雨の記憶
Ⅵ 落としもの

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

「兵藤さんは社内でも尖っている印象で、最初は怖いなと思い込んでいました。でも社内の観葉植物の世話をしているときには、優しい顔をなさっていて。それから貴方が気になりだしたんです」 「観葉植物の世話は単なるルーティンだ。深い意味はないさ」  思わぬ方向からのきっかけに、カップを落としそうになった。観葉植物の世話をする社員がいなくて中間管理職としてやっていただけだったが、人付き合いを削いだ生活の中で、元気に育っていく植物と触れ合う時間は悪くなかった。 「叱られる日々は辛くへこんでばかりでした。僕の仕事ぶりなら当然だと思っていても、兵藤さんに落胆されることは怖かったんです。飲み会の日は、少しでも貴方に近づきたくて、思い切って隣の席に陣取ったんです。嫌われているわけじゃなかったことが、嬉しくて嬉しくて。トイレでは、迷惑をかけてしまってごめんなさい。飲みすぎてタガが外れていました」  俺も他の同僚とは違う距離感に、いつも通りではいられなかった。山下にイレギュラーを発動させてしまうわけは、きっと俺に近づこうとしてくれていたからだろう。 「お前は俺に騙されている。お前が思っているような人間じゃないぞ」 「物を愛おしむように扱う人は、少なくとも悪い人ではないです。僕は拒まれても兵藤さんを好きな気持ちは捨てられません」  優しさなんてどこかに落としたと思っていた。なのに奴は次々と俺の心を晒していく。だから言った。 「気持ちは捨てなくてもいいさ。恋心を無理やり捨てる辛さは俺も知っている。わかっているだろうがお前の感情に応えられるかは別の話だ」 「今は好きな気持ちを認めて頂けただけで充分です」  山下は大声で泣き出した。思い出と、かけがえのない落としものを届けてくれた奴の頭を撫でながら、雨音と何度も繰り返されるありがとうを聞いていた。不思議ともう雨が辛くなかった。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません