションの管理人さん。もし新しい飼い主が見つからないと、最悪の場合には殺処分にされちゃうかも」 「へえ、そんなの可哀そう過ぎる!」  そう嘆きながらエリカは、気が優しく面倒見の良い康太には何かジェニーを救う作戦があるに違いないと気付く。 「……そっか、そういうことだったのね!」 「え、いったい何がだよ?」 「だから、あなたがジェニーをここへ連れてきた理由がわかったの」 「マジで?」 「ええ。つまりね……」  エリカが話し始めようとした、ちょうどそのとき――。  康太のそばでフセをしていたジェニーが、スッと立ち上がってベンチ前のジョンに近づいていく。つられて柴崎さんもリードを持つ手を離すまいと前のめりになりながら、二、三歩前に進み出る。 〈こんにちは、ワタシはジェニー。あなたは?〉 〈ボクは、ジョン。よろしく!〉  ジョンも思わず立ち上がり、二匹が鼻を近づけ合う。 〈キミはいいニオイがするね、ボク好きだよ〉 〈ワタシもあなたのニオイ好きよ。仲良くしましょうね!〉 〈いいとも!〉  意気投合した二匹は尻尾を振りながら鼻をくっつけ合ったり相手の顔を舐め合ったり、それぞれがありったけの親愛の情を示して楽しそうにじゃれ合い始めるではないか。  それまで固唾を飲んで見守っていた康太とエリカからは、どちらからともなく笑みが漏れる。 「良かった! 相性が良くって」  実際、康太はヒヤヒヤものだった。二匹のウマが合わなければ、もうこの作戦は中止せざるを得なくなるからだ。 「そうね。さっきわたしが言いかけたのは、まずはこうなって欲しいってことよ」  エリカも嬉しそうに言う。 「でも、まだ気は抜けない。オレが思い描いたとおりにいくのか、もう少し様子を見ていないと……」  実際、もうこれからは運を天に任せるしかない。康太には何も手出しできないのだから。 「そうね」 「オタクのワンちゃんメスですよね? ウチはオスですけれど、二匹はとても気が合うみたいですね」  ママが頬を緩めながら、柴崎さんに話し掛ける。 「ええ、メスです」 「失礼ですけど、以前にウチのイヌとお会いになっていますか?」との問いかけに、「え?」と柴崎さんが驚いたように訊き返す。 「いえね、私は普段仕事があって、この子の散歩は母に任せているものですから……二匹を見ていたら、とても初めて会ったイヌ同士とは思えなかったもので」 「確かに、まるで恋人同士っていう感じですよね」  柴崎さんも目を細めて頷く。 「ではやはり、散歩の途中でウチのイヌとお会いになっていたのですね?」 「さあ、わかりませんねえ」 「え、どういうことですか?」 「この子、ジェニーというのですが、実は私、この子が飼われているマンションの管理人をしていまして……この子と散歩するのは初めてなんです」 「じゃあ、飼い主さんに頼まれて?」 「それはそうなんですが。実は、ジェニーの飼い主が先程亡くなられまして……」  柴崎さんはママの隣に腰を下ろすと、沈痛な面持ちで、朝早くに自室で倒れている峰岸さんを発見してからここに来るまでのいきさつを説明する。 「今のお話ですと、ジェニーはここまで寄り道もせず真っ直ぐに急ぎ足であなたを連れてきたということですよね?」  ひととおり聞き終えたママは、今一つ合点がいかないといった表情だ。 「ええ、まるで最初から目的地をここと決めていたみたいでした。おかげで私なんぞ、早歩きというよりもほとんどジョギングさせられたって感じですよ」  まだ汗が引ききっていない柴崎さんの額が、夕陽に光って見える。 「やっぱりそうでしたか。この子はジョンと言いますが、ジェニーと同じなんです。手に持ったリードが引きちぎれるのではないかと思えるような勢いで、脇目も振らず一目散に私をこの公園まで連れてきました」 「へえ、それは奇遇というか……」  管理人さんはあり得ないという顔で首をかしげながら続ける。 「運命の赤い糸なんて、イヌの世界でもあるんですかね」 「よくわかりませんが、相性がピッタリなのは間違いないですね」  二匹の様子を微笑ましげに眺めていたママの目が、そこで突然遠くを見るような感じに変わる。 「……実は先月十四歳の一人娘が亡くなってしまって、それから四十日ほど経ちますが、全く心の整理がつかなくて仕事に行く気にもなれず、ずっと家に籠ったままでした」  管理人さんは静かに耳を傾けている。 「今朝はそんな私を見かねた母に促されて、久し振りに早起きしてジョンと散歩に行きました。