ずっと部屋に篭ったままの揚知客に、澪月がつまらなそうに唇を尖らせる。 「暇やぁ~」 愚図る子供のような声を上げ、長倉の背中をポカポカと叩く。 「痛いですよ! なんで叩くんですか」 「やって暇なんやもん。揚知客さん、食事時にも出て来てくれんし」 ぶつぶつと言いながら、しゅんと肩を落とす。 それは庭先の井戸端での一幕。 汲み置きしてあった水で、せっせと洗濯をしていた長倉の背中を、澪月がトンと小突く。しゃがんだまま見上げる長倉の瞳には、寂しそうに奥座敷を見つめる、澪月の横顔が映る。 夕食時に澪月を探しに出るのが日課だったのに、今は長倉が呼びに行かなくても、膳の前にぴょこんと座って、揚知客がいる襖の向こうを、じっと見つめている。 時間が空くと、澪月を何処かしらに連れ出していた揚知客が、今は顔を見ることさえ稀になっていた。長倉は、揚知客が寝食を忘れて絵に没頭してしまうのは、いつものことと知っていたけれど、澪月はまだ慣れないらしい。 ふいと奥座敷から視線を外して、澪月が足元の小石をコツンと蹴りつける。そのむずがる子供のような仕草に、長倉が苦笑交じりに問いかける。 「もう少ししたら、洗濯が終わりますから、その後、どっか行きますか?」 「えっ?」 澪月が、くるんと振り返る。 「実はね、今日、御祭りがあるんですよ」 「ほんまに?」 問いかけながら、蜜色の瞳がきらきらと光りを弾く。わくわくといった表情で次の言葉を待つ澪月に、長倉がにっこりと笑いかける。 「だから、ちょっと待っててください。これが済んだら、行きましょう」 「うん!」 夕刻を告げる梵鐘の音が、京の都を満たしていた。 「ちょいと、寄って行きんさいな」 目の前を通り過ぎようとする参拝客に、物売りたちが我先にと呼びかける。 「花、いらんかえ。富草の花、いらんかえ」 手にした鈴の音にのせて、花売り娘が軽やかに歌う。暮れなずむ空に、宵闇を待ちかねた星々が、ちらちらと瞬きはじめる。遠くさざめく薄の原は黄金色。秋の名残りの夕風に、竹林のささらの音が聞こえる。 町衆たちの賑わいから少し離れた川岸にいる長倉と澪月は、買ったばかりの唐菓子を摘まみながら、神楽の始まりを待っていた。 「京の町は、いつも賑やかやなぁ」 朱色の光を弾く川面を眺めながら、澪月がぽつりと呟く。 「毎日が、お祭りみたいや」 握った小石を、ポンと川に放る。 場所を変え、品を変え、市は毎日のように開かれる。幾度戦火を潜り抜けようとも、京の街は華やかだった。たくましく毎日を生き抜いていく人々の熱気で、都は明るい。けれど、いくつも立ち並ぶ露店のそのほとんどは、遠くに故郷を持つ芸人や農民だった。決して安くはない関銭を取るために乱立された関所をくぐって、それでも尚、人々は京へと向かう。 「みんな、……なんで京に来るんやろ?」 立てた膝に米神を置いて、澪月は長倉の方に顔を向けている。けれど、その視線は遠く、問いかける言葉は、独り言みたいに紡がれる。 「京に上れば、何かがあるように思うんじゃないですか?」 「何か、って?」 「何か良いこと、ですよ」 「ふ~ん……」 今は昔、京の都が、栄華の極みにあった頃。 河原者と呼ばれ、犬以下と蔑まれていた猿楽の少年が、時の将軍に見初められ、物乞い同様だった少年はその日を境に、当代最高の教養人たちによる教育を受ける事となった。けれど、将軍の後ろ盾を得て芸能を極めた少年は、後に六代将軍足利義教の怒りにふれ、都から遠く離れた流刑地でその生を終えた。