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 ―― 夜長月 ――   四方よもこずえ色絢爛いろけんらんにしきいろどる、夕時雨ゆうしぐれ。気まぐれな通り雨が一頻ひとしきり降りそそぎ、色づきはじめた紅葉もみじを濡らしていた。のきを伝う雨だれが、澪月の遠い記憶の扉を叩く。ぽたり、ぽたりと、忘れたはずの追憶を揺らす。  ―― 頃は春、爛漫らんまんの花の中。  ところ播磨はりま津之国つのくに程近ほどちかく。もよおされるは桜のうたげ。豊かな国の、壮麗そうれい芳館ほうかんの、殿でん片隅かたすみ。 「ようこそ、いらせられませ」  何度も練習した覚えたての口上こうじょう恙無つつがなく言えたことに安堵して、澪月が笑んで顔をあげる。父方の祖母君そぼぎみにお逢いするのは初めてで、澪月は今日の日をとても楽しみにしていた。けれど、恥じらいに薄く染まっていた頬は、瞬時に蒼褪めた。自分を見つめる祖母君の表情がみるみる強張り、何かを遮るように扇が広げられた。それはまるで、けがらわしいものから自分を守ろうとするような仕草しぐさだった。  すっと血の気が引いて、澪月はそのままするすると屏風びょうぶの陰に下がった。祖母君の視界から身を隠した瞬間、その場にぺたんと座り込んでしまう。澪月の耳に、祖母君の甲高い声が飛び込んでくる。 「あの子の髪はなんやの? まるで麦の穂みたいやないの!」  ドキンと大きく、胸が鳴った。 「目もなんや、紅うみえたけど……」  はっとして、瞼に触れた。 「獣の血でも混ざってるんやないの?」  悪意を持って連ねられる言葉に、澪月は愴然そうぜんとするしかなかった。ことことことこと。胸が痛いくらい、速く鳴っていた。母上が、哀しげに俯いていた。苦虫を噛み潰したような父上の横顔が、その隣にあった。誰も、誰も、祖母君の言葉を否定してはくれなかった。  きしきしと軋む身体を、なんとか立ち上がらせ、澪月は宴に背を向けた。しばらくして聞こえ始めた楽の音に、ほっと息を吐き出し、透廊すいろうの隅にしゃがみこんで、胸元から取り出した小さな和鏡わきょうに自分の顔を映し見、その影に唇を噛み締めた。  自分が、他の子供達と違っていることを、知っていた。どんなに長く陽の下にいても、澪月の肌は不思議な程に白いままだった。何度剃髪ていはつしても濃くならない髪は、なよなよと柔かく赤茶色。そして、大きすぎる薄茶の瞳は暗闇の中、猫の目のように赤く光った。  しんしんと、桜の花びらが散っていた。  膝を抱える澪月の足先に、桜の花びらが降り落ちる。優しく寄り添う花弁はなびらに誘われて、澪月は桜の老木ろうぼくへと歩いた。美しい花を見上げ、澪月の表情がくしゃりと歪む。何かに胸がぎゅっと押されて、とうとう涙が零れだした。  泣き声を飲み込むために指先に歯を立てると、薄い皮膚が破れ、ゆうるりと赤い糸が指先を伝い落ちていく。けれど、血の滲む指先より、胸が痛んだ。どうしても涙をとめられなくて、澪月は桜の大樹に頬を押し付ける。  ―― みんなと、同じに、なりたい……  風に乗る、か細い声に、桜がふるりと揺れる。桜は、根元に零れ落ちた血珠ちだまと、木肌に沁みこんだ涙を受け取り、澪月の願いを聞き届けた。  ―― 其方そなたが望むうつしし身を、今暫いましばし、其方にあたえよう ――  えんたけなわ、消えかかった灯篭とうろうに油をさす侍女じじょの足元に、桜の花弁はなびらが舞い落ちる。ふわりと散った花びらに視線を移す侍女の瞳に、艶やかな稚児ちごの姿が映りこむ。 「まぁ、澪月様」  呼び声に振り向く澪月の肩に、何かがさらりと触れた。 (……えっ?