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 最初に聞こえたのは、涼やかな鳥の鳴き声。そして、光。瞼を透かす、明るい陽光。意識がゆるやかに、浮上してくる。 「熱はもう下がったみたいですね」  枕元で、潜められた声が聞こえる。 「血も止まったみたいですから、もう大丈夫ですよ」  言い聞かせる声音に、開けきれない視線を向ける。開かれた蔀戸の向こうには、透明な空が広がっていた。 「あっ、気がつかれました?」  白んだ視界に、長倉の嬉しそうな笑顔が映る。  その横に、長倉の袖に隠れるようにして、澪月が座っていた。くせのない髪が、怯えたように身体を引いた身じろぎで、軽く揺れる。 「傷口が開いて、大変だったんですよ。でも、もう大丈夫です。今、お湯と着替え持ってきますから、身体を拭いて布団も変えちゃいましょう」  さっと立ち上がる長倉の後を追って、一緒に行こうとする澪月の腕を、武が掴む。ぎくりと身体を震わす澪月を見上げ、肘を突いて身体を起こそうとする。 「まだ動いたらあかん」  慌てて横になるようにと促す指先を、武が握り締める。潤んだ瞳が、真っ直ぐに澪月に向けられる。 「俺が、悪かった。なんも知らんと……。堪忍や……」  澪月の手をぎゅっと握って、懇願するように言う。 「今、ひとりにせんといて……。傍に、おってや……」  縋るような声音は、今にも泣きそうに潤んでいる。  決して弱みを見せようとしなかった武の、あまりにも弱々しい声音に、澪月の膝がかくんと折れる。とさりと座り込んだ澪月に、武がほっとしたように身体を横たえ、瞼を閉じる。見下ろす武の、睫の先が濡れている。瞼の奥で、瞳が揺れている。まなじりに浮かんだ涙が、米神を伝って流れていった。  長倉が用意した熱い湯で身体を拭き、陽の光を吸ってほんのりと温まった小御衣こおぞに包まれたとき、武は今までになく穏やかな気持ちに満たされている自分に気づいた。  開いてしまった傷口は、しくしくと鈍く痛んでいる。熱がひいたばかりの身体には、気だるい重さが纏わりついている。けれど、いつも絶えず自分を縛り付けていた、もどかしいほどの飢餓感きがかんが、今はすっかり抜け落ちていた。  使った湯を庭にまき、空いたたらいに汚れた着物を重ねていく長倉に、武がポソリと言う。 「世話、かけてもうたな……」  驚いたように目を瞠った長倉が、すぐさま滲むように笑んで見せる。 「何言ってるんですか。世話だなんて、そんな大層なことしてませんよ」  明るく言って、パタパタと蔀戸の向こうに駆けていく。  遅い午後の、金色の陽射しの中、澪月は膝を抱いた格好で縁側と寝間の間に座っていた。  陽光に包まれて、澪月の白い肌が淡い桜色に変わっていく。ひらきかけた花の蕾のような、甘やかに美しい横顔が、斜陽しゃように浮かぶ。やわらかに風が吹き、澪月の振り分け髪が、さらさらと揺れる。どこからか、水仙の微かな香りが、ただよってくる。澄み渡る初夏の空に、遠くつばめの啼く声がする。 「おにって、知っとるか?」  武の言問ことといは、まるで独り言のように紡がれた。  その声には、いつもあった鋭いものが消えている。膝を抱えたまま、澪月は武を見やって小首を傾げる。問い返すようなその仕草に、武が薄く笑う。 「親に似とらん、親が自分の子と思いたくない子供のことや」  自嘲じみた笑みを口元に置いて、 「俺は、それやったんよ」  武は切なげな視線を遠くへと投げかける。 「俺は……、おとんも、おかんも、大好きやったけど……、おとんも、おかんも、なんや、得体の知れん者、見るみたいな目で、俺を見るんよ……」  潤みかけた瞳が、長い睫に閉ざされる。 「口減くちべらしって言葉、知っとる?」  瞼を掌で覆って、問いかける。 「知らんやろなぁ……。食うもんが足りんとき、食う口を減らすことを、口減らしいうんよ」  口元には、まだ笑みがしがみついている。 「俺、長男やったんやけどな……、一番に、……捨てられたんよ……」  澪月の返事を待つことをしない声音が、微かに震えている。 「山をいくつも越えて、なんも無いとこに座らされて、それでも、黙って待っていたら、きっと迎えに来てくれる。気持ちのどっかで、そう、思っとった。捨てられたんにな……、アホやろ……?」  ふふっと、力なく笑う。  思い出はいつも細切こまぎれで、濃い霧の向こうに消えていく。