衣替えもすみ、季節は夏へと移ろっていた。 「長倉ぁ」 澪月の呼び声が、雀の囀りに混じって長倉に届く。井戸の脇で、洗濯物と格闘していた長倉が立ち上がる。 「はぁい」 澪月の何処かとろんとした呼び声に、長倉ののんびりとした返事が返される。 濃い陽射しは、盛夏を思わせて眩しい。けれど、風通しよく造られた館に吹き渡る風は、涼気を含んで心地良い。その涼風に包まれて、うつらうつらと眠り込んでしまった澪月が目覚めたらしい。長倉の声の方角を探り探り、澪月がほてほてと歩く。眠気をはらうように目頭を擦りながら、足元も覚束無く歩を進める。 「こっちですよ」 寝ぼけ眼の澪月を、長倉が手招く。やっと長倉の近くまで来た澪月が、機嫌悪そうに問いかける。 「武、何処行ったん?」 「先ほど、宇治川に行ってくるっておっしゃってましたよ」 「……そうなんか」 陽射しを見やり、自分も行こうか行くまいか躊躇している澪月に、長倉がくすりと笑う。 「なん?」 「まだ陽も高いですから、澪月様も行ってくればいいじゃないですか」 むぅっと唇を尖らせて、澪月が俯く。 雷雨の後、武の傷口は瞬く間に快方へと向かい、今はもう杖なしで歩けるようになっていた。 もともとが活動的だったのか、歩けるようになってから、武は出掛けることが多くなっていた。今はまだ、館の周辺に留まっているけれど、その行方を気にかけて、澪月は後を追う。その姿は微笑ましく、可愛らしい印象を持つけれど、澪月の中では何かしら納得いかないものがあるらしい。そうしてしまう自分に時折、苛立ったような表情を見せる。けれど、それでも武の行動が気になるらしく、宇治川の方向へと視線を向けている。 「今日は、舞扇を持っていかれましたよ」 「えっ?」 澪月が長倉を振り返る。 「もしかしたら、練習されるんじゃないですか?」 「そ、そうなんかな?」 武が舞えるようになることを、誰より楽しみにしていた澪月が、わくわくといった感じで声を弾ませる。 「きっと、そうですよ」 背中をポンと押すように、長倉が明るく言う。 「俺、行ってみる」 「夕餉までには、戻ってくださいね」 「うん!」 駆け出した澪月を、降りそそぐ陽光が追いかける。 きらきらと眩い陽射しをうけ、川面に光の飛沫が踊る。宇治川は、とうとうと水を湛え、穏やかに優美な景観を広げていた。流れの傍には風も立ち、水の香りと、青い草の香りが、澪月を包み込んでいく。 タンと、足拍子が聞こえる。続いてパシリと、扇を掌で受ける音がする。人差し指と中指をピンと立てて、閉じたままの扇を握り締めて踊る武は、軽々と幾度も飛び上がる。澪月の視線の先に広がる異世界は、翠緑の光のなか、威風堂々と場面を変えていく。 束の間見惚れて立ち尽くす澪月に、武が気づく。 「なんや、来てたんか?」 優しげに声をかけられて、澪月が笑いながら問い返す。 「それ、蘭陵王やろ?」 「おん」 額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、武は晴れ晴れとした表情で頷く。 「久々に踊るときは、いっつもこれからやんねん」 ストンとその場に腰を落として、天空を仰ぐ。 「足、大丈夫そうなんか?」 「おん。もう、平気や」 朗らかに応える武に、澪月が笑いかける。隣に座って、武を見上げる。 「おまえは色んなもんが、舞えるんやな」 憧憬を隠そうともしない、キラキラと光る蜜色の眼差しに、武が不意にツイと澪月の頤を掴んで、自分を向かせる。 「えっ、なっ、なん?」 パシンと武の手を軽く叩いて、身体をひく。ピリっと空気が引き絞らる。 「あっ、ごめん。いや、これ、この舞な、澪月のほうが似合うやろな、思うただけなんよ」 パッと両手を挙げて、武が慌てて言葉を重ねる。 「俺?」 「おん」 警戒心が解けた澪月に、武がほっと息を吐く。 