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 時を紡ぐ、糸車の音が聞こえる。  カタカタ カタカタ  ひととせ ふたとせ ……みとせ……。  季節はめぐる。時は迷うことなく、その歩を進める。  花月かげつうたげから三度目の夏がゆき、透徹とうてつとした季節が近づいていた。峰を彩る錦は散り落ち、薄蒼く滲む稜線は冷気を含んでたたなずむ。見上げる瞳に映るのは、薄氷うすらいを張り詰めたように澄んだ青。冷たい北風に拭われた空は、キンと冴えた青をかざしていた。  ―― 揚知客様、少しでいいんです。どうかお休みになってください。  あれは夜半やはん過ぎ。  ―― 私のことは気にしなくていいから、早く休みなさい。  ―― ……でも……、  心底案じるような声音が、いったん途切れる。  そこは揚知客が筆を取るときに使う奥座敷だった。庭に面した縁側の端で襖を細く開けたまま、長倉は冷えた板の間に根付いたように動けずにいた。  揚知客がその部屋にこもって、もう一週間が過ぎようとしていた。その間、食べることはおろか、眠ることさえまともにしていない揚知客に、長倉が重く口を開く。  ―― ……揚知客様……、  ―― 私のことは、放っておいてくれ!  唐突に声を荒げた揚知客に、長倉の伏せられていた面が、驚いたように上げられた。感情も露な、怒気の篭った声音。揚知客のそんな声を聞くのは、初めてだった。背中を向けたままの揚知客の肩が、小刻みに震えている。空気が冷えていく。暖をとる物のない部屋が、寒々と冷えていく。  ―― ……今は、何も、言わないでくれ。  揚知客の懇願するような声が、冷たい夜気やきに、滲むように絞り出された。  静まり返った館を遠巻きに眺めながら、澪月は広い庭を歩いていた。  あっちへてくてく、こっちへてくてく。秋晴れの空から降りそそぐ陽光に、庭のところどころがキラキラと光る。束ねられた針先のように光るそれは、歩くたびにサクサクと鳴る霜柱しもばしら。深まる秋は、次の季節を迎える準備を着々と進めていた。  ふわりと風が流れる。肩にかかる振り分け髪が、可愛らしく揺れる。水の香を含んだ冷たい風が、澪月の薔薇色に染まった頬を撫でる。風に呼ばれるように振り向いた澪月の瞳に、昨日の夜、長倉が長い間座り込んでいた板の間が映る。揚知客の悲痛な声音にそっと襖を閉めた長倉は、その場で震えていた。膝に置いた拳をぎゅっと握り締めて、長倉は声もなく、泣いていた。  さくさくさく。  霜柱は澪月の足元で、軽やかに啼きながら溶けていく。近づく奥座敷。しんと凍てついた空気が、僅かに揺れる。澪月の小さな掌が、目の前の板の間に乗せられる。掌に返ってくるひんやりとした感触を握りこんで、澪月は締め切った襖を見上げる。肩に羽織っただけの薄紅の被衣かつぎを、交差した両手できゅっと引き寄せる。 「揚知客さん」  幼い声が、襖を叩く。 「揚知客さん、いい天気やよ」  庭から踏み台に乗りあがり、澪月が襖の前に座る。 「ココ、開けてや」  開いた掌が、ポスポスと襖を鳴らす。  愛らしく澄んだ声音が、揚知客を呼ぶ。それはまるで、子供同士が遊びに誘うときのような声音。襖の向こうから、きしきしと畳を踏みしめる音が聞こえる。襖に耳を澄ませていた澪月がふわりとその身を離し、ぴょんと立ち上がる。 「揚知客さん!」  呼んで、細く開けられた襖に指先を差し入れ、勢いをつけて開け放つ。悄然しょうぜんと立ち尽くす揚知客に、澪月は何も気づいていないといった様子で、ぎゅっと抱きつく。子供だけに許される無邪気さで、揚知客のふところ近くに腕を回し奥座敷へと上がりこむ。  するりと脇を駆け抜けていく澪月を、揚知客は半ば呆然と目で追っていた。