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「落ち着いてほしい、と言っても難しいだろうが……よく話してくれた。ありがとう」  巻洲刑事の言葉に、薫は黙って頷いた。  昨日は、あの後何もできなかった。自分の吐いたものをどうにか片付けて、トイレでまた戻して、それからずっと寝込んでいた。朝になってようやく警察にこのことを伝える決心をしたが、知り合いのいない最寄りの警察署に行く気が起きずラッシュの過ぎた電車に乗った。  ひどい身なりだ。お守りであるチューベローズのヘアピンは着けたけれど、髪はひとつに括っただけ、肌も手癖で日焼け止めを塗っただけのすっぴん。服装も半袖の黒パーカーにデニムのショートパンツと、女装をほとんど諦めた状態だ。他の誰にどう思われてもいいが、月子に遭遇しないことを祈る。 「五条さんの件とは関係なさそうだが、こちらはこちらで調べておこう。お母さんが迎えに来られるまでロビーで休んでいるといい」  薫は弱々しく顎を引く。  とんだザマだ。高田刑事にあんな大口を叩いて、杜若と何も変わらない。いや、杜若より情けない。薫は本当に子供で、いろいろな人に気遣われて、守られて生きている。  しかも巻洲刑事に指摘されたとおり、今回のダメージは五条の仇討ちとは多分関係がない。好奇心に負けいたずらに傷ついた。イキり散らかして打ちのめされた無様なガキ。  ロビーのソファに座っていたらスマホに着信。母だろうか? それにしては随分早い。  画面を見ると固定電話からだった。 『小春野? 今日は欠席かい。連絡がなかったようだから』 「山吹先生」  学校に電話し忘れていた。体調が悪い旨を告げると、山吹先生は『気にしなくていい』と優しく言った。 『風邪でも流行っているのかな。笹木も今日は顔を見せていない』 「笹木も、ですか」  昨日は元気そうに見えたのに。前に『家では基本全裸』とかふざけたことを抜かしていたから冷えでもしたのだろうか。  お大事に、と山吹先生は電話を切った。罪悪感が疼いた。 「あれ、小春野さん。どしたのこんな時間に」  スマホをパーカーのポケットにしまったところで高田刑事が通りがかる。本当に警官だったのか。自称なんじゃないかと少し疑っていたから驚いた。  薫は無理をして笑いかける。 「高田さん、この格好でよく気付いたね。巻洲刑事、オレが名乗るまで分かんなかったのに」 「歴戦のデカは表面に惑わされない。手配犯の大半は変装や整形をしてるからな。身長や骨格、耳の形なんかで見分けるんだ」  高田は大袈裟に胸を張ってみせたが、声音は動作ほど得意げではなかった。その能力が発揮されるのは、要するに犯罪者が目の前にいるときだからなのか。 「他には? 変装の見抜き方とか」  薫は髪を一度ほどいて、高い位置に結い直した。ふむ、と高田は腕を組む。 「逃走犯を追ってる場合は下の服や足を見るね。帽子や上着は容易に替えられるが、ズボンや靴はどこかで調達するにしても持ち歩くにしても簡単にはいかない。あとは歩き方だな。歩幅、体重のかけ方、腕の振り、頭の揺れ、体幹のぶれ……個人差がかなり出る」  薫はひとつひとつ頭の中にメモした。今のところ、菜畑真朝に対する薫の印象は『メカクレ』『ロリィタ』しかない。別の服装をしていても見分けられるように、次に会ったときはもっと観察をしておこう。 「ところで小春野さん、お腹空いてない?」  高田が少年みたいに歯を見せて笑う。薫の口より先に腹の虫が返事をした。食欲はないが、昨日の昼に吐いてから今……翌日の午前十一時まで何も食べていない。 「実は警察署の食堂って、署員以外も利用できるんだ。食ってみたくない? 警察メシ」  口が巧い。こうやって杜若も乗せられてきたのか。  もう何でもいい。薫は既にボロボロだ、これ以上痛めつけられても大して変わりはしない。  立ち上がったら膝から力が抜けた。こける、と思ったのにどこも痛くない。 「危ない危ない。ちゃんと歩かないとおじさんがおぶっていくぞ。ヤだろ?」  薫の腕をつかんだ高田が、カラッとした声で言う。やっぱり巧い。意地でもまともに歩きたくなった。  壮花署の食堂は広々として、白い机がいくつも並んでいた。天井が高く陽の光がたくさん入ってくる。壮花高校には食堂がないので、薫はこういう場所で食事を摂ることに内心憧れていた。 「どれにする? ちなみに人気なのはカツ丼・カレーライス・生姜焼き定食」  高田は券売機に五千円を吸わせ、『カツ丼』のボタンを押す。