長倉が別棟にある座敷にこもりだしたのは、正月飾りも軒から姿を消した、睦月の終わり。 時々様子を見に来ていた大内氏の従者が、毎日のように通ってきてくれるようになったのは、如月の中程。 今、季節は弥生を迎え、春告げ草の香りが、氷雪に包まれて澪月の横を通り過ぎていく。一日、一日と春に向かう空は、雲の切れ目から、あるかなしかの淡い青をのぞかせていた。 澪月が、ぽつねんと空を見上げているそこは、薄の原の奥に位置する松林。 傾きかけた陽射しに澪月の小さな影が、細く長く、頼りなく伸びていく。トンと軽く地を蹴って、澪月は老木の先端へふわりと飛ぶ。細い枝の付け根の部分に腰を落ち着け、遠い景色に視線を送る。さやかな風が、澪月の振り分け髪を優しく揺する。 ―― 澪月様 空が茜色に染まるたび、いつも聞こえた呼び声。 ―― どこにいるんですか? 心配そうな声音が、どうしてか嬉しくて、いつも聞こえないふりをした。何度も呼びかけて欲しくて。自分を探し続けて欲しくて。そんな子供じみた感傷に、ふっと笑ってしまう。けれど笑った瞬間、思いがけず目頭が熱くなった。 声を上げて笑い出してしまいたいような、あるいは思いっきり泣いてしまいたいような、どちらも選び取れない感情に、澪月の唇が小さく震える。胸いっぱいに広がった感傷は、どくどくと鼓動を速めるのに、どうすることも出来なくて、震える胸を宥めるように膝を抱え込んで丸くなる。 ―― いつか、この時、この場所に、たったひとり、取り残されるんだろう。 それはずっと言い聞かせてきた言葉だった。いつ、何時そうなったとしても大丈夫なようにと、絶えず呟いていた。 (しゃあないやん。どうしようもないやん) もう一度、無理矢理に唇を引き締めて、繰り返す。 (ひとりでも、ぜんぜん、かまわへん。へいきや) それでも、胸の中で何度繰り返しても、胸に溢れかえった寂しさが消せなくて、澪月はもう一度、ぎゅっと膝を抱き寄せる。いつもなら、すぐにかわせる気鬱さが、今日は上手くいかない。わかっていたことのはずなのに、ちゃんと納得したつもりでいたのに、感情がついて来ない。 少しずつ少しずつ、変わっていく風景。気がつけば年月と共に、傍にいる人たちの面差しも変わっている。変わらないのは、少しも変われないのは、時の流れから、遠く切り取られた自分だけ。 (このまま、ずっと、ひとりなんやろか?) 育つことを忘れた身体。こんな自分、これからいったい、どうして生きていけばいいんだろう。誰も彼も、変わらない自分に気づいたら、きっとあるはずがないものを見る瞳で見るんだろう。育ち盛りのはずのこの歳で、いつまでも変わらない自分を、気味悪がって避けるだろう。 揚知客や長倉の優しさが、当然ではないことは、重々承知している。そして、揚知客も長倉も、いつかいなくなってしまうことも。 沈みきった夕日の残照に、気持ちまでが萎えていく。胸の奥が、きりきりと痛み出す。じんわりと、また瞼が熱くなる。泣き出しそうになっている自分に気づいて、澪月は慌てて強く首を振る。 「おわっ!」 けれど、首を振る勢いが強すぎて、くらりと身体がよろける。 「あっ、あかん……」 危うく枝から滑り落ちそうになって、両手で老木に縋る。 「危ないとこやったぁ」 どうにかこうにか体勢を立て直して、近くの枝をつかんで座りなおそうとした、その時、 「……あれ?」 澪月の特等席は、宇治の館の庭のはずれ。周囲の立ち木全てを見下ろす、大樹の天辺。通常なら松の枝葉に隠れる山道が、ふいに澪月の眼前に迫ってくる。 「なんや……?」 逢魔が時の薄闇に現れた風景は、妙にくっきりと澪月の瞳に映る。 ぱちりと瞬くと、その風景は水に映る景色に水滴を落とした時のように、ぽやんと揺れる。こしこしと瞼をこする。パチパチと幾度か瞬く。それでも淡い泡沫を描く風景は、変わらない。 ふわり、と空気が動く。 風、ではなく、空間そのものがゆがむように、心もとなく空気が動く。そして、その空気の中に、澪月のいる空間がしゅるんと取り込まれる。澪月の周りのものが、一瞬にして凍りつく。かさこそと、間断なく地を這っていた風の音さえ、消える。しんと張り詰めた空気の中、澪月はゆっくりと松の木の、根元に降り立つ。