タイムリミット
第2章 新たな人生4

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 九月一日月曜日、午前七時四十分。 「行ってきまーす」  康太は玄関ドアを開けながら重人の指示どおり大きめの声を出した。 「行ってらっしゃい。気をつけて!」  ドアの閉まり際、リビングルームから両親が揃って返してくるのが聞こえてくる。  急ぎ足でエレベータホールまで行くと、ちょうど一機のエレベータからこの階の住人らしき人が新聞を片手に降りてきたところだったので黙礼する。  扉が閉じる前に康太たちは急いで飛び乗り、一階のボタンを押す。  すぐに二人を乗せたエレベータはゆっくり下降を始める。 「やっぱり緊張したぜ。おまえがそばにいてくれるって、わかってはいてもな」  康太はふうとため息をつく。 「確かに今朝の康太君、普段の僕よりも表情が固かった。でも、かあさんたちに不審がられるようなことはなかったと思うよ。きっと今ごろ、重人は昨日の夜より体調が回復したようだったねって、二人とも喜んでいるに違いないさ」  重人が自信ありげに言う。 「そうだよな、きっと」  頷きながらも、康太の表情はいまひとつ冴えない。 「それにしても、テレパスで会話するっていうのも意外に難しいものだよな。周りに人がいるときは口で会話するのは厳禁だから、慣れる以外ないけれど……」 「そうだね。康太君がとうさんやかあさんと話しているときとか食べることに夢中になっているときって、僕がテレパスで何度話しかけてもなかなか気付いてくれなかったね」 「そうだった。ゴメンな」と康太は謝りながら、どうすれば良いか考える。 「……ということはつまり、おまえがオレに急ぎで何かを伝えたいときは、オレの視界の中に顔を近づけてくれないと、おまえのアドバイスを聞き逃してヤバイことになるかもってことだよな?」 「そういうことになるね。だったら僕の方は声を出して話そうか?どうせ康太君以外には誰も気づかないわけだし」 「いや、おまえが声出したら……オレだってつられて、ついうっかり声を出しちまうなんてことにもなりかねないよ」 「確かに……じゃあこれからは緊急に伝えたいことができたときは、僕が康太君の見えるところに移動するようにするよ」 「悪いな。これからも色々世話になると思うけど、よろしく!」  康太が申し訳なさそうに言ったとき、エレベータは一階に着いた。  これまでずっとそうだったのだから仕方がないことなのだけれど、今朝も康太の寝起きはひどいものだった。  午前七時ちょうどに、康太の枕元で目覚まし時計のベルがけたたましく鳴り響く。  その音は一部屋隔てたリビングルームのソファーで横になっていた重人にも聞こえてくるが、一向に鳴り止む気配がない。 「やっぱり悪い予想は的中しちゃったな。かあさんに不審がられる前に起こさないと……」  幽霊になっても生きていたときの習慣が抜けず、目覚まし時計が鳴る午前七時少し前には目覚めていた重人は気が気でない。慌てて立ち上がり康太のもとへと急ぐ。  入口のドアを素通りして自分の部屋に入ると、ベルの騒音レベルは耳が遠くなった老人でも寝ていられないぐらい凄まじい。それでも康太はまだ熟睡中だ。  重人は心の中で反省する。こんなことなら自分も遠慮せずに、あのままこのベッドに並んで寝れば良かった。どうせ僕が隣で寝ていても、康太君は窮屈さも何も感じるわけはないのだから、と。 「康太クーン、朝だよ。早く起きて! 起きて!」  重人が康太の耳元で目覚まし時計のベルよりも大きな声を張り上げる。  ようやく目覚めた康太が、寝ぼけ眼をこすりながら時計のアラームスイッチをオフにすると静寂が戻る。 「……お、おはよう」  心配そうに自分を覗き込んでいる重人に気付いた康太が、か細い声でボソリと言う。 「おはよう」  まだ、重人の声は大きいままだ。 「そんなに大声出したら、おまえの両親にバレちゃうじゃんか。おまえがいるって」  康太がさらに声を潜めて言う。 「何言ってるの? まだ、寝ぼけているね。幽霊の声なんて生きている人間には聞こえないんだから、どんなに大声を出したって大丈夫なんだよ」 「そうだった。ゴメン」  頭を掻きかき康太が詫びる。 「そんなことより、急いで! もう、七時五分になっちゃった。早く制服に着替えて朝ごはんを食べに行かないと。きっと間もなくかあさんが僕を呼ぶよ。大声で」 「え、さっきからおまえ、何言ってんだよ。学校へ出掛けるのって八時過ぎじゃなかったっけ? なら、起きるのは七時半でいいじゃないか。何でこんなに早く?」  すっかり目が覚めた康太が畳み掛けるように訊く。 「我が家では昔から、とうさんが休みの日以外は七時一○分に家族揃って朝ごはんを食べるって決まっているんだ。だから、僕は毎朝七時四○分には家を出る。たいていクラスに一番乗りだったよ」 「オレがウチを出るのはいつも八時五分くらいだぜ。それで十分間に合うもの」 「そんなこと言ったって、康太君もこれからはウチのルールに従うしかないじゃない」 「まあな」 「あ、そうだ。