両手を畳について座り込んだ澪月が、自分の周りに散らばる破られた画紙を見つめている。そして、その一枚一枚を拾い上げ、丁寧に皺を伸ばしはじめる。まだ描きかけの、途中までの絵を探り探り、絵合わせのように畳に並べていく。そして、出来上がった絵を前に、俯いたままぽつんと問いかける。 「せっかく描いたのに、なんで破くん?」  澪月のてらいのない問いかけに、揚知客の顔がゆがむ。 「破いたら、絵が可哀想やん」  なんの含みもなく紡がれる言葉が、揚知客の胸を突く。邪気じゃきがないだけに痛いその言葉に、揚知客の胸の中に降り積もったおりが、ぬらりと揺らめく。 「そんなのは、……絵、なんかじゃない」  誰にも言えなかった言葉が、ほとりと落ちる。襖のふちに身体を預けたまま、ずるずるとしゃがみ込んだ揚知客が、その顔を両手で覆う。 「これのどこがいけないん?」 「どれも、これも、まがい物だ!」  頭を振って言い放つ。そして、短い沈黙。その沈黙に、食いしばった歯の隙間から押し出すような、低い声が零れた。 「私の絵は、……猿真似さるまねでしかない」  いつもなら、優美に膝に乗せられる揚知客の指先が、端正たんせいな顔を包み込んでいる。    大内氏が無事に折衝せっしょうを終えたと、風の噂に聞こえてくる。もう少しで、大内氏は帰ってくる。なのに自分は、三年前と少しも変わっていない。  何故? ……何故……?  見つけたいのに、描きたいのに、どんなに描いても追いつけない。何度描いても自分が辿った軌跡の向こうには、何も見えなかった。  この時代、絵を志す者たちはみな、同じようにつ国の、名立たる絵を模すことをしていた。けれどそれが、揚知客にはどうしようもなく、虚しい。師と仰ぎ見るはずの見知らぬ誰かは、遠く海の向こう。手元にあるのは、ただ平面に切り取られた風景の欠片だけ。そこには、何もない。どんなに素晴らしい絵であっても、そこには何もない。何度絵筆を重ねても、そこから得るものは、もう、何もない。  京の都で、初めて本物の漢画かんがを見せられた日の衝撃は、今も揚知客の胸にある。瞳を瞠るばかりの技に、来る日も来る日もその画法ばかりを追いかけた。けれど、いつからか、技ばかりに囚われた空っぽな自分に気づいてしまった。筆者が苦しみぬいて見つけたはずの一本の線を、ただなぞるだけの自分の無力さを、知ってしまった。  ―― この絵も、揚知客さんが描いたん?  それは澪月がこの館に来て間もない頃のこと。言って指差したのは、揚知客の憧憬しょうけいとどめる一枚の掛け軸だった。  揚知客がまだ五山ごさんにいた頃、みんよりもたらされたその絵は、師の「手本にあらず」の一言で打ち捨てられた。蔵の隅に、汚れてしまった絵と一緒に置かれていた掛け軸を、揚知客は宇治の館に持ち込んでいた。  当時、五山の禅林ぜんりんでもてはやされていた南宋なんそうの絵画からかけ離れた、荒々しく奔放ほんぽうな筆使い。文人ぶんじんを主とする南宗画の対概念として生まれた、浙派せっぱが描く北宗画ほくしゅうがは、幕府が好む、瀟洒しょうしゃな画風に息苦しさを感じていた揚知客にとって、一条の光だった。      (こういう絵もあるんだ。これでもいいんだ)  幾度も胸で呟いた。自分は間違っていないと。猛々たけだけしい自然を写し取るには、繊細な筆だけでは描ききれない。そう感じていた揚知客に、不思議な空間に操られた浙江せっこうの画家達の絵は、頷いてくれた。けれど……、その絵こそが、揚知客を追い詰めた。  幽玄の世界をあやど發墨はつぼくの、濃淡だけで描かれる深淵の風景。遠い国の、見知らぬ誰かが見つけた一本の線。その線が、どうして生まれたのか。どこで生まれたのか。何を伝えたくて生まれたのか。それを知らなければこの技に意味はない。けれど揚知客は、飽きるほどなぞったその絵の、本来の風景を知らない。  