えんえんと輪を描く水滴は、一点を残して物の輪郭をゆがめている。息を潜めて、水滴の向こうを見つめる。その一点を、凝視する。 宙に浮かぶ水鏡の向こう側には、宇治の館とはまったく趣を異にする竹藪が広がっていた。その奥に、豆粒ほどの小さな影が凝る。徐々に近づくその影は、ぬめるような闇に覆われた暗黒を、転がるように走っている。馬手に木刀、弓手に小柄を携えて、迫り来る闇を散らしながら、澪月に向って駆けて来る。 葉擦れの音に、速い呼気が絡んでいる。 竹が鳴っていた。ざざ、ざざと、不気味な音をたてて。 不意に竹が、鞭のようにしなる。目にも止まらぬ速さで、武に向って薙ぎかかってくる。間一髪で、身をかわす。捕らえ損ねた獲物を惜しむように、ざんざんと、竹が鳴る。 ―― ……俺、なんで走ってんのやろ……? 必死の形相で暗闇を駆け抜けながら、武はその場に不釣合いな疑問を抱く。 ざん! その疑問を掻き消すように、また竹がしなる。 ―― 捕まったってええやん。逃げ切ったって、どうせ俺には、何もないんやから。 何のためにだなんて、問うだけ虚しい言葉を何故、今この時、思うのか。 「存外、おとなしい者よのう」 木枠の中、まるで獣のように首を荒縄で括られて、武は大広間の真ん中に置かれていた。 「あれほどお前らの手を煩わせてきた演者とは思えぬ」 勧進能の捕り物劇のあと、「松風」でシテを務めた武が、一座が泊まる宿に帰った夜、一座は既に旅立った後だった。 追っ手を警戒し、一昼夜歩き回った武を待ち構えていたのは、巧妙に仕組まれた罠の数々だった。 いつもなら、持ち前の機敏さで捕まることなどなかったのに、その日は、自分を売った主に対する落胆が、思いのほか強かった。その落胆は、決して誰も信じるまいと、頑なに誓ったはずの自分の弱さを露呈した。 仲間であるはずがなかった。習い憶えていた能楽が一座の糧になろうとも、自分はたまたま居ついただけの流人でしかなかった。それでも、いつもならほんの数日の逗留のはずが、一年、二年と続いて、時折交わされる冗談や、他愛ない会話のやり取りが楽しくて、目立つことを避けていた自分が、主に請われるままにシテを務めていた。数年先には、嫌でもこの場を離れなければいけないことは知っていた。それでも、できるなら一日でも長く、この一座に居たいと思っていた。 そんな一座と、武の間に亀裂が生じたのは、京の都で神楽を舞った夜だった。 都の外れで興行していた手猿楽の一座が、とある貴人が催す茶会へと招かれた。その場で、もしかしたら屋号を与えられるかもしれないという甘言に、主は素性の知れない貴人の申し出を二つ返事で受け入れ、武を伴ってその屋敷へと出向いた。けれど、その茶会は、庇護からあぶれた子犬たちの、狂乱の場でしかなかった。 広い庭に準備されたのは、壺に入ったままの安酒と柄杓。幾つかの籠に準備された肴が、生臭い臭気を放っていた。 「存分に」 大広間の、御簾の影からの一言が、宴の幕開けとなった。薄い茣蓙に神妙に座っていた各々の座が、乱れていくのに時間はかからなかった。 「その方ら、飲み食いばかりでは夜は明けぬぞ。御所様の前で舞を披露せよ」 従者の声に、赤らんだ頬の演者が茣蓙の前に立つ。茶会を開いた貴人の前で、我先にと舞を舞う。御簾の影からそれらを眺めていた貴人が、庭の隅に蹲っていた武に声をかける。 「その方」 御簾がシャラリと開けられ、貴人が扇で武を指す。 「何故舞わぬのか?」 その場が、自分達の望みの場ではないことに気づいた主と武は、近場にいた従者に暇乞いをし、端のほうへと下がっていた。帰り支度も済んで、門をくぐりかけていた一座の主が、その声にびくりとして振り返る。 「ちこう寄れ」 冷ややかな声音と共に、ひらひらと扇子が振られる。いつのまにか透渡殿まででてきていた貴人の双眸が、武を見据える。 「余の前では、舞えぬと申すのか?」 やわらかな物言いだからこそ際立つ、有無を言わせぬ威圧。 「いいえ、決してそのような事は……」 慌ててその場に平伏す主を横に、武も並んで平伏す。 「心にもない、おこないよのう」 貴人がくつくつと含み笑いする。 「その方、その若い方じゃ。面を上げてみよ」 隣の主の小刻みな震えが、武の袂にかさかさと触れる。