朝廷にも守護大名にも屈することなく、宗教の世界をも支配していた三代将軍足利義満の夢は、息子義持の手でそのほとんどが消え去った。 あてどない時の中で、確かなものなど、なにひとつない。それでも人々は何かを求めて、京の都に向かうのだろうか。遠く、夢を馳せ。 宵闇に、ほつり、ほつりと火が灯る。ゆるゆると陽は沈み、都は薄紫に染まりはじめる。参道を照らす篝火の、揺れる炎が川面に映り、煌めく火の粉が漣に散る。人波はいよいよ膨れ上がって、境内へと向かう。 「そろそろ行きましょうか」 人通りの途絶えた川岸で、長倉が澪月の肩にそっと手を置く。薄絹の被衣が、さらりとその手に掛かる。 「……お前は、「何」が欲しくて、京に来たん?」 囁くような声音は小さくて、長倉は澪月の口元に耳を寄せる。 「お前の「夢」は、なんなん?」 今度ははっきりと問う言葉を口にして、澪月が長倉をじっと見つめる。不意に問われた言葉にトンと胸を突かれて、長倉が驚いたように身体を離す。 「聞いても、お前は言わんのやろうけどな」 目を瞠る長倉に、小さく笑いかけて、澪月は何かを察したように会話を途切れさす。「よいしょ」と掛け声をかけて、その場にぽんと立ち上がる。肩に落ちた被衣を羽織り、長倉の大きな手を握り締める。 「いこ」 未だ戸惑った表情を崩せずにいる長倉を急かすように引っ張って、とことこと歩き出す。澄み渡る藍の空に、天光を告げる笙の音が、細く高く鳴り響いていた。 境内の中は、既に沢山の人で埋め尽くされていた。 夏の暴風雨の爪あとが残る寺院の、中央に位置する舞台は小さい。修繕費を集めるための勧進能も有名処の座を呼べるほどの蓄えはなく、今日の舞台も素人集の手猿楽が努めると聞いていた。それでも人々は苦しい日々の生活費から、見物代を捻出する。年に数回、あるかなしかの興行を、それはそれは楽しみに待っている。 さざめく声音の中央で、円座に坐った楽師達が奏でる厳かな音は、徐々に高くなっていく。その涼やかな音に吸い込まれるように、観衆の話し声が静まっていく。今か今かと待ちわびた、沈黙の祭典がはじまる。 庭燎に照らし出される舞台に見入る澪月の横で、長倉は澪月の言葉を思い返していた。 ―― お前の「夢」は、なんなん? なんの思惑も含まれない、まっすぐな言葉。それはまるで小さな棘のように、長倉の胸に刺さっていた。継げる言葉を見つけられない長倉を気遣い、何もなかったように振舞う澪月は、いったい何に気づいているんだろう。 ―― 聞いても、お前は言わんのやろうけどな。 長倉の胸の奥が、また、チクリと痛む。 「……松風や……」 物思いに沈んでいた長倉の袖が、クイッと引かれる。 「この笛、松風や」 舞台に視線を置いたまま、澪月が長倉の腕をきゅっと握る。気がつけば、周りの見物客達もさわさわとざわめき始めていた。 篳篥や古琴を奏でていた演者が消え、舞台には笛方のみが坐っている。残る囃子方も片幕の影に隠れ、中央には松の立ち木と汐汲車が置かれている。 「松風、観れるんや」 笛の音に乗るように、楚々と準備される舞台を見上げ、澪月が嬉しそうに繰り返す。音に聞く幽玄能の題目に、長倉は少なからず驚いて、確認するように瞳を凝らす。 この時代、幕府の保護を受けた「座」以外の演能は、たくさんの制約に縛られていた。ことに演目の取り決めは厳しく、「松風」は観世座の許しがなければ舞うことを咎められた。手猿楽が、それを許されるはずがないことを誰もが知っていながら、涼やかに鳴り響く笛方の音に胸を躍らせる。 「何年ぶりやろ」 澪月の淡く潤む瞳に映るのは、花のたえない館での遠い日々。