「やってこれ、綺麗すぎて威厳を保てない王様が、怖い面をつけて戦場に行く話やん」 林邑の僧である仏哲が日本にもたらしたこの曲は、眉目秀麗な名将であった北斉の蘭陵王高長恭が、優しげな美貌を獰猛な仮面に隠して戦に挑み、見事大勝した勇士を兵たちが褒め称えたのが由来とされていた。 「やから、俺みたいな者が舞うより、直面で、澪月が踊ったほうが似合うと思ったんよ」 実際、男性がこの舞を舞うときは伝説に則して竜頭を模した仮面を用いるが、少年が舞う場合は優しい顔立ちであった高長恭になぞらえて、化粧を施しただけの素顔で舞うことが多い。その場合は、舞楽面のかわりに、桜の挿頭花を挿した前天冠が着けられる。 自分の見立てを満足げに話す武から、澪月がプイと視線を逸らす。 「そんなん言われても、嬉しないわ」 「なんでやねん」 「男が綺麗や言われたかて、喜べんやろ」 隣に座る、少女めいた美貌の小冠者は、自分の容姿を嫌っていた。 武がそれに気づいたのは、こうして話すようになって間もないころの事だった。けれど、銅鏡はもちろん、水鏡さえ嫌がる澪月に、その理由を問うことは出来ずにいた。 ちらりと、瞳だけ動かして澪月を見つめる。 端麗な横顔は、作り物めいて見えるほど整っている。透き通る白い肌、桜桃色に染まったふくよかな唇。容の美しい頤からつながる、なめらかな喉の線。そのどれをとっても非の打ちどころのない姿に、目を細める。 「……やけど、」 不意に口を開いて、澪月が武を見上げる。蜜色の瞳に陽光が射し込んで、金色に煌めく。 「……やけど、今の舞は、綺麗やった。武に、似合っとったよ」 言って、はにかんだように笑う澪月を、武は物問いたげに見つめていた。 ぬらぬらと光る血溜まりに、バラバラになった屍が、累々と並んでいた。 ぼんやりと佇む影は、赤い飛沫にねっとりと濡れている。何も聞こえない。転がる影は、コソリとも動かない。自分の鼓動だけが木霊する暗闇に、澪月は血まみれで立っている。 怖いのに、泣くことは出来なかった。叫ぶことも出来なかった。何が起こったのか、それがわからなくて、膝ががくがくと震えだす。よろめいて、木立にかけた手が、ぬるりと滑る。悪寒とともに目の前に広げた掌に、焦点が結ばれていく。 その時、澪月の中で何かが弾け飛んだ。息をすることも忘れる程の痛みが、胸を抉った。 ―― 俺やない! 悲痛な声が、喉を裂いて、闇に散った。 「――― ……づき、澪月!」 パンと耳元で、掌を打つような音がして、澪月が目覚める。 「澪月?」 大きく瞠った瞳に、必死な形相の武の顔が、映りこむ。 「大丈夫か? どないしたん?」 指先を、ぎゅっと握り締める。心臓が、跳ね上がりそうに、大きな音をたてている。 「えらいうなされてたで。なんや、悪い夢でもみたんか?」 心配そうな武の問いかけに、何かが溶け出すように、瞼が熱くなっていく。 武の瞳に映る、澪月の瞳が、みるみる潤んでいく。今にも零れそうになった涙を隠すように、澪月の顔が伏せられる。 明り取りの障子を蒼白く染める月明かりを頼りに、武が蝋燭に火を灯す。揺れる炎が落ち着くのを確かめて、澪月を振り返る。褥に突っ伏して、澪月は何かに怯えるように、何かを堪えるように、細い肩を震わせている。首筋を、汗が伝い落ちていく。 「……澪月?」 そっと肩に触れると、ピクリと背筋が強張る。白むほどに力がこめられた指先が、敷布を握っている。頑なに顔を上げようとしない澪月を見つめながら、武は自分を目覚めさせた、叫び声を思い返す。 ―― 俺やない! 跳ね起きて、隣に眠る澪月を覗き込んだ。 掛衣を引き千切らんばかりに握り締めて、苦悶の表情を浮かべる澪月に、慌てて名前を呼んだ。それでも目覚めない悪夢から引き剥がすように、その頬を軽く打った。澪月の頬を打った掌は、珠となって流れる汗で濡れていた。 息の整わない背中から視線を外し、武は枕元の盆に目をやる。長倉がいつも準備してくれている湯冷ましを、小さな椀に注ぎいれ、もう一度、澪月に声をかける。 