すっと視線を上げる武に、興味深げな表情が向けられる。 「申し開きを聞こうぞ」 愉快げに言う貴人の双眸は、シンと凍てつく泉のように深い。 洞窟のような、血の気を感じさせない瞳を見つめていると、それだけで心身が飲み込まれてしまいそうな錯覚を起こさせる。怜悧と呼ぶに相応しい、整った容貌の貴人が、酷薄な性質を滲ませた笑みを浮かべる。静まり返った狂乱の、全ての視線が、貴人と武に注がれる。 「扇を、忘れてまいりました」 軽く叩頭する武の前に、金子の扇が投げられる。 「では、それを持て」 「衣装を汚してしまいました」 「そのままで良い」 水際立った美貌の口元に、笑みは消えている。もう、これ以上の言い逃れは許されないことを悟った武が、扇に手をかけ、はらりと開いて見つめる。 「これを羽織れ」 投げ渡された、綺羅をほどこした薄青い被衣が、蝶の羽のように煌めく。その衣に、武が触れた瞬間……、 「ものどもであえ!」 驚いて顔を上げる武を高台から見下ろし、貴人が勝ち誇ったように言う。 「物取りじゃ! そうそうにひっ捕らえ!」 狡猾な表情を見せた貴人が、武の前に降り立つ。武の隣にいたはずの主は、今は戸口の隅に下がっている。集まっていた子犬たちも四方に散り、武だけが園の中央に取り残された。 「その手にあるは、そちの扇か?」 突然のことに思考の定まらなかった武に、貴人が薄笑いを浮かべ問いかける。その見下すような笑みに、武の中で、何かがカッと熱を持った。どくどくと波打つ鼓動が、この貴人は初めからそのつもりで、誰かを苛みたいが為に、この宴を催したのだと気づかせた。そして不幸なことに、その相手を武に決めたのだということも。 猿楽者の隆盛を妬むものは多い。けれど、その影で日の目を見れず鬱々と過ごす演者もまた多い。その影に隠れた演者が甘言にどれほど弱いか、この貴人は充分にわかっている。そして、その弱さを突いて、卑しめる方法も。 蔑みを露にした貴人の口調が、武に瞬時に悟らせる。この貴人は、相手を心底侮蔑する手口を、恨めしいほどに身につけている。そのために、むやみに舞を披露する演者たちには目もくれず、端のほうで控えていた武を選んだのだ。なけなしの自尊心を、粉々に打ち砕く為に。 「あんたが渡したんやろ」 「ほう」 「あんたが放ったんやないか!」 貴人の、放埓で悪意に満ちた眼光を見据え、武が言う。謂れのない中傷を聞き流す術を持たない武が、怒りに震える。 「誰か、そのような場面に心当たりはあるか?」 頷く者が、いるわけがない。わかりきった愚問に、武の瞳に蒼い燐が灯る。 「俺は、何もしとらん!」 言い放ち、武がトンと地面を蹴る。 「微塵も知らん罪で、討たれるつもりもない!」 軽々と雑兵を飛び越え、木戸の前に立つ。 「俺は、あんたには捕まらん!」 叫んでその場を逃れ、それから少しの間、主の許しを得て裏方にまわり、ひっそりと一座の隅にいた。けれど「松風」を舞った日、恩義ある方からの申し出だからと主に頼み込まれて、仕方なしにシテを引き受けた。その時既に、主と貴人の間に約束が成されていたことなど、知る由もないままに。 戯言で済むはずだった一夜の宴。 それがこんなにも尾を引くことになるとは、武は予想だにしていなかった。ただ、最初の出会いの時から、武は空洞のように何も映さない貴人の瞳に、うすら寒いものを感じていた。急逝した治仁王の血縁者でありながら、表舞台から遠ざけられた貴人の瞳は、人間的な何かが欠落していた。茶会の後で知った貴人の風評は、奇行癖と残酷な噂にまみれていた。 犬のように荒縄に繋がれ、俯く武の鼻先に、ふわりと伽羅の香りが漂う。木枠の外から武の顎下に扇を添え、クイと頤を上向かせる。 「どうした? 悔しさに口もきけぬか?」 言いながら、喉元でくつくつと笑う。 「捕まらぬと申したは其方であろう? 捕縛されるのはさぞ口惜しかろう」 満足げに武を見下ろす。 次の瞬間、武は思わず息を呑んでいた。自分の首元に触れる扇が、いつのまにか小刀にすり替わっていた。ひたりと押し当てられた切っ先は、わずかに動けば武の喉仏を落とす向きに据えられている。 灯火に煌めく刀身から、ゆっくりと視線を動かし、武は目の前にいる貴人を見上げる。 