問いかける澪月に、ゆるく首を振って応えながら、揚知客はじっと掛け軸を見つめていた。その研ぎ澄まされた視線を見上げ、澪月がぽつんと言った。  ―― 揚知客さんは、この場所に行きたいんやな。  澪月の独り言みたいな呟きに、揚知客は諦めたように笑った。  部屋の隅に蹲って、顔をあげようとしない揚知客に、澪月がそっと近づく。墨を作るために準備された梅花香ばいかこうが、揚知客の震える指先から、微かに香る。 (自分自身ですら薄気味悪く思うこの身を、ためらわず、疑わず、優しさだけで受け入れてくれたこの人に、自分は何が出来るだろう?)  そっと自分に問いかけながら、澪月は揚知客の膝元まで近づき、揚知客を見上げる。封印されたはずの力は、澪月の中で静かに息づいていた。それは澪月が瞳を逸らし続けた自然のことわりを逸脱した力。けれどその術が、今は必要な気がする。母が決して悟られてはいけないといった術が、今の揚知客には必要な気がして……。  両手で顔を覆う揚知客の、その指先から覗く額に、澪月の指先が伸ばされる。 「目、つむったまんまでおって」  澪月の冷たい指先に、ぴくりと震えた揚知客に、やわらかく告げる。 「揚知客さんが、行きたいトコ……、想像でええから、頭ん中で思ってや」  澪月の言葉を反芻はんすうし、揚知客は不思議に凪いでいく心で、千切れていく水墨画の風景を掻き集める。  ―― 行きたいところ。それはただひとつ。  揚知客の想いが一点に集中していく。曖昧に滲んでいた絵が、揚知客の瞼の裏ではっきりと容を成していく。その瞬間、不意にかくりと沈み込んだ揚知客の身体を、澪月が支える。思わず目を開けた揚知客は、ゆうるりと回転していく景色に瞳を瞠った。 「なっ……」  得体の知れない空間に、声を上げそうになった揚知客を覗き込んで、澪月が口元に人差し指を置く。そして、揚知客の片腕に両手を絡ませて、前を向く。その視線を追いかける揚知客の視界が、今は漆黒に覆われていた。真っ暗な闇の中を、何かがものすごい勢いで駆け抜けていく。風ではない、何か。ちり、ちりと、時折瞬く光が星のように流れていく。闇色の濃淡が、少しずつ陰影を深め、瞳の前にあったはずの絵がめぐる視界に溶け込んで、辺りがにわかに開け放たれた。  瞬時の眩さに揚知客が片手を翳したとき、宙に浮いているようだった足元が確かな地形を捉えた。湿った土の感触が、揚知客の素足に伝う。 「……これは……?」  揚知客の目の前には、今まで空想でしか知り得なかった山水画の、縹渺ひょうびょうたる風景が広がっていた。  見上げる瞳に、天に向かってそびえ立つ、威風堂々いふうどうどうとした岩肌が映る。  屹立きりつする岩山を縁取るのは、石に根付いた黄山松こうざんまつ。切り立つ岩の狭間に根を張り、針状の葉を空へとたなびかせている。遥か遠く、雲と雲の隙間から、どこまでも透き通った瑠璃色の湖水が見える。  見渡す風景は、何もかもがやわらかな光を帯びて、すっきりと晴れた冬空は、紗幕しゃまくが広げられたように青い色が薄まっている。心持ち小さく見える太陽も白く滲んで、足元に落ちる影も薄墨色に染まっていた。けれど、白い幽光ゆうこうに包まれた四辺は明るい。霧よりも、もっと細かな何かが、微かに光を帯びながら辺り一面を覆っていた。 「これ、ほんまもんとは、違うんやけど……」  ついと耳を掠めた声は、水の中で聞くようにぽやんと響く。 「えっ……?」  途切れた声に視線を向けた揚知客が、思わず息を呑む。  揚知客の、一歩隣り。薄水色の単衣を纏った少年は、確かに、澪月のはずだった。面影はある。高くとおった鼻筋と、ふくよかな唇。けれど、さらさらと風に靡く振り分け髪は、白銀に煌めいていた。 「これ、あの絵のまんまの風景やねん」  揚知客の驚愕を知らぬげに、澪月は遠く切り立つ飛来石ひらいせきを、眩しげに見上げている。