物語の舞台は、澪月のふるさとに程近い津之国。きっと澪月も、何度も舞ったのだろう。懐かしげな言の葉が、切なく揺れる。 〽あはれ古を思ひ出づれば懐かしや 笛方の音に乗せて、重々しく地謡が流れる。 〽葉末に結ぶ露の間も 忘らればこそあぢきなや 老齢の謡声が、震えながら風に乗る。 〽忘るる隙もありなんと 詠みしも理や なほ思ひこそは深けれ きざはしの向こうから、ゆるゆると、ひとつの影が立ち上る。 〽宵々に 脱ぎて我が寝る狩衣 たおやかに、水のように、シテの謡が流れ出す。 〽月はひとつ 影ふたつ 満つ汐の 夜の車に月を載せて 憂しとも思はぬ汐路かな 陽炎の翅のような紗衣が、ゆうるりと風にたなびく。 〽たとひ暫しは別かるるとも 待たば来んとの言の葉を こなたは忘れず 松風の 篝火に浮かび上がる能面。 〽まつとしきかば まつとしきかば 今 帰り来ん 「あいや、またれい! その舞台!」 張り詰めた糸が切って落されるように、無骨な声が境内に響いた。振り向くと境内の山門は、幕府の役人達によって封鎖されていた。 「誰の許しを得て舞っている! 小犬どもが!」 驚いて振り向いた視線を舞台に帰せば、先ほどのシテが舞台中央に悠然と立っている。 「その面もだ! 幕府の許しなくば着けられぬこと、知っておろう!」 ドスドスと、足音も高く踏み入る雑兵へ、ツイと向けられる面。 ―― えっ……? 澪月の瞳が瞠られる。篝火の、朱赤に照らされる白い面の奥で、僅かに見える眼光が、青く、青く、閃いている。 ―― なっ、なんや? 見間違いかと、瞼を擦って見上げる。 シテの指先がゆっくりと、面紐を解く。はらりと落ちる面が、シテの白い掌に乗る。次の瞬間その面が、風を切って役人に投げつけられた。 「こっ、こやつ!」 不意打ちの攻撃に、舞台に攻め入らんとする数名の雑兵が多々良を踏む。 「お前らもずいぶん暇な仕事しとるんやな」 舞台の欄干に足をかけ、その膝に片肘置いたシテが、にやりと笑う。 「なっ、なんだと!」 「面は返したで。とっとと報告にいけや」 「おのれ、芸人ごときが生意気な!」 ひゅんと弓が飛ぶ。 「おっと」 矢羽をよけて、その身体がふわりと宙に浮く。 「あっ!」 驚く声が、四方に散る。 「捕縛する言うんやったら、捕まえてみぃ? 追いつけるもんならな」 トンと舞台下に降り立ち、言ってシテが高らかに笑う。満座の人々の間をするすると交わしながら、山門脇の獣道へと向かう。 「追え! 追えっ! あれを見失うな!」 すぐさま後を追おうとする役人達に、舞台衣装が投げつけられる。風に乗る紗衣に、庭燎の火の粉が吸い寄せられていく。薄い紗衣は見る間に燃えて、急ごしらえの舞台に近づく。細い柱に、擦り切れた幕に、紅蓮の炎が燃え広がっていく。 「火の手が上がるぞ!」 誰かが叫んだ。 「早う、逃げるのじゃ!」 寺の住職が、慌てたように飛び出してくる。山門へと押し寄せる人波に呑まれて、澪月と長倉が離されていく。 「澪月様!」 長倉の呼び声も虚しく、澪月の小さな身体は波にもまれ、みるみる遠ざかっていく。 「澪月様ッ!」 被衣を握り締め、声も出せずにいた澪月が、長倉の声を頼りに振り返ろうとした瞬間、端へ端へと寄せられたその足元が、不意にスコンと抜け落ちる。 「なっ、長倉!」 助けを求める声は、火を見て怯える人々の雑多な声音に飲み込まれていった。
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