貴人の笑みを刷いた口元に、武の背筋がゾクリと冷える。けれどそれは、切っ先を恐れてのことではなかった。貴人の残忍な笑みには、およそ感情というものが読み取れなかった。人の命を子供のような無邪気さで奪っていく、狂気を孕んだ瞳に、身の内が凍った。 無為に永すぎる記憶が一瞬、走馬灯のように武の脳裏を過ぎった。今此処で、成敗されるなら、それもかまわないと思った刹那、切っ先は喉元を離れた。 「若君?」 従者の戸惑ったような問いかけが、沈黙を揺らす。 「つまらぬ」 貴人の声が、憮然と響く。まわりの従者達の顔色が変わる。ひんやりと底冷えのするような沈黙が、広間を浸す。 「この者は、命を惜しんでおらぬ。これではつまらぬ」 パシリと小刀を、畳に投げつける。離れた視線がもう一度、武に向けられる。じっと見つめる武の瞳に、青い燐光が灯る。その燐を確認して、貴人がくっと喉元で笑う。 「まあよい。今宵はもう気が晴れた。その方らも早々にさがってよいぞ」 従者達から、ほっと安堵の吐息が落ちる。 「夜更けには雪も来よう。その者は籠のまま、野ざらしにするがよい」 言って貴人が御簾の奥へと消え、運び出された籠は透廊に囲まれた庭の中央に置かれた。 ひっそりと静まり返った庭には、音もなく、白雪が舞っていた。しんしんと冷え込んでいく籠の中で、武はじっと空を見上げる。 逃げようと思えば、逃げられる。今すぐにでも。手で握る木枠は脆く、捕縛できたことに安堵したのか、見張りも数人しかいない。自分の力で、この場所を粉々にしてしまうことなど、雑作もない……。 その毒のように甘い誘惑に、武が苦笑する。 人でなしに明け暮れた過去が、この数年で洗われるわけもなく、結局は元の無頼漢に戻ろうとしている自分に気づく。生きたくて生きてきたわけではないから、そうしなければ生きて来れなかったと言い訳する事も出来ない。自分は何の為に此処にいるんだろうと何度となく問いただし、その都度返らない答えに、もう問うことも忘れていたのに。 ―― この者は、命を惜しんでおらぬ ―― また、苦い笑みが浮かぶ。 そう、生きたいと願ったことは、多分一度もない。それを、病んだ気質に読み取られたことが、あまりに自分に似つかわしく、乾いた笑みが浮かんでくる。 「何を、笑っておる?」 傍にいた従者が、気味悪そうに聞いてくる。その怯えた声音が、武の神経を逆撫でる。 「これで大丈夫やと安心しとる、お前らが滑稽や」 喉元で、笑いを堪えるように言い放つ。 「なんだと!」 「俺にはこないなもん、通用せんのや!」 次の瞬間、青い閃光が闇夜を貫き、四辺を囲んだ木枠が木っ端と散った。思わず尻餅をついた従者が、武を見上げる。ぼんやりと蒼白い燐光を灯すその影が、凄絶な笑みを浮かべる。 逃げるつもりはない。抵抗するつもりもない。そう思っていた。 けれど、今此処で捨てられる命なら、もう、とうの昔に捨てて欲しかった。誰も惜しむもののない命なら、なぜ、死にたいと願ったときに、死なせてくれなかった! 憤怒に押されるように、武は慄く従者から木刀と小柄を取り上げる。 「お前らに、俺は殺させん!」 武の怒声に、潜んでいた従者達が、ザッと周りを取り囲む。蟻の子のように群がる雑兵をかわし、武は館の外へと逃げ出した。 追いかけてくる、幾多の足音を背中に聞きながら、むやみやたらと走りまくって、ふと気づいた時、辺りはシンと静まり返っていた。 うすい靄が立ち込めている。さっきまで落ち着かなく鳴っていた笹の葉が、とろりと歪んだ闇にぬらぬらと光っている。 ……なんや……? 刺すようだった空気の冷たさが、不意にやわらかに温もる。土塊ばかりを踏みしめていた足先に、芽吹きはじめた草が触れる。 ……どうなっとんのや……? 雪はやみ、そればかりではない温かな風に、意識が朦朧としていく。 ドン、と何かにぶつかる。 「あっ、お前、」 その声に、それが人の腕だと気づいた瞬間、武の意識が遠のく。 「とことん、ついとらんみたいやな……」 自嘲気味にぽつりと呟いて、武はその場に崩れ落ちた。
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