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 季節は桜花おうかの時を過ぎ、卯月越え、皐月を迎える。  風は萌葱色もえぎいろに透き通って、水無月へと棚引たなびいていた。  我先にと芽吹きはじめた木々の枝先に、若葉がゆれる。遠くかすみたつ山並みは薄墨色うすずみいろ。涼やかに晴れ渡った空は薄水色。色とりどりの花々が咲き乱れる庭を、見下ろしている。  かゆ重湯おもゆばかりを口にしていた武が、普通に食事を取れるようになって一月ひとつき。膿んで腫れていた足が癒え、そろそろと庭を歩きはじめて半月が経っていた。  石畳の庭に、コツン、ズー、コツン、ズーと、足を引きずる音がする。観月台から庭を眺めていた澪月が、その音に視線を走らせる。澪月の瞳に、菖蒲園の中をゆっくりと歩く武が映る。  髪を結い上げた組紐くみひもの房が、ぎこちない足取りに揺れる。白い単衣は薄く、秘色ひそく色の小袴こばかまからのぞく素足が寒々しい。一瞬、その軽装が気になって、呼び止めようとした声を、コクンと飲み込む。 (もう、熱は下がってるんやし、余計なことや)  心の中でひとりごちて、くるりと菖蒲園に背を向ける。そして、ストンとその場に座り込み、唇を噛み締めた。  コツン、ズー、コツン、ズー……  杖の音が止んで、辺りがシンと静まり返る。  束の間の静けさが、どうしてか気になって、澪月は座ったままちらりと菖蒲園に視線を向ける。菖蒲園の奥の藤棚は、今が盛。手前の花菖蒲の濃い紫と対成ついなす庭に、ぽつねんと佇む影を見つめる。  青みを帯びた黒髪を、きっちりと束ねた瑠璃色るりいろの組紐。藤と菖蒲が織り成す紫の濃淡に、その色はよく映える。白い指先が、紫花しかへと伸ばされる。そっと触れられた花が、微かに震える。俯くだけの視線は無表情に、花に向けられている。    最初の喧嘩以来、澪月と武が言い争うことはなかった。  どんなに不本意であっても、今の武には人の手が必要だった。それでも、長倉や揚知客の手をわずらわせるわけにはいかない。まして、大内氏の従者に任せるわけにもいかない。半ばやけくそで武の世話をしていた澪月だったけれど、武の印象は日を増すごとに寂しげなものへと変わっていった。  いつまでたっても少しも気を許す素振りを見せない武に、苛立ちはあった。助けてもらった恩なんて、微塵みじんも感じていなさそうな態度も気に入らなかった。けれど、そんな武の精一杯の矜持きょうじが、澪月にはわかってしまう。もしも武の立場なら、自分だってきっとそうなっていたと、思ってしまう。  今、澪月がこうしていられるのは、出会いのその時に、自分の不思議を知られてしまった事にあった。自分でさえ目を白黒させてしまう現実に恐慌をきたしていた心に、揚知客の声は穏やかに届いた。  ―― 澪月は、今、生まれたんだよ。  その言葉に縋って、今日まで歩いてきた。そして、この館での五年の歳月が、澪月に人を信じる事を教えてくれた。  でも、武は違う。  身動きの取れない身体で、与えられるものを受け取ることしか出来ない。口にするものや、塗られるものにどんなに不安を感じても、どうすることも出来ない。勝気そうな視線が、けれど諦めたように伏せられる瞬間、澪月の胸の内はちりちりとうずく。仮に澪月が「大丈夫」だと言ったところで、それが何の助けにもならない事も、知っている。 「……今は、……いつや?」  ぽつんと問いかけられたとき、澪月の心に、何かが触れた。 「……弥生や」  三日しかたっていないと知っていながら、「いつ」と問う武に、声が上ずる。冷たい何かを飲み込んだ時のように、舌先が、喉元が、ひんやりと冷えていく。  視線を逸らしたままの武の横顔を、じっと見つめる。知らぬ間に時を越えてしまった自分を、不意に思い出す。月ばかりではない。年すら超えて、自分は今、此処にいる。 「……享徳、四年や」  付け足すと、武がホッとしたように息を吐いた。その吐息の意味を、澪月は聞くことが出来なかった。それを確認することは、澪月にとってたまらなく怖いことだった。 「武様」  長倉が武を呼ぶ。 