タイムリミット
第2章 新たな人生3

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 寝支度をすっかり済ませたパジャマ姿の康太が重人の部屋に入ろうとすると、母親に呼び止められる。依然として息子のことが心配で仕方ないといった様子だ。 「ねえ重人、まだ十時過ぎだけれど、本当に今夜はもう勉強しないで寝なさいよ。あなたさっき、居眠り始めちゃうんだもの。昨日のことで疲れが残っているのよ。それに記憶障害だってまだ完治したかどうかわからないじゃない。だから今晩あなたがすべきことは、たっぷり寝て体調を整えること。わかった?」 「うん」  康太がそう言うと、母親が意外そうな顔になる。 「今日はやけに素直ね。この前なんて風邪ひいて熱がまだあったのに、言うこときかないで十二時まで勉強してたじゃない。だから今日も、これから勉強するって言い張るかと思ったけれど」 「……」  湯上りの疲れも加わって頭の働きはさらに一層鈍くなってきたようで、どう反応すべきか迷っているうち、かつて重人と交わした会話が脳裏に浮かぶ。  確か話の流れで、「野球部の練習は運動量が半端じゃないし、毎日九時間は寝ないともたないんだ」とボヤいたら、重人が、「僕、睡眠時間は七時間で充分。どんなに疲れていても、不思議に机に向かうと目が冴えてきて十二時まで勉強しちゃうんだ」と返してきたことがあった。そのとき、もし自分ならきっと耐え切れずに家出でもしてしまうに違いないと強い衝撃を受けたものだった。  それなのに康太の行く手にはその苦行ともいうべき生活が確実に待ち受けているのだ。  いつの間にか、せっかくバスタオルで綺麗に水気を取ったばかりなのに、身体が何やらべっとりしている。ジワッと冷や汗が出てきたようだ。 「ねえ、どうしたの? やっぱり勉強しようかなって迷っているんじゃないでしょうね」  康太の沈黙を妙に思った母親が訊いてくる。 「いや、今日は本当に、本当に寝るよ。おやすみなさい」 「おやすみなさい」  ようやく安心したのか、母親は穏やかな目に戻る。  部屋に入るなり、康太は電気も付けず倒れるようにベッドに潜り込む。  寝る子は育つと格言にもあるように、それまで康太は不眠とは無縁だった。  疲れていようがいまいが、そんなことは関係なかった。頭を枕に乗せて瞼を閉じれば、まるで底なしのブラックホールに吸い込まれていくように、たちどころに意識が遠のいて深い眠りに落ちていけた。  それが今日は違う。  瞼を閉じてはみたもののなかなか眠れそうもない。  両親から解放されてのんびり湯船に浸かり、やっとほぐれたはずの緊張の糸が、今の母親とのやり取りで再びピンと張り詰めてしまったらしい。  この家に一歩足を踏み入れたときには、重人として生きる新たな人生にチャレンジしてみようという意欲が芽生えていた。  実際、重人の書いた感想文を読んで自分も国語の勉強を頑張ってみようと思ったし、「ヘイ・ジュード」を聴いたときは英語で歌えるようになりたいと強く願った。  でも、それらは遥か遠い昔の出来事のようにさえ感じられる。  これまでただ遊びほうけてばかりで基礎的な学力さえ不十分な自分が、真面目に毎晩午前〇時まで勉強をして好成績を上げる……そんな曲芸みたいなことが本当にできるのか?  そもそも、重人のように両親から優秀なDNAを受け継いでいるわけでもない。  山本重人として病院で目覚めたときから、薄々は予期していたものの、新たに授かった人生は親子関係の面でも茨の道になるであろうことは、このわずか数時間の実体験からも明らかだ。成績が上がる前に精神的に参ってしまうということだってあり得ると思う。  ならばせめて眠くなるまでリラックスして楽しく過ごしたいのに、残念ながらこの部屋には大好きなマンガ本はないしパソコンも遊びには使えない。  観念した康太は、羊を数えながら深呼吸を繰り返して眠くなるのを待つことにする。  しばらくすると、この部屋の寝心地がホテルのように快適なことに気づいた。  湯上がりの火照った身体に薄い羽毛布団を掛けているというのに、とても涼しい。  いつの間にか、冷や汗もすっかり乾いている。  枕元に置かれたエアコンのリモコンを手に取って、カーテン越しに入ってくる街路灯の薄明かりで設定温度を確認すると、24℃度と表示されている。  夕食前この部屋に来てスイッチを入れたときは26℃に設定されていたから、きっと入浴中に母親が気を利かせて温度を下げてくれたのだろう。  つい一昨日までは、こんな贅沢は許されなかった。  蒸し風呂のような自分の部屋で、28℃に設定されたエアコンをタイマーで一時間だけ付けて何も掛けずに寝るしかなかった。毎朝眼ざめたときは、汗でびっしょり湿ったパジャマが肌に張り付いて気持ち悪かったものだった。 「……超、快適じゃん。