「目、覚めたんやろ? やったらこれ飲めや。汗も拭かな。そのままやったら、風邪ひくで?」 動かない澪月に、いなすように言う。澪月が、息を吸い込むのがわかった。 武の言葉に、澪月はころんと寝返りをうつと、片腕を額において、また大きく息を吸い込む。鼓動を確かめるように胸元に添えられた掌が、ぎゅっと握り締められる。 「……起きれんのか?」 「……いや」 「やったら起きて、これ、飲めや。飲んだほうがええ」 酷い汗と、静まりそうにない息。頬は青褪め、唇も紫がかっている。こんな澪月を見るのは初めてで、武の胸に得体の知れない不安が広がっていく。 「お前、どっか悪いんか? なんか、病気でも持ってるんやないか?」 「……そんなんやない」 「やったら起きろや。起きて、これ飲めや」 まるで懇願するように同じ言葉を繰り返す武を、澪月は腕をずらして見上げる。小さな椀を両手で握り締めて、武は今にも泣き出しそうに自分を見下ろしている。目覚めてすぐの、武の必死の形相を思い返す。そして今目の前にいる、心配を通り越して、怒りそうになっている武を見つめる。 顔や首筋を、汗が気持ち悪く伝い落ちていく。怖気を孕んだ鼓動は、とかとかと落ち着かない。そんな自分に気づいた武が、憤るほど自分を心配しているのがわかる。 まだ少し自由の利かない腕を突っ張って、澪月がそっと起き上がる。武が両手で差し出す椀を受け取り、無造作に流し込む。飲み込みきれない水が、口の端から零れ落ちていく。 その様子を見守っていた武が、澪月の口元を自分の袂で拭う。空になった椀をすかさず取り戻し、問いかける。 「もう一杯、飲む?」 「いや、もういい」 「喉、渇いてるんやないか?」 「もう、充分や」 澪月の、普段の落ち着いた声音に、武がほっと息を吐き出す。ずっと詰めていた息が、大きな溜息になって、両肩がかっくりと落とされる。 「……俺、……なんか言った?」 首を落としていた武が、弾かれたように顔を上げる。 「なんかって?」 「……やから……、寝言」 問いかけながら、澪月は武を見ようとしない。焦点が結ばれない視線は、此処ではない何処かを見つめている。 ―― 俺やない! そう、聞いたように思った。澪月が、そう、叫んだような気がした。けれど、それを告げていいのか、武はまた不安になる。やっと落ち着きかけた澪月に、その言葉は言ってはいけない気がする。 「そんなん、憶えとらんよ。やけど、えらい苦しそうやった。やから、なんとしても起こさなあかん、思ったんや」 ちらりと澪月の視線が、武に向けられる。ずっと俯き加減だった頤が、上げられる。 その時初めて、武は澪月の片方の頬が、少しだけ赤らんでいることに気づいた。その頬に掌を添えて、武が申し訳なさそうな表情をする。 「やけど、荒っぽい起こし方、してしもうたな……」 そっと頬に触れられて、澪月が瞬く。 パンと耳元で響いた音。それがなんなのかわからなかった。けれど、少しだけ熱を持った頬が、武の言葉の意味を教える。武が、自分を目覚めさせる為に、この頬を打ったんだとわかる。そしてそのことを、まるで悪いことでもしたかのように、悔やんでいる。 その武の優しさが、暖かな掌から、澪月の冷えた身体に流れ込んでくる。澪月の掌が、武の手に重ねられる。 「痛ぁないよ。こんなん、全然平気や」 武の指先を握り締めて、ふわりと笑んでみせる。 「心配……、かけてもうたな」 澪月のやわらかな声音に、武が安堵したように笑う。 「いや、大丈夫ならかまわん。なんや、嫌な夢でもみたんか?」 けれどその問いに、澪月の表情が俄かに曇り、視線が背けられる。握った指先を、そろりと外して、小さく応える。 「……そうや、……夢や」 掌で喉を包むようにして、細く付け足す。 「……悪い、夢や」
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