我々はニンゲンである。
第五話 謎のキスである。-6

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 朝は九時に出勤、それから開店準備をして、十時から開店。接客なんてできるはずもないからバックヤードで、店長の指示通り動く――なんか、足手まといでしかない気がするけど。 「もう四時かぁ。二人とも、上がっていいよー」 「あれ、でも、六時までじゃあ」 「来週からはね。今日は初日だし、覚えなきゃいけないことばっかで疲れたでしょ?」 「じゃあお言葉に甘えて、お先に失礼します」  軽く会釈して、さっさとロッカールームに消えていくサク。まったく遠慮がないうえに俺を置いてかないでよ。  とはいえサクと一緒に帰るわけにもいかないし、置いてってくれてよかったのかも。  サクがロッカールームから出てきたので、入れ違いで中に入る。制服とかはないから胸元につけていた名札を外すだけで、カバンを持ってロッカールームから出た。  店長に挨拶しようとしたけど、サクがまだいて。一瞬つんのめる。 「今、店に日崎くんのファンが来てるみたいで。一応いないってことになってるから。裏口から出て路地裏を行ったら、向こうの通りに出るから」  もうサクにファンがついてるの? ネットには広告が載ってるって言ってたから、それを見たのかな。にしても早すぎる。  そもそもサクを好きになったからって、何で店に押しかけてくるんだ。サクは専属モデルになっただけで、店にも出てるって何で思――墨玲さんか。墨玲さんが両方やってるからか。 「二人とも、気をつけて帰ってね。お疲れ様」  店長に誘導されるままサクと裏口から出る。こんなつもりじゃなかったんだけどな。路地裏というわりにはきれいな裏道を抜けて、一本向こうの通りに出た。  NARUMOTOは大通りに面していたから、何だかやけに静かな感じがして困る。サクと二人きりで、困る。  何か話したほうがいいのかな、と思って。何を話せばいいのか一応、考えてはみるけど。何も思い浮かばないし、サクだって望んでないだろう。  歩道を並んで歩いてるのに、隣にいるのに。サクは遠い。 「CM、見た?」 「……いや、まだ」 「ふーん」  サクのほうから話しかけてくるとは思わなくて、うまく返せなかった。やっぱ休憩時間にでも見とけばよかったかな。まだ見る勇気、なくて。  店にファンが押しかけてきたぐらいだから、よっぽど仕上がりがいいんだろう。もちろんモデルがいいってのは当たり前で。だって墨玲さんと、サクだ。  ぽつり、頬に何か落ちてきて。別に泣いてもないのに変だなと思って。空を見上げたら無数の――雨。何この踏んだり蹴ったり。  サクに手を取られ、どしゃ降りのなか、走り出す。  なんか懐かしいな。サクと出会った頃は、サクの友達だった頃は、こんなふうに走って。サクはいつも俺を逃がしてくれて、いつも、新しい世界に連れ出してくれて。  近くのバス停に屋根があってよかった。時間帯の問題なのか今が夏休みだからなのか知らないけど、バスを待ってる人もいないから安心して雨宿りできる。  濡れた服を軽く、はたいてはみるけど。気持ちマシになるだけで、雨に降られたという事実は揺るがない。 「五分ぐらいで止むって。完全に夕立」  スマホを見ながらサクが教えてくれる。その手はさっきまで俺の手をつかんでたんだよなぁ、なんて。別に寂しいとかじゃないけど。  雨の音が激しくて、ここだけ別世界みたいで。世界に置いてかれた感じ。サクと二人、世界から切り取られて。何か話さなきゃ、時間からも置いてかれそうだ。 「墨玲さん、い、今頃ロンドンかぁ!」  声が上擦る。何なら少し、震えてもいる。俺ってば本当ヘタクソだな。きっと柊ならもっとうまくやるのに。 「柊もさ、ひどいよな! サクか俺かどっちかだけでよかったはずなのにさ!」  雨は止まない。サクは応えない。一人でしゃべって恥ずかしいけど、無言のまま雨が止むのを待つのもつらいから。雨宿りって難しい。 「そもそも、お父さん……NARUMOTOの社長が墨玲さんの代わりにって、声かけたのは柊だよ。なのに自分は妾の子だからー、とか変に意地、張っちゃって。店の人にもかわいがられてるんだし、普通に柊がやればよかっ――」  たのに、そう続けたかった。でもできなかった。サクに口を塞がれたから。  これはたぶん、あれだ。キスだ。だってサクの顔が近い。近すぎて、よく、見えないくらいに。  サクの唇が離れて、幾分サクの顔が見えやすくなった。その黒い瞳に、俺はどんなふうに映るのかな。心に残る石ころを投げつけたい気分。俺、怒ってるよ? わかる?  こんなの恋人同士がすることだ。恋愛感情があるからすることだ。友達でもない、ただのバイト仲間に、することじゃない。  雨はまだ止まない。それでも俺は走り出した。サクに背を向けて、サクから逃れるために。どしゃ降りのなか、一人で。

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