オッサン飯をがっつく元気はなかったので、薫は隅っこのボタンを押した。黄色いシールに手書きで『サンドイッチ』と書かれている。だからサンドイッチが食べられるはずだ、多分。 「お、通だねー。それは我々刑事課がリクエストした裏メニューで、なんと食いながらでも仕事が可能なのだ。お願いするとテイクアウトもできるぞ」 「裏もクソも書いてあんじゃん……」  薫が言い返すと、高田は一瞬目を丸く開いてからふわりと細めた。  もし悪人にこんな顔ができるというなら、それは杜若も薫も騙される。 「先に席を取っといてくれる? どこでもいいからさ」  高田は食券をカウンターに置き、中の女性たちと世間話を始めてしまった。薫は仕方なく周囲を見回す。  昼前とあってなかなか活気がある。大半が丼かカレーをかき込んでいる中年男性で、箸を止めずテレビのニュースに見入っている青年や、死んだ魚の目で小さな弁当をつついている年齢不詳の女性たちもいる。さまざまな人たちがさまざまな食べ方をしている一方で、その全員が薫に注意の糸を伸ばしているのが分かった。一見空いている席も、薫には見えないルールで埋まっていそうで迂闊に触れない。  小春野さん、と誰かに呼ばれた。警官の声は誰もよく通る。  視線をやると、見覚えのあるおじさんが片手を挙げて椅子から腰を浮かせた。眉が濃くてがっしりした人だ。何度か巻洲刑事と一緒に取調室にいた。薫は頭の中で勝手に『藤岡さん』と呼んでいる。  藤岡さん(仮)は窓辺に空の丼をどんと置き、その席と正面を順番に指で差した。薫は頭を下げてそちらに歩いていく。藤岡さんはしばらく見守ってくれていたが、薫が着く頃にのっそりと去っていった。 「ほいお待たせ! 写真の件、食う前と後どっちがいい?」  高田が遠慮のない手つきでトレーを二枚テーブルに下ろす。やっぱりこの人たちの気遣いはどこかずれている気がする。  また吐くかもという危惧はあったが、高田のカツ丼を冷ますのもしのびないので食後に聞くことにした。で、高田は自分がカツ丼を飲み終えると(噛んでいる速度ではなかった)ファイルから紙束を取り出した。待つ気がないなら何故訊いたのか。 「写真、調べたよ。植物は颯太の言ったとおり全部有毒だった。アルカロイドを中心に、グラヤノトキシン・強心配糖体……致死性毒が多いが、リゼルグ酸アミド等を含む幻覚系の植物も見受けられた。日本ではまずお目にかからないものもある。これらを日本国内で、三月から五月中旬までの間に撮影したと見るのはやはり苦しいな」  薫は左手でサンドイッチを持ち、右手で写真を広げていく。写真は薫が受け取ったものと同種・同数だった。足されたり引かれたりしたものはない。 「建物は?」 「全体が写っているものは大方住所が分かった。登記まではまだ手が回ってない。接写と内装だけのものももう少し時間がかかりそうだ」  高田は淡々と言いながら写真を分類した。薫は腹立ちまぎれにサンドイッチの残りを全部口に突っ込む。  昨日薫がダウンしていようが元気だろうが変わらなかった。一介の高校生が警察の組織力に敵うわけがない。  高田が左手をテーブルの上で跳ねさせる。 「こっちは全部同じ建築家の手による建物らしい。で、君はここにない同条件の邸宅を知っているはずなんだよ」  新しい、だが見覚えのある写真が降る。薫は昼食を吹きそうになり慌てて飲み下す。 「これ、オレがさらわれた家じゃねぇか!」 「そう。つまり、五条さんが殺された家だ」  薫が無意識にぼかした言葉を、高田はわざわざ明確に言い直した。 「田中家がこの物件に越したのは二〇一五年、今から四年前の夏。息子の家庭教師が『大学受験に集中できる防音室が必要』とここを紹介。夫妻は自然に囲まれた静かな家を気に入り、高校三年生の息子・勉とともに新生活をスタートさせた」 「オレたちに何の関係が? 四年前ったら小六だぜ」  薫は精一杯えらそうに脚を組んだ。相手のペースに飲まれてはいけない。高田は動じず、新しい手札を冷酷に突きつける。 「当時、勉の家庭教師をしていた人物だ。君と関係があるだろ?」  もう虚勢は張れなかった。  間違いない。高田の持つ写真に写っていたのは、薫の担任――山吹宵だ。  薫は壮花署を飛び出した。  山吹先生に会って何を言うつもりなのか。『田中に五条を殺せって言ったのは山吹先生ですか? 捕まったら自殺しろって言ったのも?』バカげている。なんで先生がそんなことを。  なんで――そうだ、菜畑。