そもそも今日この目覚まし時計のスイッチをオンにしたのって、僕は触れないし……康太君じゃなかったの?」 「そう、そうだった。オレが昨日夕食前にオンにしたんだ。忘れていたよ」 「いったい何で?」 「今朝、二年三組の登校時間は、八時ちょうどなんだ。昨日の夕方留守電に秋山先生からのメッセージが入っていて、始業式前にクラス全員で『瀬川康太君と長友美穂さんのお別れ会』をやるんだって」  そのとき、キッチンの方から母親の声が聞こえてくる。 「食事ができたわよ!」  午前七時十二分、康太は急いで着替えを済ませて、定刻より二分遅れでダイニングルームに入る。両親はすでに昨晩の席に座り、重人が来るのを待っていた。  テーブルには、三人分の朝食が並べられている。重人から聞いていたとおり、この家の定番メニューのようだ。ケチャップがたっぷりかけられた卵二個分はあるスクランブルエッグに、こんがり焼いたベーコンが三枚。それとトースト二枚、アイスコーヒー。デザートにスイカ一切れも付いている。朝食といえば和食と決まっていた康太にとっては、たまに旅行したときぐらいしか口にできない魅力的なメニューに見える。 「おはよう」  両親がほぼ同時に言う。 「おはようございます」  今度は母親の向かいに座りながら、重人に教えられたまま丁寧語で挨拶する。 「目覚まし時計のベルが珍しく随分長く鳴っていたから、まだ疲れが取れていないのかしらって心配していたのよ。でも顔色もいいみたいだし、元気そうで安心したわ」  母親がマジマジと康太の顔を見つめて、嬉しそうに言う。 「そうだな。一晩よく寝て、だいぶ調子が戻ったようじゃないか」  父親も満足そうだ。 「うん。心配かけたけど、ずいぶん元気になったみたいだよ」  康太も椅子に座りながら、相槌を打つ。いよいよ食事だ。 「いただきま〜す」  三人の声が綺麗に揃う。ちょうどそのとき康太のお腹が小さく鳴ったが、その声にかき消されてしまう。どうやらこの身体、つまり重人の肉体は思った以上に空腹らしい。 〈昨夜は夜食を食いそびれたんで、おまえの身体は腹がへりすぎているみたいだな〉  康太はテレパスで言う。 〈いや、僕は夕食のあとは朝まで何も食べないよ。そんなに大食いじゃないし〉  重人が康太の顔を覗き込むようにして否定する。 〈ふーん〉  康太は美味しそうな食事を目の前にして、顔までニヤついてしまう。 〈そうだね。でも、そんなことより、早くナイフとフォークを持って食べ始めてくれないかな。とうさんもかあさんも変に思うから〉  康太の横に立ったままの重人は気が気でない。 〈まず何をどうやって食えばいいの?〉 〈そのスクランブルエッグとベーコンをトーストの上に乗せて食べるんだ〉 〈オーケー〉  康太はまず一枚のトーストにベーコンを二枚置いて、さらにその上に半分くらいのスクランブルエッグを乗せた。口元に持っていくと、プーンと大好きなタマゴとケチャップのミックスされたニオイが鼻に届き、食欲中枢をさらに刺激してくる。  康太は大口を開けて一口食らいつく。 〈違うってば。一枚のトーストに全部乗せるんだ。お皿の上に残しちゃダメだよ!〉  重人は懸命に訴るけれど、食べることに夢中の康太には伝わらない。そのうち、普段の重人と食べ方が違うことに両親も気付く。 「あれ、もしかして、今朝はトーストを二枚とも食べるつもり?」  意外そうな顔で母親が訊く。 「もちろん!」  康太の反応に、母親が今度は首をかしげる。 「おまえ、ずいぶん食欲あるんだな」  父親も驚いている。  そこではじめて康太はマズったかなと思い、口は動かしつつ重人に助けを求める。 〈重人、オレ何かやらかしてしまったの?〉 〈そう、やっちゃった。さっきから何度も注意しているのに〉 〈え、何て?〉 〈その食べ方じゃいつもの僕と違うよって。でも、気付いてくれないんだもの〉 〈そうだったのか、ゴメンな。で、どう違う?〉 〈だから、僕は一枚に全部乗せるんだ。たいていトーストは一枚しか食べないから。たまにもう一枚も食べるときは、そこのオレンジマーマレードをつけるんだ〉  康太はやっと母親の表情が変わったわけが理解できた。この場をなんとか凌(しの)がねばならない。 「僕、なぜかすごくお腹が空いちゃって。こんなこと今までなかった。きっと、久しぶりに早く寝たせいかな……いや、もしかしたら一度心臓が止まったときに、本当に食欲中枢まで別ものに生まれ変わったのかも」  康太は、その言葉の裏に、明日からも毎日二枚きっちり食べるつもりであることを滲ませたつもりなのだ。 「そうね、健全な精神は健全な肉体に宿ると言うものね。あなたも心機一転、これからは毎朝トーストを二枚食べて、もっと身体を大きくしてね」 「うん、そうするよ」  父親も嬉しそうに頷いている。今回は急遽思いついた作戦がうまくいったようだ。 〈よかったね〉  間髪を入れず、重人からも祝福の言葉が届く。

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