ヘルマプロディートスの縊死
ヘルマプロディートス(1)

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『なんで男を産まなかったんだ』 『ガキのくせに女の顔をするんじゃないよ』  女の子を『彼女』、男の子を『彼』と呼ぶらしい。  お父さんもお母さんも、女の子でも男の子でもいてほしくないみたいだから、その子は自分を『それ』と呼ぶことにした。  其が十歳のとき、お母さんはイモートを置いて出ていった。  赤ちゃんのイモートは、むにむにした見た目がイモムシに似ている。ちょうどクラスで飼っていたイモムシが蝶になって出ていったばかりで、代わりの生き物を探していたところだ。其は喜んでイモートの世話をした。  お母さんがいなくなってから、お父さんは毎晩お酒を飲んでテレビの前で寝るようになった。タバコを落としてカーペットに穴が開いた。指で触るとザラザラして楽しい。もっとたくさん穴がほしい。でも其は自分でタバコに火を点けることができない。  よくオスソワケをくれるお隣のおばさんに、カーペットの穴の話をした。おばさんは顔のパーツを全部真ん中に集めて言った。 『いやだわ。危ないわね』 『アブナイって?』 『火事になるかもしれないってことよ』  火事! 家中が火になるってこと? 穴よりもっと面白そうだ。其はお父さんがいつも灰をこぼす辺りにストーブの灯油をこぼした。近くにくしゃくしゃの新聞紙を丸めて置いたりもした。なにも今日でなくともいい、毎日やっていればそのうち上手くいくだろう。  ある夜、ついにぱちぱちとカーペットが赤くなり始めた。其は大喜びで見ていたが、だんだん煙が臭くなってきて、イモートを背負って外から眺めることにした。火もたくさん見られたし、いろいろ壊れたり崩れたりしてとても楽しかった。  お父さんを家から出すのは忘れた。  お父さんのお姉さんという人がイモートを持っていき、其はお母さんの家で暮らすことになった。お母さんのカレシという人が一緒に住んでいた。  お母さんが仕事でいないとき、カレシは其の身体を触りたがった。 『かわいいと思った相手のことは、触っていいんだよ。それはいいことなんだよ』  カレシは其を触った後必ずお風呂に入れて、お菓子を食べさせてくれた。お父さんもお母さんもお菓子は全然くれなかったから、其は初めての味をたくさん楽しんだ。  其がカレシと仲よしになると、お母さんは其を叩くようになった。宿題をするときも怒鳴ってくるから邪魔だった。 『お母さんいない方がいいのにな。お兄さんだけでいいのに。ねぇ、どうしたらお母さんいなくなると思う?』  其が言うと、カレシは笑っていた。毎日言うと、笑うのをやめた。  終業式の日、其は通知表を持って帰ってきた。カレシはまだ触っていないのに、其をお風呂場に連れていった。 『宵ちゃん、お母さんを黙らせたよ! これからはお兄さんとずっと一緒だよ!』  お母さんはすごく面白い顔と格好で寝転がっていた。クラスで流行っていた漫画よりずっと楽しかった。先生に『お母さんに見せてね』と言われた通知表をお母さんの目の前に置いて、其はスケッチブックにいっぱいお母さんを描いた。満足すると、カレシと――お兄さんと『お母さんのかくれんぼゲーム』をした。骨と肉に分けておくとかさ張らないのは大発見だった。  冷凍庫をお母さんの部屋にして、いらないところから少しずつさよならした。  夏休み、おばあちゃんという人がお兄さんと其の家に来た。 『お母さんはどこへ行ったの?』 『わかんない』  おばあちゃんは其をおばあちゃんの家に運んでいった。お兄さんは何度もおばあちゃんの家に来たけれど、そのうち見かけなくなった。  おばあちゃんとの生活はとても楽ちんだった。  おばあちゃんは触らないし叩かない。お水は好きなときに飲めるし、トイレも好きなときに行ける。髪をとかしてくれるしお洋服も買ってくれる。其は言われたとおり背中をまっすぐにして、きちんとした言葉でお話をして、たくさんお勉強をするだけでよかった。 