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 平安の、みやび公達等きんだちらでた、宇治川のほとり。  あさぼらけの瑞々みずみずしい空気を掻き分ける宇治の流れは、琵琶湖の水をあつめて一気に山峡を駆け抜ける。そのせせらぎを遠くに聞きながら、長倉は菊花きっかの露を集めていた。一花ひとはな一花、丁寧に揺すられて溜められた雫は、無病息災を約束すると言われていた。  器を満たした菊の露を、ふたつの杯に分け入れて膳に置き、長倉は片方の膳を持ち客間へと向かう。 「誰や?」  ふすまを開けた長倉に、その少年は警戒心もあらわにそう言った。 「揚知客様の従者の、長倉です」 「……よおしか? って……、あの坊さん?」  眉をひそめめて問い返す表情には、不安と威嚇いかくが入り混じっている。床から離れ、壁に背をあずけ片膝を立てるその姿は、怯えたふうにも見える。 「そうですよ」  静かな同意に、それでも緊張を解こうとしない少年に、長倉が優しく問いかける。 「御身体は、もう大丈夫なんですか?」  言いながら膳を置く長倉を、大きく瞠られた瞳がじっと見据えている。 「ずっと眠ったままだって、揚知客様が心配されてましたよ」  そのひと言に少年は小作りなあごを胸元によせ、薄い単衣ひとえの自分を見下ろしている。 「……俺、どれくらい、眠ってたんや?」  不安げな問いかけ。 「此処ここに来られたのは昨日のことです。その前のことは、私は知りません」  ちらりと蔀戸しとみどの向こうに目をやる。 「……此処って、何処どこなん?」 「宇治川って、ご存知ですか?」 「……浮舟うきふね、……の?」 「そう、そうです。此処は宇治の里です。都のすぐ近くですよ」  心許こころもとなく少年が口にしたのは、宇治を舞台とした幽玄能ゆうげんのうの題目だった。そんな問い返しがくるとは思っていなかった長倉が、少しだけ驚く。けれど、僅かに躓いた返事に躊躇ちゅうちょすることもなく、少年は呆然と瞳を泳がせている。その揺れる視線が、ひたりと膳に添えられる。 「……俺、此処におって、……いいんやろか?」  自分のために準備された朝餉あさげを見つめたまま、誰にともなく問いかける。 「そんなこと……、大丈夫に決まってるじゃないですか」  少年の弱々しい声音に、長倉が明るく応える。 「さっ、そんなこと心配しないで、ちゃんと食べて下さいね。嫌いなものがあったら、後で教えてください」  そう言い置いて、長倉がすっと立ち上がる。ぱたぱたと軽い足音が消え、客間がシンと静まり返る。蔀戸しとみどの隙間からは、眩い陽射しが零れてくる。遠くで百舌鳥もずの、啼く声がする。  畳が敷き詰められた部屋はそれだけで、此処が高貴な場所であることを少年に教える。その畳の上にやわらかな敷物が布かれ、自分にかけられている小御衣こおぞも絹のように滑らかな手触りだった。  ゆっくりと首をめぐらし、用意された膳を見る。うるしが施された脚付きの膳には、野菜の煮付けに貝の潮汁、焼き魚に真っ白な粥、そして、小さな朱塗りの杯が添えられている。  さらさらと水が流れる音にぽっかりと目覚めた朝、ことの外すっきりとした思考に、するすると廊下を滑る足音が届いた。はっとして周りを見渡しても、小刀さえ見当たらない状況に、せめてもの気概をこめて開けられた襖を睨んだ。高飛車な物言いがどんなに失礼なことか知っていた。けれど強気に振舞っていなければ、身体の震えが止まらなかった。なのに、必死になって張り巡らせた虚勢は、いたわりの言葉を投げかけられた瞬間、簡単に剥がれ落ちていった。不安で一杯の心は、一度それを認めてしまうと、もう、落ちていくばかりで、  ―― 此処って、何処なん?  情けない自分の声に嫌気がさしても、問わずにいられなかった。  ―― 此処におって、……いいんやろか?  自分には確かな記憶が、なにひとつなかった。