でもまだ心の傷は癒されていなくて、公園で元気に遊ぶ子供たちを見ていたら……気分転換になるどころか、余計に落ち込んでしまって……」  そのときのことを思い出したのか、ママの目から大粒の涙が一滴、また一滴と溢(こぼ)れ落ちてくる。 「それは本当にご愁傷様です。でもまたこうしてジョンと夕方の散歩にも出て来られたのですから、あなたは間違いなく立ち直りつつありますよ」  管理人さんはママを励ますように言う。 「そうだといいのですが、実のところはジョンにしつこくせがまれて無理やり連れてこられたってところなんです」 「それはジョンも飼い主のあなたを応援しているってことじゃないですかね」 「きっとそうですよね」  ママの顔に笑みが戻る。  この間も、二匹のゴールデンレトリバーは飽きもせず楽しそうにじゃれ合い続けていた。  その先の池では、大小様々な放物線を描いた噴水がピシャン、ピシャンと涼しげな音を立てて、次々と白い飛沫を上げていく。その連続音は、あたかも噴水のモニュメントが二匹の出会いを祝って盛大に拍手を送ってくれているようにも聞こえてくる。 「……確か先程、しばらくの間はあなたがジェニーの世話をなさると……そうおっしゃっていましたよね?」 「ええ」 「あなたがジェニーの飼い主になってあげられないのですか?」 「残念ながら、ダメなんです。うちのマンションの規約では管理人室はペットを飼うことが禁止されているのです」 「では、ジェニーはこの先どうなるのですか?」 「九月末までは家賃をいただいておりますので、あの部屋にジェニーを置いておいて、私が食事の世話と朝晩の散歩をしてあげようと思っています」 「ということは、その間にジェニーの新しい飼い主が見つからないと保健所に連れて行かれてしまうとか……大変なことになりますよね?」 「そうなんです」 「どなたかお心当たりがおありではないのですか?」 「それが全く……」  柴崎さんは両手の拳をギュッと握りしめ、ママも目を泳がせている。  何とかして助けてあげたいのにそれがままならない無念さは、二人とも同じなのだろう。  しばらくしてママがその沈黙を破る。  四つ葉のクローバーを探し当てたかのような明るい声で。 「もしよかったら、私をジェニーの新しい飼い主にならせていただけませんか? あ、その前に自己紹介ですよね。私、小林麻子と言います」 「いえ、こちらこそ申し遅れまして、私はパークス西山の管理人をしております柴崎三郎と申します。それで、今のご提案を信じてよろしいのですか?」  名刺を渡しながら柴崎さんも名乗るが、まだ半信半疑のようだ。 「はい、もちろんです。この二匹こんなに仲が良いのですもの。ジェニーがウチに来てくれると家の中が明るくなるでしょうし、私も心が癒されて元気が出るんじゃないかって、そんな気がしてきたんです」  最初戸惑っているように見えた柴崎さんの顔が、次第にほころんでくる。 「それではお言葉に甘えて、あなたにジェニーをお任せしたいと思います。実をいうと、ドッグフードもあまり残っていなかったので、どこかで買わねばと思っていたところでした。これできっと亡くなった峰岸さんも安心することでしょう。今ここでお渡ししてもよろしいですか?」 「はい、どうぞ」  柴崎さんはベンチから立ち上がると、ママに向かって深々と会釈をして、それまで握りしめていたジェニーのリードを差し出す。 「よろしくお願いします」  この間も二匹はじゃれ合い続けてはいたけれど、時折二人の方に流し目を送るなど、この話の成り行きが気になっていることは明らかだった。 「ワン!」  ママがリードを大事そうに受け取ると、二匹が声をそろえて嬉しそうに吠える。  その途端、柴崎さんの表情は底抜けに明るい笑顔へと変わっていく。  きっと、喉につかえていた食べ物がスッと胃袋に落ちたときのような、とても晴れやかな気持ちなのだろう。 「ジェニー、こんなにも早く新しい飼い主が決まって本当におめでとう。これからは小林さんにうんと可愛がってもらえよ」  柴崎さんはしゃがんで、何度もジェニーの身体を優しく撫でながら、別れの言葉をそっとささやく。 「ワン! ワン!」  ちぎれんばかりに尻尾を振りながらジェニーも別れを惜しむ。 「ジョン、ジェニーのこと頼んだぞ。いつまでも仲良くしてね!」  柴崎さんは最後にジョンにも声を掛けると、足早にその場を立ち去っていく。

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