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 ほのかに明るい四辺が、武を包み込んでいた。  ―― 此処、何処や?  ぼんやりと思う。  身体の其処此処そこかしこが、弱りきって悲鳴をあげていたはずなのに、今は感じなかった。宙に浮いているような身体は漂うばかりで、指先ひとつ思うように動かせない。けれど、心はなんの不安も感じていない。痛みも怒りも、何もかもが遠のいていた。  ふわふわと揺れる身体が、やわらかに抱きとめられる。そのぬくもりを、見上げる。 (なんやぁ、綺麗やなぁ。乙姫様おとひめさまみたいや。いやいや、あれは海ん中や。……やったら、天女てんにょやろか……?)  ちゅん、ちゅん。  小鳥のさえずりりに、武がぱちりと目覚める。陽光を受け止めた障子の眩しさに、瞬きを繰り返す。見慣れない風景に視線を凝らし、おもむろに起き上がる。  ちゅん、ちゅん。  障子に映る小鳥の影を眺めながら、ポキポキと首を鳴らす。  どんよりと重く湿っていた身体が、驚くほど軽い。  けれど、それを不思議に思うより先に、覚醒かくせいしだした思考は武の警戒心を呼覚ます。そっと視線を巡らせる。今が何時で、此処が何処なのか、それを知る為に慎重にまわりをうかがう。  そこで初めて、武は自分の隣ですやすやと眠る童子どうじに気づいた。そのいとけない寝顔に、夢の中の天女の面影を見つけて、小さく息を呑む。 (夢や、なかったんか?)  しばし見惚みほれる。そっと顔を近づけて、今度はしげしげと見つめる。あまりに近づきすぎたせいか、童子が「ん?」と小さくうなる。長い睫が、ちりちりと震え、丸い指先が目尻に添えられる。びくりとして少しだけ後ずさった武を、きょとんと見上げてくる。 「なんや、目、覚めたんか?」  思いのほか低い声で問いながら、むくりと布団の上に起き上がる。肌蹴はだけた胸元を直す素振りもなく、武を覗き込み、額に掌をあてる。 「熱は下がったみたいやな。足は痛くないんか?」  ひたりと添えられた冷たい掌と、白い肌もあらわな胸元に、武の鼓動がどぎまぎと慌てる。 「おっ……、お前……、男?」 「あぁ?」  童子の片眉が、ぴくりと上がる。 「何と勘違いしとんのや」  けれどその声は、子供特有の高い声を、無理矢理落としているような違和感がある。しっくりこない感覚は、その声ばかりではない。見た目の幼さとは不釣合いな大人びた口調。思わずぽかんと口があく。そんな武を見上げ、童子が嫌そうな顔をする。 「俺やって好きで添い寝してたわけやないで。お前が俺のたもと、つかんで離さんからやないか」  はっとして握った拳を開くと、するりと絹の袂が離れていく。肌蹴られた胸元が、自分のせいだと気づいて、かーっと頬が熱くなる。 「あっ……、ごめん」  真っ赤になってとっさに謝る武に、童子が気にいらなそうに唇を尖らせる。 「別に謝らんでもええよ。それに、赤くなる必要もないやろ」  放るように言うとポンとその場に立ち上がり、胸元を直す。薄紅の単をしゃらりと揺らして、蔀戸しとみどに向かう。タシーンと勢いよく蔀戸を開けたまではよかったが、その先の段差で童子がこけそうになる。 「あっ!」  ふたりの声が合わさって、そのまま後ろにひっくり返りそうになったところを、武が受け止めた。次の瞬間、 「いってぇーッ!」  武の悲鳴に近い声が、館中やかたじゅうに響き渡る。  武の左足には大きな裂傷れっしょうがあり、血止めのために添え木を挟んでキツク縛り上げていた。どうも自分はその上に倒れ込んだらしいと気づいた澪月が、慌てて横に転がる。 「だっ、大丈夫か?」 「いてっ、いてぇーっ! なんやねんコレ!」 「せやからさっき聞いたやろ? 足痛ぁないかって」 「知らんがなそんなん。俺、いつのまにこんな怪我したんや?」 「俺が知るわけないやんか!」  バタバタと足音が近づいてくる。 「澪月様!」  勢い込んで呼びかける長倉に、澪月が立ち上がる。 「なんですか? 今の悲鳴は」 「あっ、ごめん。俺のせいや。俺がコイツの足の上に転んでしまったんよ」 「コイツって誰のことやねん!」  むっとしたような声音に、澪月もむっとしたように応える。 「お前に決まっとるやないか!」 「俺はコイツなんて名前やない! 「武」って立派な名前があるがな!」  一向に落ち着かない心臓のどぎまぎと痛みが重なって、武が喧嘩腰けんかごしになる。 「やったら最初っから言えばいいやん! なんも言わんから、わかるわけないやろ!」  で、つられて澪月も喧嘩腰になる。 「だいたい、怪我人のくせに余計な事しようとするから、そんな目にあうんや」 「余計なことやと! 