『お母さんのようになってはだめよ。おばあちゃんやおじいちゃんと同じように、学校の先生になりなさい。いいわね、宵』 『はい、おばあちゃん』  ショーライノユメ、カナエタイモクヒョー、全て『学校の先生になりたいです』と言っておけば大人は喜んで其を解放するようになった。すごい。もうよく分からない理由で居残りしなくて済む。おばあちゃんは魔法使いだ。  でも、魔法使いのおばあちゃんにもどうにもできないことがあった。 『宵、あなた初潮はまだ来ないの?』  女の子は中学生ぐらいになると、足の間からたくさん血を流すらしい。きっと見事だろうから其も楽しみにしていたのだけれど、十五歳の誕生日を迎えてもそうなる気配が全然なかった。  おばあちゃんと病院に行った。お医者さんは眠そうに言った。 『卵巣も子宮もないので生理が来るわけないですね。精巣がありますし、平たく言えば女性ではないです』  其は納得した。両方ちょっとずつ持っているから、お父さんは『男じゃない』と嫌がったしお母さんは『女でいるな』と怒ったのだ。  納得しなかったのはおばあちゃんだった。 『年頃の女の子に向かってなんてことを! 言い方を考えなさい!』  お医者さんを怒鳴りつけ、おばあちゃんは其の手を引いて診察室を出た。お会計を終えて家に帰るまでずっと黙っていた。  夕ご飯を食べた後、おばあちゃんは一人で泣いていた。其が部屋から出てきたのに気付くと、何度も呼びながら抱きしめてきた。 『大丈夫よ。ちゃんとお仕事ができれば、産めなくとも立派に生きていくことはできます。男の言い分に負けてはだめよ』  お母さんのようになってはだめ。男の言い分に負けてはだめ。  其はおばあちゃんの教えを反復した。こうやって世間に泣かされる程度の教えを。 『はい、おばあちゃん。私は立派な先生になります』  高校三年生のとき、おばあちゃんはお風呂場で転んだ。お湯から出るとき足を滑らせ、浴槽の縁に頭を強打したらしい。  其は入口にしゃがんでおばあちゃんを見ていた。  おばあちゃんはいつもぴしっと服を着込んで礼儀正しくしている。こんな風に裸でぴくぴくと変な踊りをしているのは初めて見たから、よく楽しんでおきたかった。 『おばあちゃん。第一志望校に受かりました。おばあちゃんのおかげです』  おばあちゃんは返事の代わりに頭からいっぱい血を出してくれた。其も笑顔が止まらない。 『立派な先生になりますね。今までありがとう』  おばあちゃんが動かなくなって、其はおばあちゃんの身体に真っ白でふわふわなバスタオルをかけた。一一九番に電話。おばあちゃんを持っていってもらった。  見たこともない『親戚』と『弁護士』の人がやってきて、いろいろ騒ぎ立てた。其はおばあちゃんが貯めていた大学の学費四年分と引き換えに、三月いっぱいでおばあちゃんの家を出ることになった。  荷物を抱えて大学の周辺を歩いていたら、センパイに声をかけられた。建築写真同好会というサークルの二年生だった。事情を説明するとセンパイは眉を下げて、狭いところでよければうちにおいで、と言った。 『いつまででもいていいよ』  其とセンパイは一緒に洋館の写真を撮りに行くようになった。あるとき近くに生えていた植物を摘もうとしたら止められた。 『触ると危ない。それは毒草だから』  人が危ないと言うものほど、自分にとって面白いことを其は知っていた。興味を惹かれた植物を集め、乾かしたり煮詰めたりしてセンパイの食事やお茶に混ぜた。センパイは其には見えないものの話をしてくれるようになって、毎日が前より楽しくなった。 『宵ちゃん、あのお茶をもっとちょうだい』  センパイはだんだんそれしか言わなくなった。其はうっとりとセンパイの髪を撫でた。 『少ししか作れないから、お友達には教えないでくださいね。二人だけで楽しみましょう』  心配しなくてもセンパイに友達はいなかった。其は手作りのお茶を飲まなかった。だって自分までふらふらになったら、センパイの面白いところが見られない。  センパイはある日叫びながら飛び出したきり帰ってこなかった。  