憶えているのは、  ―― 供の者は?  薄紅に溶け込んだ、おだやかな問いかけだけだった。  けれど、その声に弾かれたように、自分の身体が制御できない熱に捕り込まれていった。身の内をちりちりと焦がす得体の知れない熱に、自身が焼け切れてしまいそうだった。  その時、揚知客が唱える経が、耳元から流れ込んできた。それはまるで清水しみずのように、ひんやりと身体にみていった。差し出された数珠を握り返すと、こもるばかりの熱が吸い取られていった。  ―― 名前は?  優しい問いかけだった。  ―― ……澪月……  自分の声が、虚ろに響いた。  それから目覚めるたびに、その優しさは隣にあった。揺れる視界に映るのは、心配そうに自分を見つめる双眸そうぼう。今はそれしか、思い出せなかった。  その頃奥殿おくどのでは、朝餉の膳を前に難しい顔をした長倉が、揚知客の言葉を待っていた。  揚知客が、大切な方から頼まれたと言う少年は、揚知客の名前さえ知らなかった。あんな不安げな少年に、自分はいったいどんな風に接したらいいのかわからなくて、長倉は困りきった表情で問いかけた。 「あの御方おかたは、どういった御方なんですか?」  長倉のまっすぐな視線をかわして、揚知客は陽が射す明障子あかりしょうじに目をやる。眩しさを感じるその光を遮るように瞼を下ろし、混沌ばかりの胸の内に耳を傾ける。  夢枕の伎芸天の話を、長倉は信じるだろうか。伎芸天は、少年が桜の皇子みこだとは言ってくれなかった。けれど「たずそうらへ」と言われるままに訪れた秘境で、ひなにもまれな少年の姿は、揚知客にとってまさに桜の皇子そのものだった。 「彼が、伎芸天が使わした、桜の皇子だと言ったら、……お前はどう思う?」  揚知客のかいつまんだ説明を、長倉は大きな瞳を白黒させながら聞いていた。  夢占ゆめうらという言葉は知っていた。けれど夢見の役を負えるのは、生まれ持った才のあるいつきの姫であったり、たくさんの修行を積んだ僧であったり、唯人ただびとには理解しにくい世界でもあった。自分達のかつての師もその話に触れはしたけれど、片手間な息抜きのような話でしかなかった。朝廷の故事や行事、それらと一緒に伝えられる、御伽噺おとぎばなしのように教えられた。  粗方あらかた話し終わると、揚知客は俯いたまま視線だけ動かして、長倉を窺う。そして、困惑を隠そうとしない長倉の表情に、自嘲気味にくすりと笑った。その力ない笑みは、静かな部屋をことりと揺らす。諦念ていねんをともなう微かな響きは、長倉の問いたい言葉を飲み込ませる。  伎芸天の悪戯いたずらそうな言問ことといに振り回されている自分を、誰より知っているのはきっと揚知客自身。思慮深い揚知客が、その言葉を信じてしまう何かがあったのだと、長倉は思う。笑みを象る珊瑚色さんごいろの唇で、涼やかに笑う伎芸天の声が、長倉にも聞こえたような気がした。 「じゃあ、あの方の氏素性うじすじょうは、全くわからないってことですね」  長倉の問いに、揚知客が小さく頷く。 「澪月様って御名前だけしか、わからないんですね」  長倉の念をおすような問いかけにも、揚知客は無言で頷くばかりだった。  揚知客がどんな思いで澪月を連れてきたのかはわからない。けれど庇護ひごされている身を充分に理解している揚知客が、安易な気持ちで軽はずみなことはしないと知っていた。愛護を得ながら、守られるべき絵が描けないことに誰より苦しんでいた。大らかな気質の君公くんこうねぎらいの言葉にさえ、切なげな表情を隠しきれずにいた。  箸の止まってしまった膳を眺めながら、長倉が明るく提案する。 「わかりました。じゃ、私は、揚知客様に接するのと同じように澪月様に接します」  俯いていた視線が、驚いたように上げられる。 「大内様に聞かれたら、揚知客様の遠縁に当たる方ですって、言っちゃっていいですよね」  長倉の軽い声音に、揚知客の瞳が揺れる。  