……)  澪月の腰の弱い髪が、そんな風に肩に触れたことはなかった。驚いて自分の髪を握って、目の前にかざす。灯篭の灯りに、緑の黒髪が濡れたように艶めく。 「そんなところで何をなさってるんですか? 御寒いでしょう?」  きょとんと瞳を瞠る澪月に、侍女がするすると近づく。髪を握る澪月の手をほどき、暖めるように両手で包み込む。 「ほら、手がこんなに冷たい。さぁ、向こうに参りましょう。楽しい舞が始まりますよ」  にっこりと笑んで、侍女は澪月を宴の席へと連れて行く。おどおどと侍女のそでに隠れる澪月を、祖母君が優しく手招てまねく。母上が、笑っていた。父上は、楽しげに杯を重ねていた。きりきりと軋んでいたはずの空気は、何処にもなかった。  花と光が織り成す、夢の浮き橋。うつつたくされた皇子みこが、幻の橋を渡る。桜だけが知っていた、遠い記憶。  灯火はゆらゆらと揺れ、灯芯のちりちりと焼ける音が、静けさに散っていた。夕立を招いた雲は消え、明り取りの障子は月に蒼く滲んでいた。  澪月の枕元で、寝ずの番をしていた長倉は、うつらうつらと夢の中。ゆらゆらと舟をこぎながら、揃えられた膝元に両手が鎮座ちんざしている。生真面目な性分が眠りの縁に留まるその姿は、長倉の浅い眠りを揚知客に教える。  静寂の色を纏った障子を押し開けると、紫紺の闇が忍んでくる。澄み渡る秋の空に浮かぶのは、皓々こうこうと輝く大きな月。冴え冴えと蒼白く満ちた月が、淡い光りの紗幕を広げる。天空がそそぐけぶる煌めきは、菊花を濡らし、すすきの原に銀の波を描く。さやさやと、あえかな風にたなびく薄が、きらきらと月の雫を闇に散らす。  パサリという微かな音に、揚知客の視線が床へと返される。揚知客の瞳に、苦しげに首を振る澪月が映る。その肩口を濡らす、澪月の額に置かれていた布を拾い上げ、揚知客もしとねの横に端坐たんざする。  頼りない指先が、小御衣こおぞをきゅっと握り締めている。薄く開いた唇からは浅い息が零れ落ち、澪月は小刻みに震えている。淡く色づいたまなじりから、一粒の雫が零れ落ちていく。  動き出した走馬灯そうまとうは、からからとまわり続ける。過ぎ去った時を抱えた波が、繰り返し、繰り返し、寄せてくる。胸の奥底に隠しこまれた哀しみを、ざらざらと舐めあげ、掘り起こす。断片と散っていたあらゆる記憶が、荒れ狂う波に寄せ集められ、打ち揚げられていく。 「澪月を、澪月を頼みます。どうか……」  母上の懇願は、悲痛な叫びに、似ていた。  夜毎の宴、にしきまとう人々をもてなした山海の珍味ちんみ播磨はりま御所ごしょたたえられた豪奢ごうしゃな館は、一晩で焼け落ちた。荘園代官の排除を要求する暴徒の手によって、父上が惨殺された。その後、毒をあおった母上の、最期を見届けることは叶わなかった。  遠くに聞こえる、ときの声。獣道を切り裂いて進むのは、父の信頼も厚かった屈強の従者。澪月の指先を握り走るのは、乳母めのとでもあるその妻。がくがくと覚束ない膝で、けれど走り続けた。腕が抜け落ちそうだった。指先が千切れそうだった。暗闇に浮かんでは消えていく風景が、瞬きのうちに変わっていった。  逃げ落ちる場所を求めて乳母夫婦めのとふうふは、播磨の守護しゅご、赤松氏の門を叩いた。今しも、土一揆鎮圧どいっきちんあつおもむくはずだった赤松氏は代官惨殺の報に驚き、安全な場所を沈思ちんしする。そして赤松氏が示したのは、後南朝ごなんちょうの隠れ里、吉野だった。  ―― 南朝方、元中九年。北朝方、明徳三年。  武家勢力を統率した三代将軍足利義満は、「明徳の和約」をもって南北朝の和睦を成立させた。しかし、両統迭立りょうとうてつりつの条件はことごとく反故ほごにされ、南朝方の多くは公家社会への復帰が適わなかった。