陽射しを受けて閃く瞳は、朱い、朱い、紅水晶べにすいしょう。 「あの絵を描いた人が見とった景色やから、今はきっと変わってる、思うんよ」  くすりと、笑う。 「やけど、揚知客さんは、此処に来たかったんやろ?」  言って、仄かに笑んだまま、揚知客を見つめる。 「この風景が、見たかったんやろ?」  白すぎる肌に、紅玉こうぎょくの瞳が、ぱちぱちと瞬く。  澪月の声は、遠いのか、近いのか、それすらあやふやに響いている。けれど少年は、子供のような指先を揚知客の腕に絡めたまま、当たり前のことのように問いかけてくる。なんの不思議もないというように。  揚知客の視線が、風景に還る。  もしもこの絵の風景を、この瞳で見られたなら、きっと違うものが描ける。真似事まねごとなんかじゃない、自分だけの絵が書ける。ずっと、そう思っていた。  揚知客の瞳が、ゆっくりと潤んでいく。  夢ともうつつとも違う風景が、水底から照らされるように、淡く輝いている。けれど、その夢幻の景観は、夢よりも遥かに現実味を帯びて、揚知客の瞳の前に広がっていた。  いつの間に眠ってしまったのか、文机ふみづくえに突っ伏す自分に気づいて、揚知客が驚いて身体を起す。終日陽射しを受け止める、文机の正面に設けられた明り取りから零れる陽の色は、眩さはあってもまだ弱く、朝の早い時間を告げていた。 (……夢……?)  ポツンと浮かぶ、問い。  さわさわと、沙羅双樹が風に鳴っている。ぼんやりと覚束無い思考に、ちゅん、ちゅんと小鳥のさえずりが聞こえる。ゆっくりとめぐらせる瞳に映るのは、飴色あめいろの文机に反射する陽光ばかり。丁寧に使い込まれた文机は、燦々とそそぐ陽の光をやわらかに照り返している。  揚知客の周りには、静めきれない癇癪かんしゃくに、机の上から払い落とした筆や画紙が散乱していた。その上を、朝の透徹とうてつとした風が静けさを包んで流れていく。それは、一時前いっときまえ寸分違すんぶんたがわぬ部屋だった。  ―― けれど、  ときめくような、胸の鼓動は消えない。とくとくと、胸を叩く鼓動は消えない。見上げる陽射しは、優しさに満ちている。そのあやかな光は、消えたはずの幽光ゆうこう髣髴ほうふつとさせる。  ―― 夢……、ではない。  掌に残る、透明な風を閉じ込めるように、指先を握りこむ。  ―― 夢、ではない。  繰り返し、自分に言い聞かせる。繰り返し、今見たはずの世界を反芻はんすうする。描きたい四辺の空間を、目の前にそびえ立った奇岩きがんのその全てを。  ―― 私は、見た。  ぎゅっと、胸を押さえる。震えるような鼓動を、掻き抱く。  ―― 確かに……。  瞼に残る、奇跡の風景を、逃さないように。  弾む鼓動に押されるように、揚知客は散らばる画紙の一枚を拾い上げ、絵筆を握る。梅花香を溶かしたばかりの墨に、そっと筆の先を浸したとき……、  パサリ  部屋の空気がコトリと揺れた。軽い何かが、とさりと落とされるような音に、揚知客が振り返る。 「澪月?」  揚知客の視線の先には、薄水色の小さな塊が、両膝を抱えて、肩をすぼめたままの格好で、ころりと畳に倒れこんでいる。 「澪月」  呼んで駆け寄る揚知客に、ひくりと震える。けれど、抱き上げ肩を揺らしても、澪月からの返事はない。火照った頬。ぎゅっと閉じられた瞼。うっすらと汗の滲む額は、火のように熱かった。 「長倉!」  震える小さな身体を抱いたまま、揚知客が長倉を呼ぶ。 「長倉! 長倉ッ!」  消えかかる意識の中、澪月は縁を走る長倉の足音を、遠くで聞いていた。  ―― 母上……、どうか、そんな瞳で、私を見ないで。  身体の中で、血潮が沸騰していた。  ―― もうしません。もう二度と、こんなことはしません。だから……。  渦巻く激流は、荒れ狂う、潮の音に似ていた。  ―― この花は、何処にあったのですか?  澪月を見下ろす母の瞳は、冷たかった。嫌悪も露なその瞳に、澪月は笑んだまま凍りついていた。  ―― きっと母上は、喜んでくれる。  そう、思っていた。けれど、その期待は瞬時にしぼんだ。季節は、細雪ささめゆき舞う極寒ごっかんの冬。母が手にしていたのは、瞳にも鮮やかな燈色とういろの、山吹やまぶきの花だった。  夜毎出かける父上が、昨夜は帰ってこなかった。遠くを見つめる母上の横顔は、寂しげにかげっていた。どうにかして、慰めたいと思った。自分に出来る何かを必死で探して、色のない雪ばかりのこの景色に、暖かな山吹の色を散らして見せたいと思った。  母上が好きな山吹の花。可憐な花を持つ山吹は、手折たおると美しい色を零す。暖かに優しいその色でこの灰色の世界を染めたなら、母上が笑ってくれるような気がしていた。  うつつにあるべきはずの無い花や風、その全てを、澪月は繋げる術を持っていた。胸にあるだけの、心象の風景に降立つ術。あるはずのない花を、その手に手折る術。それは、してはいけないことだと、その時まで知らなかった。  深い眠りと浅い眠りを繰り返して、澪月がやっと目覚めた時、辺りは夕闇に包まれていた。  暖を取るために置かれた火鉢で、朱色のきがパチリと爆ぜる。 「澪月様」  長倉の、ほっとしたような呼びかけに、澪月が小さく瞬く。 「良かった。今、湯冷まし、お持ちしますね」  言って立ち上がる長倉の向こうに、夕闇に染まる庭が見える。まだ眩暈の残る視界を、澪月はゆっくりと巡らせる。いつもと変わらない風景に、安堵の吐息が漏れる。 (大丈夫、世界は変わっていない)  心の中で呟いて、そっと瞼を閉じる。突然に火照りだした身体。それはいつも、澪月の記憶を途切れさせた。だから、今もまた、得体の知れない場所に放り出されてしまうような気がして、目覚めるのが、とても怖かった。 「澪月?」  けれど揚知客の呼び声に、今度は別の不安を感じて、澪月は慌てて夜具を引き寄せる。澪月の額に置かれていた布が、パサリと落ちる。 「熱はもう、ひいたみたいだね」  その布を拾い上げ、手桶ておけに浸すちゃぷんという音が、揚知客の声に絡む。 「長倉の薬草は、効果覿面こうかてきめんだな」  声音は、笑みを含んでほろりと揺れる。  いつもと変わらない優しい声音に、澪月がおずおずと顔を覗かせる。顔を半分以上覆ったまま、じっと揚知客を見つめる。澪月の額には、汗で濡れた髪がはりついている。その髪を、丁寧に払う揚知客の指先に、澪月の鼻の奥がツンと痛む。 「……気味きみ……、悪うない……?」  揚知客から視線を逸らし、ポソポソと続ける。 「こんなん、普通、せんやろ?」  小御衣こおぞをぎゅっと握り締め、搾り出すように言葉を繋ぐ。 「揚知客さんは、気持ち悪いって、思わんの?」  問いながらその応えに怯えるように、澪月の握られた拳が震える。その拳を掌で包み込んで、揚知客が宥めるように言う。 「澪月が見せてくれた風景を、私は忘れない」  澪月が、ぱちりと瞼を開く。小御衣の陰から、揚知客を見上げる。 「私は、あの風景が、見たくてたまらなかった」  揚知客の声音が、涼やかにその場に響く。 「澪月のおかげで、私はやっと、迷いなく筆を握れる」  澪月の瞳が、みるみる潤んでいく。 「私は今、生まれ変わったような気持ちでいるのに、そんな哀しいことを聞かれたら、喜びが半減してしまう」  にこりと笑いかけられて、とうとう堪えきれなくなり、澪月はもう一度パサリと夜具を被ってしまう。小御衣に包まれた澪月の耳元に、揚知客のこれ以上なく優しい囁きが聞こえた。 「ありがとう」

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