其は少しずつ、おもちゃで長く遊ぶ方法を見つけていった。  一人暮らしの、家族と疎遠で友達の少ないものを選ぶ。いくつかを同時に持って序列をつける。明確なルールなく序列を入れ替え、常に緊張感を保つ。甘やかすときも拒むときも徹底的にやる。ときどきは別の姿――白い服の女としておもちゃと接する。  廃棄するときも気を遣った。  少しずつ学校を休ませる。身の回りの整理をさせる。部屋の契約は自分で解除させる。最後は一人で、自力で死なせる。  おもちゃだけでは飽き足らず、ペットを得るためにアルバイトを始めた。高校に入って成績の落ちた男の子を運よく飼うことができた。この子はペットだから、おもちゃより少しだけ大事にする。 『先生、俺、性奴隷が欲しい。従順で、俺より若いやつ』 『二十歳になったらね』  二十歳になったらお祝いに特別なものをあげるとおばあちゃんは言っていた。結局もらえなかった分、優にはやってあげようと思った。  おばあちゃんは其の一番のお気に入りだった。だからおばあちゃんの言ったことはなるべく守る。其は先生になりたい。うるさいハエに煩わされている場合ではない。  だから駆除も喜んでする。  巻洲啓司には弟がいた。  粗暴だが根は優しい弟だ。自分は高卒でも、柳司りゅうじだけは大学に行かせてやった。  その弟と突然連絡が取れなくなり、啓司は必死で居所を突き止めた。女に入れあげて授業にも出ていないようだ。夜勤明けの足で柳司の現住所を訪ねる。 「最高の女を見つけたんだ。ガッコーなんて行ってられっかよ」  六畳一間で柳司の隣に座っていたのは、凛然とした雰囲気の女性だった。背が高くて髪が短い。脂肪の乗り方に女性らしさが見て取れるが、遠目からでは少年と間違いそうだ。 「お前の交友関係にまで口を出す気はない。だがこの暮らしをさせてくれているのは父さんと母さんだろう、連絡ぐらいはきちんと――」  埒のあかない問答の途中、女が茶を淹れてきた。柳司が一気に飲み干す。啓司もつられて湯呑に口をつける。  ――その後、どこまで会話が成立していたのだったか。  胃が焼ける。舌がもつれる。汗が吹き出て平衡感覚が狂う。たまらず畳に両手をついたが、感触はゼリーのように不確かだった。  笑っている女に手を伸ばしながら、啓司は意識を失った。  暗闇だ。かろうじて座っていることと上を向いていることだけ分かる。耳には栓がはまっている。痛む頭に耐え身をよじろうとする。  光もない、音もない、動けない。自分がどこにいて、今がいつなのか分からない。  啓司は叫ぼうとした。この場所の広さを確かめようと、自分の存在を訴えようとした。声はほとんど前に行かず、口角から涎があふれるばかりだ。口は開いたまま固定されていて喉がひどく乾く。暴れようとしても椅子はびくともしない。  何が起きている? 何をされそうになっている?  必死で状況を理解しようとする。額に何かが当たる。あまりの冷たさに刺されたかと思ったが、どうやら水だ。体温であたたまって額からこめかみへ流れていく。  また水滴。二秒に一回。数えたくないのに数えてしまう。神経が額ひとつに集中していく。世界が水滴と額だけに収束していく。永遠のように引き延ばされていく。  やめろ。やめろ。やめろ……。  体感で一時間近くも経った後、とんとん、とノックに似たリズムで肌を叩き、雫は唐突に止まった。  終わりなのか? 啓司は乱れた息で次の事態に備える。  十秒、二十秒……一分以上何もない。  じんわりと身体の感覚が戻っていく、最中に、ぱたたたっ、と三滴水が落ちた。  まだ残っていた? 筋肉を強張らせ息を止める。八秒後に一滴、四秒後に五滴、六十七秒後に二滴、二十三秒後に三滴、九十五秒後に十一滴……終わりか? まだ? いつまで?  啓司は喚き散らした。いや、喚き散らしたかった。わずかなうなり声で水滴の感触を打ち消そうとした。  二滴、間を置いて一滴、すぐ三滴、あと何秒? あと何滴?  やめろ、いやだ、もう数えたくない!  突如、猫の鳴き声のような音が鼓膜を揺らす。