もしかして、この家ではこのままクーラーを付けっぱなしで寝てもいいのかな?」  康太は思わず声に出す。  すると間髪を入れず、「もちろん」と右耳のすぐそばで声がするではないか。  この部屋には自分以外の人間がいるはずはないのに、空耳だろうか? いや、そんなはずはない。確かに聞こえたのだ。途端に背筋がゾクッとしてきた。 「……誰かいるのか?」  康太が訊いても、返事はない。でも、納得できない。  恐る恐る枕の上で頭を右に向けて声の主を探すと、ほんの数センチ先に人間の頭らしきシルエットが薄ぼんやりと見える。  何と同じ枕の右隅に頭を乗せて、掛け布団の上とはいえ、壁と康太の間の狭いスペースに窮屈そうに横になっているのだ。しかも着ているものは野球のユニフォーム。  きっと、オレが横になるまでは堂々とベッドの真ん中に寝ていたのだろう。何て図々しいヤツなんだと思うけれど、不思議と圧迫感はない。  薄暗さに眼が慣れてくると、横顔のシルエットが次第にはっきりしてくる。  それは見慣れた重人そのものなのだが、顔の奥には壁紙の模様が透けている。  つまり、重人は重人でも、明らかに幽霊だ。 「……そうか。あいつは仕方なく、半透明の姿のままこの世を彷徨っているわけか」  ようやく合点のいった康太が自信ありげにつぶやくと、半透明の重人がこちらに向き直って顔をさらに近づけてくる。その距離は一センチもない。目は点になり、口はぽかんと開いたままで、狐につままれたかのような表情だ。 「おまえ、何で驚いてるのさ。幽霊には怖いものなんてないんじゃないのか?」 「……も、もしかして僕のこと見えるの? 君は誰なの?」  若干の間があって、重人が恐る恐る訊いてくる。  全く予期していなかった出会いのせいで、康太は眠ろうという気持ちが失せていた。  となれば、ここはひとつ重人をからかってストレス解消といくか! 「オレが重人だよ」  そもそもおまえが自殺なんてしなければ、オレは別の人間になってもっと気楽な人生を歩めたのかもしれないし……と恨みがましい思いを込めて言い返す。 「えっ、冗談でしょ? 重人は僕だよ」 「そっちこそ、嘘つくなよ。誰がどう見たって、この身体は重人そのものじゃないか。違うかい?」  しばしの沈黙の後、康太の予想に反して、半透明の重人は取り乱すこともなく落ち着き払った素振りで口を開く。 「……君が本当は誰なのか、僕にはまだわからない。でもこれだけは間違いない。君も僕と同じ幽霊で、僕の身体に入っているってことなんでしょう?」 「えー、何で?」  逆に康太の方がシドロモドロになってしまう。 「そんなの簡単さ。君は僕のことが見えるし、話もできる。となると答えはひとつ。君が人間ではないということになるじゃん」 「やっぱり、おまえは頭がいいな。そう、確かにオレは幽霊……だった」  諦めの早い康太は、早々と白旗を上げてしまう。 「その言い方って、どこかで聞いたことがある。勿論声は違うんだけれど……」  そう言って重人は考え込む。 「え、そうか?」  そこで康太は気づいた。一人になった途端、気が緩んで元の康太の話し方に戻っていたことに。 〈もしかして、バレたかな?〉  康太が思わずテレパスでつぶやくと、重人がすぐさま反応する。 「それも聞こえているよ」 「いっけねー、忘れちまってたよ。幽霊ってテレパスも使えるんだった! オレって、おまえと違って本当にバカだよな」 「……今のその言い方って……そう、間違いない。君は康太君だ」 「どうしてそうなる?」  いくらなんでもバレるのが早すぎると思った康太が訊き返す。 「君のその人を見下したような偉そうな喋り方だよ。学校の友達の中で、成績優秀なクラス委員の僕のことを『おまえ』と見下した言い方で呼ぶのは、思い返してみても幼馴染の康太君しかいないんだよ」 「えっへっへ、バレたか。オレ、康太。よろしくな」  康太は素直に負けを認めることにする。頭の良い重人をからかうなど、康太レベルの凡人には所詮無理な話なのだ。  とはいえ、こんなに近い距離で顔を突き合わせている二人が無言のままでは、よけい気まずくなる。何か当たり障りのない話題はないものかとあれこれ考えているうち、重人の方から矢継ぎ早に訊いてくる。 「ねえ、何で康太君も天国へ行けないの?」 「それが神様の手違いで……」  説明し出すと長くなりそうなので、康太はそれだけ言う。 「じゃあ僕が天国へいけないのも、神様の手違いなのかな?」  重人は自殺してから先ほど自宅に戻るまで、ずっと東南中央病院の屋上で天国からのお迎えを待ち続けていた。だから、正面玄関前に日に四回現れる《光のリング》も見ていなければ、天使やほかの幽霊と接触する機会もなく、幽霊とは何ぞやといった基礎的なことを全く何も知らないのだ。  見かねた康太は苦手な話術を駆使して、これまで自分が見聞きしてわかったことを伝えていく。