いつもと変わらない、飾らない笑顔。なんの含みもない朗らかな声で、長倉は事も無げに言う。揚知客自身が納得しかねる、ある意味馬鹿げた話を、長倉は一言の否定もなく受け止めてくれた。そして、いつもどおりに笑って見せる。その笑顔は、知らず知らずに部屋を満たしていた引きった空気を、優しく宥める。深い安堵あんどに、揚知客がほっと息を吐き出した、その時、なごみかけた空気が一瞬で引き裂かれた。 「なっ、なんだ!」  空気を切り裂いたのは、細く、高い、叫び声だった。 「庭のほうですね」  長倉の確認に揚知客が頷いて、ふたり同時に立ち上がる。庭に向かう引き戸を開け、声の行方に視線を走らせる。未だ続く叫び声。池の端に蹲る、桜色の小さな固まりが、言葉に成らない声をあげていた。  慌てて駆け寄るふたりの足音が、その声に掻き消される。震える肩を、長倉が引き寄せる。自分の顔を両手で覆う澪月の手を、無理矢理に引き剥がすと、涙に潤む瞳が長倉を見上げる。そして其処に現実を捉えようとするように、長倉に縋りついてきた。 「俺、俺、なんやの?」 「えっ?」 「これ、これ、……俺やないっ!」  水鏡みずかがみを指さして、錯乱さくらんしたように首を振る。  それは、つい、一時前のこと。  客間にぽつんと置かれた澪月は、途切れてしまった記憶を必死になって掻き集めていた。  自分が旅をしていたことは憶えている。けれど、何故旅をしていたのかが思い出せない。そもそも、自分はいったい何処で揚知客にあって、何処からこの宇治の館に来たのかがわからない。それに、自分には誰かがいた。揚知客ではない、誰かが。ひとりきりの旅ではなかった。けれど今、自分のまわりには誰もいない。  思い出せない記憶はもやもやと不安ばかりを育てていく。得体の知れない不安を振り切るように、用意された膳に目をやった。そして乾いた唇を潤そうと、小さな杯を手にした時、磨きこまれた朱塗りの器の底に、見知らぬ影が映りこんだ。  一瞬、冷たい何かが背筋を滑り落ちていった。  ゾクリとした悪寒に、杯を投げるように膳に戻す。けれど今度は、杯を戻した自分の手に瞳を瞠った。その指先は、確かに自分の身体から延びているのに、自分のモノとは思えなかった。白すぎる指は小さくて、まるで女童めのわらわのようだった。まじまじと見つめる指先が、かたかたと震えだす。  研ぎ澄まされていくうつつ。あてどない指先で、頬を辿り、髪に触れる。高く結い上げてあったはずのまげは失く、ざんばらな髪が頬に散る。朦朧もうろうと揺れだした視界を支えるように、握りこんだ指先で掌に爪をたて、外へと続く引き戸に向かって歩いた。引き開けた扉の向こうには、目にも眩しい景色が広がっていた。  降りそそぐ陽光の先には、小さな池が光りを弾いている。覚束おぼつかない足を必死に動かして、風に揺れる菊花きっかの間を進んだ。倒れこんだ池のはた。石畳に両手をついて、ゴクリと生唾を飲み込んだ。そして、おそるおそる覗き見た、水鏡には……、  鏡に映った自分の姿は、見知らぬ他人だった。けれどその他人は、じっと自分を見つめ返す。瞬けば、鏡も瞬く。首を傾ければ、鏡も傾ぐ。まるで、途惑う自分を嘲笑あざわらうように。 「俺、おかしくなってしもうたんやろか?」  わずかに残る記憶を粉々に打ち砕く、見覚えのない自分の姿。今はもう、何処からが現で、何処からが夢なのか、それさえわからなかった。けれど、けれど……、 「こんなん、俺やない!」  こんな、自分は知らない。 「俺、……俺……」  小刻みに震えていた身体が、張り詰めた糸がぷっつりと途切れるように、長倉の腕の中で意識を手離した。仄かに色づく頬を、一粒の涙が零れ落ちていく。  遠くに聞こえる鹿脅ししおどしの音が、弱竹よわたけが響かせるように、かそけく鳴っていた。

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