雨の記憶
Ⅲ 彼女からの打ち明け話

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 歯磨きをし、鏡に写った自分の顔を見ながらあの頃に比べて険しくなったと感じる。彼女に告白していたら俺の人生は別の方向を向いていたのか。 「兵藤君、私告白されちゃった」  仕事の帰り道で彼女の言葉を聞いたとき、ハンマーで頭を殴られたかと思った。たまに傘に一緒に入ってちょっとした話をするだけの関係から始まり、ときを経て二人きりで食事をしたり映画を観に行ったり、それはデートだったと思う。俺は谷口さんを涼子と呼ぶようになっていた。彼女は俺のことを最後まで浩一こういちと名前では読んでくれなかったけれど。 「そう、涼子はどうしたいの?」  誰に告白されたのかも俺は聞くことが出来なかった。彼女の言葉に怯えるだけだった。 「兵藤君は何も言ってくれないの? 私あなたにとって大事な存在じゃないのかな」  彼女は俺の言葉を待ってくれていた。 「涼子が幸せになれるなら、応援する」  拳を爪が食い込むくらい握りしめ、絞り出した言葉はそんなものだった。みるみる涙を溜めた彼女は、 「兵藤君の馬鹿」  と言って傘を飛び出し雨の街の中へ走り出した。それ以来俺の傘に入ってくれることは二度となく、彼女は結婚して退社した。三年前のことだ。   俺が物を大切にするのものは物は裏切らないからだ。大切に扱えば扱うほど、それに応え何年も一緒にいてくれる。学生時代、落とし物をしなかったのも、消しゴムを失くしたら貸してくれる友だちがいなかったからだ。他人に媚びていないように見せていたが、実はみんなが容易く読んでいる空気というものを、察することが難しいだけだった。年齢を重ねるごとに、身に着けるものやルーティンに徐々に依存するようになっていった。  それを変えたのが涼子だったのに。誰にでも明るく挨拶をして、困っている同僚がいたら自分のプライベートより優先するお人好し。デートの食事のメニューを選ぶときに小首を傾げる癖、笑うと目じりが下がる可愛い表情。彼女の存在が愛おしかった。初めて人を愛したのだと思う。だが今までの経験が邪魔をし肝心なときにまで、彼女を幸せにする自信が持てなかった。  それから、他人の存在を必要としなくなった。人間関係は仕事上の最低限ですまし、ルーティンを守り好きな物に囲まれて暮らせれば人生は満たされる。  雨のせいか、葬ったはずの昔のことを思い出した。こんな日は早く眠るのが常だ。思い出したくないことは、強制的に思考停止してしまうに限る。

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