耳栓だと思っていたものはワイヤレスイヤホンだった。経験のない啓司にも一瞬でそれと分かる淫らな音色に、女と柳司の囁きが混じる。 『お兄さん、せっかく来てくれたのにいいの?』 『いいんだよ。あんなクズ』  なにを、おれは、おまえをしんぱいして、こんなところに、  なのにおまえは、なにをやっ 『顔しか取り柄のないバカでよ。俺のために我慢したとかほざきやがって、あの頭じゃFランだって怪しいもんだ』  何を言っ  おまえが、かあさんがおれを予備校に行かせるために貯めてくれてた金を、  おまえがもちだして、 『あんなバカでもなれるんだから、ケーサツなんてありがたくも恐くもないね』  ちがう、おれはちゃんと勉強して、試験にうかって、けいさつかんに、大学、がまんして  女の声がどんどん高くなる。弟が獣の声で吠える。 『なぁおい、あいつ殺すんだろ!? 童貞のまま死ぬのってどんな気分だろうな! あいつ××のうえに××にしか興奮しないゴミカスのド変態なんだぜ!!』  ――ホモのうえに    ガキにしか興奮しない    ゴミカスのド変態――  啓司は全身の力をすうと抜いた。水滴も二人の会話ももう気にならない。  思えばいつも俺が我慢してきた。両親の関心も教育の機会も恋愛の自由も。  あいつが何を返した。両親に暴力をふるい、家の金を使い込み、くだらない交通違反で俺が警官になる夢を危うく奪いかけ、それであいつが何を返した。  あいつを助ける必要があるのか。  あいつが笑っている必要があるのか。  あいつが生きている必要があるのか。  あいつを、あいつが、  柳司がいなくなれば  俺は。  ――布越しに光を感じた。イヤホンと口枷が外され、手と足も自由になっていく。首の固定具が滑り落ちると、啓司は自分で目隠しを取った。  さっきの女がいた。胸がほとんど膨らんでいない裸体は、若い女性というよりもまだ青い春の最中にある少年のようだった。  女は微笑んで床に物を置く。啓司は立ち上がり、迷うことなくそれを手にした。女について扉から出る。タイル敷きの部屋で柳司がいびきをかいて寝ている。  啓司は銃把を強く握る。五十四式手槍、中国製のM1911コピーだ。スライドを引いて初弾を装填、銃爪に指をかける。一発。二発。三発四発五発六発七発八発。ホールドオープンしてもしばらく引き金をいじり続けた。  やがて手を止め、弟だったものに銃を投げつける。薄汚れた赤が排水口に吸い込まれていく。  こうして啓司はニンフと契約した。今までの心はもういらないと思った。  この肌を貪る悦びと比べたら、道徳と正義のなんと軽いことか。  其は教員となってのち、イモートと再会した。  菜畑は伯母夫婦の名字で、名前も其の知っているものとは違った。  真朝。マトモとも読める。其を見捨て都合のいい赤子だけ拾っていった彼らが、『マトモ』を我が子に望むとは洒落が利いている。  真朝は孤立した子供だった。プライドが高く、傷つけられたと感じると手の付けられないほど暴れる。気位の割に能力は高くないので常に周囲と軋轢が生じている。  其は真朝に『姉』――『兄』よりは都合がよさそうだと思った――と打ち明けた。偽りの生活をやめて『本当』の生活をしないかと誘いをかけた。 『それには、今までの生活を捨てる覚悟がないとね』  真朝にヒトを片付ける才能はなかった。伯父も伯母も刺したはいいが黙らせる方法が分からず、其が手伝ってやらねばならなかった。ペットへのプレゼントも、同席したがった割に餌やりの様子は最後まで見ていられなかった。  真朝はどんどん其に心酔していった。服を似せ髪型を似せ、其のものだと示すように首輪をつけ、『ニンフ』の崇拝者を募り始めた。其は黙って見ていた。  勝手の後始末も、やれと其が言ったわけではない。何かで詫びたいと言うので何ができるか尋ねた。死にますと言ったから死んでもらった。ありきたりで退屈な死に様だった。

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