「お寒くないですか?」 「……平気や……」  ぶっきらぼうに応える武の肩に、やわらかな被衣かつぎがかけられる。その優しさに、けれど何も言えないまま、武がツイと視線を巡らせる。 「綺麗な庭やな」 「そうですか?」  独り言みたいな言葉に、長倉が嬉しそうに呼応する。 「あぁ……、ほんま、綺麗や」  けれど、繰り返す武の声は、いくばくか沈んで聞こえた。  言いながら、武の胸の中には雑多ざったな想いが過ぎっていた。  風雅ふうがを極める館に、幽玄ゆうげんの庭。ぜいを懲らした調度品と、豊かな食事。自分が今までいた世界とは、あまりに違う。どんなに昔を溯ってみても、こんな贅沢な暮らしはなかった。戦火とききんで全てをなくした武にとって、此処は別天地だった。  いつの時代にも、恵まれた者はいる。そう思った自分に、苦い笑みが浮かぶ。 「澪月」  その呼び声にはっとして、武が視線を上げる。少し先にある観月台に向かって、揚知客が呼びかけている。 「揚知客さん」  弾む声音の後、澪月がふわりと観月台から飛び降りる。薄翠うすみどり水干すいかんが、深緑ふかみどり単衣ひとえの腕の中に包まれる。 「揚知客様」  隣にいた長倉が一声ひとこえ呼びかけ、その影に向かって駆けて行く。三つの影が重なる。澪月の、澄んだ笑い声が聞こえる。楽しげに何事かを語らう姿が、日向ひなたの向こうにかすんでいく。  思わず、武は観月台に背を向けていた。  怒りに似た、くすぶる何かが胸を圧迫する。彼らが集う風景は、眩しく煌びやかに、武の瞳に映る。その清らかな光は、決定的な隔たりを持って、武を遠ざける。  ―― お前に其処は、相応しくない ――  胸に膨らんだ焦げ付くような痛みは、憎しみに近い。それでも、今の自分に頼れる場所は、此処しかない。其処まで考えて、武はふっと肩の力を抜く。  握り締めた指先が、掌に爪を食い込ませていた。その爪跡を眺めながら、軽い自嘲を含んで笑う。今更のように、彼らの裕福さを恨めしく思う自分が可笑しかった。そう思ってしまう自分の浅ましさ、醜さに、乾いた笑みが浮かぶ。  綺麗な場所に居たからといって、自分のけがれが消えるわけがない。げんに自分は、彼らの優しさを、優しさとして受け取ったことは一度もなかった。常に罠を警戒し、疑いの目だけ向けてきた自分がこの場にそぐわないことは、百も承知していた。  見上げる空は、清らかに澄んでいる。けれど、眩しすぎる陽光に、武の視界は眩む。  人は結局、自分の為だけに生きているんだから、裏切りがある。誰であろうと、他人の為に生きることなんか、出来る筈がない。だったら、もしも騙されるなら、これが罠だというなら、そのときには自分の力にものを言わせればいい。  そう考えた瞬間、自分が酷く情けない生き物になったような気がして、武はもう一度俯き、力なく笑った。  それから数日後、その日は、朝から館中がそわそわと浮き足立っていた。  間断かんだんなく行き来する、パタパタと忙しそうな足音。それに混じる、磁器の触れ合う音。そして何かを運んでいるような、ガタガタと大きな音まで聞こえる。  大勢の人の気配。その騒々しさが、武を不安にさせる。  トクトクと逸る鼓動に押されるように、武は自分の寝間である離れから、顔だけ出して外を覗いてみた。けれど伸び上がっても、其処から見えるのは誰も居ない透廊すきろうと、閉じられた蔀戸しとみどだけだった。賑やかな気配は、その蔀戸の向こう側から聞こえてくる。  一度感じてしまった、不安は消えない。  何事かを確認しなければ、横になることも出来なくて、そっと立ち上がる。今もまだ、痛みの残る足を引きずりながら、母屋おもやまで歩く。透廊を渡り、壁に耳をそばだてながら、ゆっくりと進む。そして、蔀戸を少しだけ押し開け、その隙間から中を覗き込んでいた。 「何やってんのや?」  背中をポンと叩かれて、武がビクリとして振り返る。真ん丸に瞠られた瞳に、訝しげな表情をした澪月が映る。戸の陰に身を潜めるようにしていた自分の行動は、明らかにあやしい。けれど、何か言い訳をと思っても、あまりに突然のことに、言葉も探せない。 