自殺した人が天国へ行くためには【善行】を積み重ねる必要があること、幽霊が自由に姿を変えられることなどなど……。  しかし、肝心なことを言い忘れていたようだ。 「……それじゃあ何で康太君は天国へ招待してもらえないの?」  いつのまにか上下とも半透明のジャージ姿に変わっている重人が、また先ほどと同じような質問を繰り返す。 「神様の気が変わったってことらしい。オレが幽霊になってから色々活躍したもんだから、もう一度人間に戻してくれたんだ」 「それにしても、何で僕になったの?」 「それも、神様の指示に従ったまでさ。病院のベッドで意識が戻って、自分が入り込んだ身体が重人のだってわかったときには、どんなに驚いたことか……オレだって好き好んでおまえになんかなりたくなかった。まだ重人になって一日しか経っていないけど、本当に色々大変だったんだぞ」  康太は愚痴混じりにそう言ってから、重人でないことが両親にバレないようにあれこれ気を遣って苦労したことを話す。 「それは康太君もある意味で災難だったね。天国に行かせてもらえていれば、何の苦労もしなくて済んだはずなのに」 「ああ、全く」  そうこうするうち、不安に満ちたように見えた重人の表情が緩んでくる。 「僕が軽はずみに自殺しちゃったことで、とうさんもかあさんもどんなにか悲しんでいると思っていた……でも、現実には重人はこうして生き返っていたんだね。親不孝しないで済んで、ほんとうに良かった」  聞いて康太は、一人息子を失った悲しみから抜け出せずにいるはずの実の両親のことが瞼に浮かぶものの、最早自分の力でどうにもならないことはくよくよ考えても仕方がないことなのだ。  それよりも、重人らしからぬ甘い読みを正さねば。 「でもまだ安心できないぞ。これからだって、おまえが実はオレなんだとおまえの両親にバレたら、そりゃあ大騒ぎになるぜ」 「そのとおりだね。それだけは絶対に避けなければ……」  急に重人も神妙な言い方になる。 「モチよ」  返したところで、康太は妙案を思いつく。 「それには、オレ一人じゃ多分無理だ。きっとそのうちにボロが出て、見抜かれてしまうに違いない。学校の成績も、オレとおまえじゃ月とスッポンだしな。だからそうならないためにも、ここはひとつ全面的に協力願いたいんだけれど、いいかな?」 「でもどうやって?」 「そりゃあおまえ、決まっているじゃないか。ずっと、家でも学校でもオレのそばに付かず離れずいてくれればいいんだよ。それでオレがおまえじゃないとバレそうになったときには、すぐさま助け舟を出して欲しいんだ」 「……」  重人は眼を大きく見開いたまま、固まってしまう。返事を決めかねているのだ。  我慢できなくなった康太が、さらに続ける。 「なあ、よく考えてみてよ。今のオレの頼みってさ、おまえにとって【善行】になるんじゃない?」  そう聞いて、重人の顔にやや明るさが戻る。 「確かに……」  だが重人はなかなか踏ん切りがつかなかった。  勉強ができない康太に優秀な重人を演じさせ続けるなんてことは、どんなにフォローしたところで、尻込みせざるを得ないような辛いミッションに思えるからだ。 「ならおまえ、何か別の【善行】を思いついたの? 」 「そういうわけじゃないけど……わかった。僕、やるよ。康太君を助けることは親孝行にもなるわけだし、つまり一石二鳥の【善行】ってことになるもんね」  ようやく重人の決心がついたことで、康太はホッとする。 「やった! 明日から一緒に頑張ろうな。オレたちはまさに一心同体だぜ」  握手が出来ない二人は代わりに笑顔で頷き合う。だがそのとき、康太はもう一つ話し忘れていることに気づく。 「ちょ、ちょっと待って。でもな、おまえと一緒に頑張れるのは半年間だけなんだ」 「どういうこと?」 「神様から言われているんだよ。オレは今幽霊が見えて話ができるけど、この能力って重人の身体に入って半年間の期間限定だって」 「……ということはつまり、あと半年のうちに康太君は完全に僕になり切らなければならないんだね?」 「そういうこと」  康太は自信なげに言う。 「あと半年のうちに通信簿は『オール2』に近かった康太君が、『オール5』をとるなんて、無理じゃない?」  真顔になった重人も心配そうに康太を見る。 「そんなこと言ったって、やらなきゃなんないんだよ」 「そうだね。頑張ってもらわないと、大変だ。六ヶ月後にはとうさんとかあさんに重人の正体がバレちゃうよ」 「そうなんないように、オレ頑張るから……」  そこまで言ったところで、康太をやっと睡魔が襲ってくる。  重人という強力な援軍を得たことで、先程までの不安が消えて精神的に落ち着いてきたのだ。 「僕も頑張るよ」  重人がそう返したとき、早くも康太の口からは軽い寝息が聞こえ始めていた。          

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