何か事が起きるたびに途切れる記憶は、武の過去と現在にみにくい縫い目を残していた。  それでも、最初の目覚めのときには、自分の生まれ育った家を探した。山の奥の奥、人里をずっと離れた場所から、記憶を探ってとぼとぼと歩いた。やっと見覚えのある風景に出会ったとき、遺されていたのはほこりだらけの家屋かおくと、干からびた死体だった。もう、顔の判別もつかない死体に纏わりついている衣は、忘れもしない自分を置き去りにした父のものだった。あまりの驚愕きょうがくに意識を失って、目覚めた時には全く知らない場所にいた。  けれど戸惑いは、最初の数回だけだった。今となっては、突然に変わってしまう季節に驚くこともなく、季節ばかりか年まで越えていることにさえ、慣れっこになってしまっていた。 「俺が、あいつと初めて逢ったんは、あいつがまだ、ほんの子供の頃やった」  武の言う「あいつ」というのが、大内氏のことだとわかって、澪月の身体が、武のほうへと向けられる。 「俺は、あいつのこと、すぐには思い出せんかった。やけど、あいつは、俺のことが、すぐにわかった。……なんでやと思う?」  問う言葉を投げかけながら、武は澪月からの応えを、期待してはいなかった。 「俺が、もう、何十年も、変わっとらんからや」  投げかけた問いに自分で答え、その答えにえかねたように唇を噛み締める。 「俺は、なんでこんなモノに生まれたんやろ。おとんもおかんも普通の人やったのに、なんで俺だけ、こんなんなんやろ……」  自分はいったい幾つなんだろうと、数えることは恐ろしく、考える事さえ馬鹿らしく、何もかもを諦めて、此処まできた。こんな自分のことを話すことなど、ないものと思っていた。永遠に、話せることなどないと、そう思っていた。  力なく紡がれる武の言葉は、武の全てを語ってはいない。けれど、ぽとぽとと雫のように零れた言葉を、武がどんな気持ちで口にしたのか、澪月にはわかる。自分の不思議を語るときの、生血いきちしぼり取られるような苦痛は、不思議を持つ者にしか、わからない。 「そんなん、武のせいや、ないやん」  澪月の声が、優しく滲む。 「おまえが望んだわけやないんやろ? やったらおまえは、自分のこと嫌ったらあかん」  はっきりと言い切る。 「俺らきっと、神様の玩具おもちゃなんよ」  澪月が何を思ってそんなことを言うのか、わからない。けれど澪月の言う、「俺ら」という言葉に、武の胸が詰まる。 「神様は気まぐれやからな。ちょっと変わったもん、つくりたぁなったんやろ」  ぽつんと言って、武の手を握る。  やわらかに包み込まれた指先のぬくもり、武を決して置き去りにしない言葉。澪月の変わらない優しさに、武の涙が搾り出される。 「……怒っとらんのか?」  昨夜の自分の行為を、悔みながら問いかける。 「怒ったってしゃあないやろ?」  それは、くすりと淡く笑ったような声音だった。思わず目頭から手をどけて、武は澪月の顔を仰ぎ見る。 「おまえは怪我人や。身体だけやない。気持ちも怪我しとる」  涙に潤んだままの瞳に、そっと笑いかける。 「怪我人相手に本気で怒ったって、喧嘩にもならん。むなしいだけや」  澪月が、声もなく微笑む。花のように艶やかに。  もう、紡ぐ言葉も見つけられず、武は身体ごと澪月から顔をそむける。握られた指先は離されることなく、小御衣の上にあった。小さな指先をぎゅっと握り返して、武が肩を震わせる。  澪月が、手を握ってくれる。自分の不思議を話しても、そのままで良いと言ってくれる。  そんなこと、今まで誰も言わなかった。言ってくれなかった。拒絶されることはあっても、追い払われることはあっても、此処に居て良いと言ってくれる人は、誰もいなかった。  だから、嘘ばかり吐いていた。自分にも。他人にも。瞳を閉じて、耳をふさいで、不安もおびえも飲み込んで、何もかもを卑屈ひくつな笑いでかわしながら、傷つかないふりをしていた。自分でついた嘘なら耐えられると、きっと耐えられると、自分で自分を買いかぶって……。  でも、本当は、ずっと、探していた。  時の輪廻りんねに見放された自分が、それでも此処に在ることを、許してくれる誰かを。木立こだちをすり抜ける冷たい風をかわして、この哀しみから連れ出してくれる、誰かを。

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