子供がすっ転びそうになったら助けるんは常識やろ!」 「誰が子供や!」 「お前がや!」 「誰がお前の手当てしたと思ってんねん! 子供に怪我の世話が出来るか!」  どうにもこうにも、最初の取っ掛かりが悪かったらしい。  女扱いしたことも、子供扱いしたことも、澪月にとっては最低最悪。女じゃないと言い募ることは出来ても、子供じゃないと言い切ることが出来ない自分にイライライライラ。武は武で、こんな口の悪いガキに、見惚れてしまった自分が歯痒はがゆくてイライライライラ。見た目の愛らしさをことごとく裏切る澪月を、思いっきりにらみつける。 「こんな男か女かわからんような奴に、世話なんかされとうないわ!」 「なんやて! 俺かて、お前みたいな猿、世話しとうないわ!」 「さっ……、猿やとぉ!」 「猿やなかったら、猪や!」  「コラッ! ふたりとも、いい加減にしなさい!」  ふーっ、ふーっと背中を丸めて、今にも武に飛び掛ろうとする澪月を、揚知客が後ろから羽交い絞めにする。どうしたものかと戸惑ったように見ていた長倉も、立ち上がろうとする武を慌てて押さえつける。絡み合った視線が、バチバチと宙に火花を散らす。弛まない視線の攻防に、悔しげに唇を噛み締めた澪月が、揚知客を振り払って館の外へ飛び出してしまう。 「澪月様!」  武の肩を押さえていた長倉がさっと立ち上がり、その後を追いかける。パタパタと足音が遠ざかり、部屋は元の静けさを取り戻す。  シンとした空気の中、揚知客が武を振り返る。目が合った瞬間、決まり悪そうに俯く武の前に端座たんざし、やんわりと問いかける。 「少しは休めたようだね」 「……あ……、はい」  先程までとは打って変わって、神妙な面持ちで頷く。その様子は、ついさっきまでの自分を恥じているようにも見えて、揚知客は滲むように笑んで見せる。 「澪月とは、何かお話になりましたか?」 「……いいえ」 「裏のあしの原の向こうで君が倒れているのを見つけたのは、三日前のことです」  武の視線が、わずかに上げられる。 「普段なら決して奥座敷には近づかない澪月が、泣きそうになりながら長倉を呼びに来た」  揚知客の声音は穏やかで、なにか懐かしいものを思い出そうとするような、優しさがあった。 「君が死んでしまうと言って、でも自分では運べないと辛そうに唇を噛んで」  くすりと、小さく笑う。 「武、と呼んでもかまいませんか?」 「あっ……、はい」 「詳しくは聞きません。ただもしも急ぐ旅ではないのなら、逗留とうりゅう頂いてかまいません」 「……でも……」 「此処は武にとっても、きっと隠れみのになるでしょう」  思わずというように、武の顔が上げられる。  目の前のこの人は、自分が追われていることに気づいている。そして、それを気にすることなく、此処に居ていいと、言ってくれている。 「君の勧進能かんじんのうでの武勇伝ぶゆうでんは、澪月と長倉から聞いています」  その一言に、武がはっとしたように瞬く。  あの夜、林の中で自分が抱きとめた子供。その面影が瞬時に巻き戻された。あの子供だったのかとようやく思い出し、だとしたら自分が追われている理由も、彼らは知っているんだろうと思い至る。  けれどそれは、禁忌きんきの能を舞ったと言うだけのとが。其処に「いん」の血縁者が絡んでいることなど、きっと彼らは知らない。 「その足が治ったら、私にもいつか、君の舞を見せてください」  言外げんがいに、足が治るまでの逗留を許されて、武が深く叩頭する。 「ありがとうございます」  その頃、奥庭へと駆け出した澪月は、追いかけてくる長倉を振り向きもせず、朝靄あさもやの中を駆けていた。 「澪月様!」  春が近いとはいえ、今はまだ朝の空気は透徹とうてつとして冷たい。濡れた素足に雫が絡む。ひとえの裾に泥が跳ねる。 「澪月様!」  やっとのことで追いついた長倉が、澪月の腕を引き寄せる。後ろへの反動で泥濘ぬかるみに足を取られた澪月が、ずるりと滑る。 「離せや!」 「駄目です!」  長倉の腕に抱き取られた澪月が、小さな身体をいっぱいに使って暴れる。 「なんでやねん! 俺の事なんか、放っておけばええやん!」 「何を言ってるんですか! そんな格好で、何処に行くって言うんですか!」  めったに声を荒げない長倉の一喝いっかつに、澪月がビクリと動きを止める。たたらを踏んでいた足が、しんなりと地面に下ろされる。  やっと大人しくなった澪月に、長倉がほっと息を吐く。そのまま俯く澪月の前に回って、足先に草履ぞうりを揃える。素直に草履に足を入れる澪月を、しゃがんだまま見上げる。 「どうしたんですか? 澪月様らしくないじゃないですか」  未だ自分の癇癪かんしゃくを宥めきれず、悔しげに唇を噛んでいる澪月に、優しく問いかける。 