菜畑も薫に気味の悪い映像を見せてどうするつもりだった? どこであの映像を手に入れた? 山吹先生より先にあの女を問い詰めるべきではないのか?  パーカーのポケットでスマホが震えた。母だろうか。表示されていた名は『笹木明英あきひで』。今は授業中……いや、昼休みか。  薫は横断歩道で足を止め電話に出る。 「笹木? ごめん、借りたDVDだったらまだ観て――」 『わ私がお、教えた動画、見てたから?』 「……お前」  癇に障る含み笑い。心当たりはひとつだ。スマホを握る右手に力がこもった。 「菜畑。なんでお前が笹木のケータイ持ってる」 『ふ、ふふ。小春野くん、笹木くんに、会いたい?』 「あ?」  答えになっていない。目の前を行き交う車のせいで音も届きづらい。 『……キ、エン……トコ……ンノ、ウエ……』  薫は左耳に人差し指を突っ込み、受話音量を思いきり上げた。 「ボソボソしゃべんな! 聞こえねェだろ!」 『ニシワカキハナコウエン!』  甲高い声で菜畑が叫んだ。それしか覚えていないオウムみたいに何度も。  青信号。薫は痛む耳に構わず走り出す。西壮花公園は警察署と高校の間にある区立公園だ。 『中に、オブジェ、ある。でしょ。はず。「飛ぶ男」、し四角から、顔が生えて、手も』  平日の昼、等間隔に座って昼食をとる大人たちには目もくれず、薫は金属の太いポールから生えた四角を探し出す。  あった。ねじくれたような、圧縮されたような、がっしりした真四角の身体に顔と手が埋まっている。タイトルの記載はないがおそらくこれだ。 『あった? 見つけた? ら、そのまま、上に、見えた?』  今になって考えた。  昨日菜畑の指示に従ってあんな目に遭ったのに、言うことを聞くべきではない。すぐに切って刑事に連絡するか、通話したまま警察署に戻るべきだ。  なのに伸びる首を止められなかった。  向かいの建物の外階段、最上階に人が立っている。あのサブカルクソメガネは――笹木だ。  声を張り上げたが、七階の笹木はぼんやり前を見たままだった。 『こ小春野くん、見たよね、ニンフの動画、じゃあど、うなるかわかるよね、ねぇ、ねぇ』  半笑いの菜畑を無視して薫はマンションの植え込みに踏み込んだ。セキュリティが甘い。手摺壁を乗り越えるだけで侵入できてしまう。いっそ防犯システムでも働いてくれればと願いながら薫は階段を駆け上る。二階。三階。四階! 『じかんぎれ』  五文字を告げる菜畑の声は、やけに歯切れがよかった。  薫の目の前を黒い影が通り過ぎる。全力で差し出した手は遅れて空を切る。真下はコンクリートの駐輪場だ。  薫はその場で座り込んだ。結果の分かっていることを、これ以上自分で確かめる勇気がない。  耳元で菜畑がはしゃいでいる。 『わかったでしょ? ニンフの力だよ、仲間になりたくなったでしょ、ニンフの、ニン』  薫は力任せにスマホを壁に投げつけた。跳ね返ってきた板から耳障りな声はもうしない。  だから何だ。笹木はもう飛び降りた。飛び降りてしまった。  薫は身体を丸めて泣いた。昨日だって涙は出なかったのに、火が点いたように止められなかった。  またスマホが鳴動する。肩がびくりと跳ねる。表示された名を見てまた涙ぐむ。  ――馬剛月子。  どうしよう。君を守るためならどんなやつを殺したっていいと思ってた。君が生きているなら他の誰が死んだって耐えられると思ってた。  違う。オレは、そんなに強くも冷たくもなれなかった。  この格好と同じ。どこまで行ってもオレは、中途半端で何もできない。  鼻をすすりながら通話ボタンを押した。 『薫ちゃん? 今日お休みしたって聞いて……大丈夫? お昼ご飯食べれた?』  月子から感じる日常の温度。  守らないといけない。何でもないよって家にいるふりをしなきゃいけない。  なんで? 笹木はきっとオレと関わっただけで死んだのに。話さなければ月子は安全だなんて誰が言える?  ダメだ。やめろ。月子を巻き込むな。オレの弱さはオレだけで処理するんだ。 『薫ちゃん! 泣いてるの? 今どこにいるの? おうちじゃないよね? 迎えに行くよ!』  月子の声は勇ましい。  電車に一人で乗ることさえ難しい女の子が。  街を一人で歩くことさえ恐ろしい女の子が。  迷いなく薫を迎えに来ようとしている。助けに来ようとしている。  たすけて、と死んでも言えない台詞の代わりに、薫はそっと通話口を覆った。 「月子。オレ、人を……死なせた」

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