「……騒がしいな、思っただけや」  ぼそりと言って戸口を離れようとする武の背に、澪月が言葉を投げかける。 「今日は、殿様がくんねん」  その言葉に、武が振り返る。 「此処は、もともとその人のもんやねん。やから、皆、準備しとるんよ」  てっきりこの館は揚知客の物と思い込んでいた武に、その言葉は意外だった。 「揚知客さんが迎えに行ってるんやけど、もうそろそろ戻る頃や」  徐々に険しくなっていく武の視線に、澪月が問うように小首を傾げる。それでもただキリキリとした視線を向けるだけの武に、ぽつんと言う。 「……悪い人や、ないで……」  澪月の声が、たどたどしく途切れる。  武がどうして固まってしまったのか、わからなくて。けれど、睨みつけるような瞳がどうしてか怯えているようにも見えて。読み取れない表情に怖気おじけづいていく気持ちを宥めながら、澪月は言葉を探す。  一方武は、貴人と聞いただけで総毛そうけだってしまう自分の身体を、奥歯を噛み締めて押さえ込んでいた。今此処で「そうか」と頷くだけで、澪月は納得してこの場を立ち去るんだろう。そうわかっていながら、どうしても安穏あんのんと受け止められない言葉に身体が震える。 「京の人やないんよ」  脈絡なく続けられた言葉に、武の表情がわずかに弛む。その表情を確認して、澪月は知らぬ間に詰めていた息をほっと吐き出す。 「何処やっけ……、聞いたんやけど思いだせん。やけど、南のほうの守護大名や言うてた」  澪月の「大名」という言葉に、今度こそ武の身体から力が抜けた。風の噂を信じるなら、「院」の血を汲む貴人が、「大名」の前に姿を現すのは極々わずかのはずだった。まして地方の守護であれば、その機会は格段に減るはず。 「……名前は、憶えとるんか?」  念のためにと問いかけた武に、澪月が明るく応える。 「うん、大内様って言うんよ」 「……大内?」 「うん、……知ってるんか?」 「……いや、……」  否定しながらも、武は口元に指先を置き、考え込むような表情をする。その記憶を探る様子に、澪月は黙ったまま視線を向けている。何か言いたそうにも見えるその視線に、武が気づく。 「なんか、俺に、言いたいことあったんか?」  不意に交わった視線に、澪月が驚いたように瞬く。 「あっ、あんな、面倒かもしれんのやけど、顔だけ、見せてもらってええか?」  おずおずと問いかけながら、その視線が伏せられる。 「揚知客さんは、ええ言うてんのやけど、そうもいかんやろ?」  俯いたまま、欄干らんかんに指先を置いて、ぽそぽそと続ける。  此処での澪月の立場がどういったものなのか、武にはわからない。ただ、彼らが血縁関係ではないことは、なんとなく感じていた。  そして、この場所に自分を連れてきた澪月が、館の主に気兼ねしているように感じるのは、きっと思い違いじゃないとも思える。武自身、養ってもらっているのは確かなことだし、それが礼儀だということも充分に理解できる。  其処まで思って、武はもう一度、ちらりと澪月に視線を向ける。返事を待ちながら、顔を上げようとしない澪月を、少しの間見つめる。  俯いたままの背中は小さく、亜麻色の髪の隙間から覗く項は、折れそうに細い。小首を傾げ、手持ち無沙汰ぶさたげに、人差し指で欄干を撫でている。歳の頃は十二、三くらいにしか見えないのに、澪月の言葉には大人の分別がある。けれどその仕草は、幼い容姿に似合って可愛らしく、いとけない。 「ええよ」  くるりと澪月が振り返る。 「挨拶だけで、ええんやろ?」 「うん」 「足がこんなんやから、平伏へいふくは出来んのやけど、大丈夫なんか?」 「そんなん、全然かまわんよ」  嬉しそうに頷くと、武の口元に仄かな笑みが浮かんだ。  思わず息を呑んだ澪月に気づくことなく、武は澪月に背を向ける。そのまま離れに戻っていく武の背を、澪月はじっと見つめていた。武が初めて見せた優しい表情に、澪月の胸の中に暖かな感情が広がっていく。  思わず、追いかけて行きたい衝動に駆られながら、けれど、澪月の足が前に踏み出されることはなかった。

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