「きっと看病疲れしちゃったんですね。ずっと一生懸命でしたからね」  運び込まれた武の状態は、本当に酷いものだった。  身体中を覆う細かい切り傷に、着衣は血でじっとりと濡れ、打撲だぼくに腫れた皮膚が、裂傷に垂れ下がっていた。疲れからか傷からか、原因の判別がつかない高熱は一向に下がる気配がなく、急ぎ呼んだ薬師くすしの表情は暗かった。手当ての後に、今夜がとうげだとぽつんと言われた三日前。澪月は黙ったまま、武の枕元に座り、流れ落ちる汗を拭っていた。そして、なんとか一命を取り留めた二日前、今度は左足の裂傷が熱のためにみ始めていた。膿が広がるようであれば、切り落とすことも考えなければいけないと薬師に言われ、その傷口を冷やしながら、薬草をつぶし、乾いては塗り、乾いては塗りを繰り返し、意識のない武の頭を胸元に抱え、せんじ薬を飲ませ続けた。  そうして過ごした三日間。誰より武の目覚めを待っていたのは、澪月のはずだった。 「別に、一生懸命やったわけやない」  憮然ぶぜんと言って、プイと視線を逸らせる。 「助かるもんやったら助けたいって、思っただけや」  そして、もしも助かるのなら、二度と踊れなくなるような事にはしたくなかった。あの夜の優美な舞を、失くす事だけはしたくないと、そう思っていた。 「俺が、……馬鹿やった」  溜息混じりの言葉の後、澪月は遠くを見つめる。 「どうしてですか?」 「やって、あんな、何処の誰かもわからん奴、助けたって詮無せんないことやって、ちゃんと知ってたんに……」  薄い単の肩が、急に寒さを感じたように、ふるりと震える。澪月の草履を片手に、慌てて館を飛び出した長倉も、今は寝衣しんい一枚の格好で、その肩に羽織らせるものはない。仕方なしに澪月を抱き上げると、一瞬、驚いたような視線を向けた澪月が、けれど抗うことなく長倉の首に手を回す。やはり疲れていたのかと、腕の中の澪月を見下ろすと、その頬が普段より少しだけ赤い。 「澪月様?」 「……眠……ぃ……」  この三日間、ほとんど寝ずの看病を続けていた澪月も限界だった。言いかけて、そのままことりと落ちるように寝入ってしまった澪月をしっかりと抱き直し、長倉は館へと向かう。  急ぎ歩く胸の内で長倉は、出会ったばかりの頃の、針鼠はりねずみみたいに自分を警戒していた澪月を思い出していた。どうしてか、先刻の武の表情が、あの頃の澪月と重なる。  同じなのかもしれない。武も今、必死になって虚勢を張っているのかもしれない。そんなことを、思っていた。  一方宇治の館では、揚知客が出て行った離れで、武はそのまま横になり、天井の伏目ふしめを数えていた。やっと落ち着き始めた思考はけれど、些細なことで揺り起こされる。  横たわった肩の下に、湿ったものを感じた。少し身体を浮かして引き出すと、それが水に浸した布であることがわかった。  ―― 目、覚めたんか? ――  安堵したように言って、そっとふれられた額。  ―― 足は痛くないんか? ――  心配そうに覗き込まれた蜜色の瞳が、武の胸をぎゅっと掴む。思わずその布を、壁に叩きつけていた。  目覚めた瞬間、助かったことに気づいた自分の胸を過ぎった感傷が、安堵だったのか、失望だったのか、武にはわからなかった。ただ、今まで一度も感じたことのなかった穏やかな気配は、武の心から一瞬だけ現実を遠ざけた。清潔な寝衣とやわらかな肌掛け。水仙に似た仄かな香りに満たされた部屋は、眩しいほどに明るかった。けれど……、  ―― また騙されるだけやで   心の片隅で、もう一人の自分が意地悪く囁く。  ―― 信用してるわけやない  胸の内の自分に、言い訳をする。  充分すぎるほど知っている。この世に、自分の味方など居ないということを。自分には、帰る場所も、行くあてもないということも。  ―― 此処は武にとっても、きっと隠れ蓑になるでしょう  そんな言葉を、鵜呑うのみにしたわけじゃない。何も聞こうとしない揚知客に、不安を感じないわけじゃない。容易たやすく信用することがどれほど危険なことか、よくわかっている。けれど……、  今は、この機を利用させてもらわないことには、どうしようもない。今の自分はこの館を離れたなら、あっという間に捕縛ほばくされてしまう。だから、せめて歩けるようになるまで、せめてもう少し体力が戻るまで、この場所は武に必要だった。  ―― 騙されたっていい   鼓動が大きく波打つ。  ―― 騙されたらまた、逃げればええやん  何か熱い塊が胸にこみあげて、瞼がじわりと熱を持つ。  ―― 絶対に、気は許さん。俺は、誰も、信用したりせん……

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