そして応永十九年、北朝系によって天皇位が独占されるに至り、南朝の再建を図った南朝復興運動が起こっていた。  京都を出奔しゅっぽんし吉野に潜行していたのは南朝最後の天皇、後亀山上皇ごかめやまじょうこうとその皇子みこ。南朝との親交が深かった赤松氏は、後亀山上皇へあてた書状を認め、乳母夫婦に渡した。そして、所々破れてしまった浅葱色あさぎいろの水干を纏った澪月の頭を、そっと撫でた。 「さぞ辛かったでしょう。よく我慢された。ご立派ですよ」  瞠目した瞳のまま、瞬きさえ出来ずにいた澪月の目線までおりて、また囁く。 「もう少しの辛抱ですぞ。騒ぎがおさまったら、一番に迎えに行きます」  今はもう失くしてしまった父の面影が、不意に赤松氏に重なった。似ているわけではない。面差おもざしが、似ているわけではない。ただ、頭に置かれた掌の大きさとその温もりに、胸がぎゅっと締め付けられた。声も出せずにいた澪月の胸の中から、熱い塊がせり上がってくる。けれど……、 (泣くものか)  心の中で呟いて、あふれ出しそうに瞼を焦がす熱を押さえ込んだ。 (絶対に、泣くものか!)  切れるほどに唇を噛んで、澪月はその場に平伏ひれふした。 「此度こたび御恩ごおん、生涯、忘れません」  播磨の国から大和の秘境、吉野へ。その旅路は、楽なものではなかった。  旅慣れない乳母夫婦と、播磨の国どころか館から出ることさえまれだった澪月にとって、旅は過酷だった。覚えたばかりの星見ほしみの知識は、季節に翻弄ほんろうされあてにならない。他人目ひとめを避けての道中は頼りなく、道に迷ってしまうのはしょっちゅうだった。身につけていた絹の水干が食物に換わるのに、時間はかからなかった。華美な装飾が施された脇差も、髪を美豆良みずらに結っていた金糸も、換えられる物は端から換えていった。けれど、そのことを苦痛だとは思わなかった。括袴くくりばかま直垂ひたたれのみの誰かの着古しも、慣れれば動きやすく、必要最低限の食事にも不満はなかった。身分を偽る為に覚えた放埓ほうらつな言葉遣いがやがて当たり前になり、粗野な振る舞いが身に沁みて、坂道を転げ落ちていくように変わっていく自分自身を、嘆くこともなかった。  ただ時折、どうしても胸が詰まったのは……。  澪月には、無残に殺された父と、自害に追い詰められた母の仇討ちは叶わない。土一揆とは、そういうものだから。ゆくゆくはその憎むべき者達を、統べる立場になるのだから。  その諦めは、澪月の心を陰鬱に翳らせて、もともと持っていた子供らしい無邪気さや、あどけない表情をことごとく奪っていった。  季節が時の中に流れては消えていき、そしてまた、悲劇は突然に襲ってきた。  暮れ始めた空に、足を速めた澪月たちは道をたがえ、深い森の中に迷い込んでいた。見渡しても、途切れることのない山なみに今日の宿を諦め、陽が沈みきる前に乳母夫婦は野宿の準備を始めた。そして、辺りがとっぷりと暗闇に包まれた時、暖を取るために焚いた火に、油が投げ込まれた。  ボンと膨れ上がった火に、素早く刀に手を伸ばす従者の腕が、血飛沫ちしぶきをあげて切り落とされた。そして、返す刃が従者の喉もとを切り裂き、乳母の胸を突いた。  闇の中からのっそりと現れ出たのは、血に餓えた夜盗やとうの群れだった。  それから先の記憶を紡ごうとして、荒ぶる波が、一瞬躊躇ためらう。早く早くと、急かすように胸を叩いていた波が、瞬時戸惑う。けれど波の躊躇いにつまづくことなく、澪月は全てを思い出した。血塗られた記憶は生臭い臭気までともなって、澪月の中にまざまざと蘇えった。    ふっと意識が戻ってくる。 (もう、思い出すことは全部、思い出せた)  そう呟いたのは、胸の中。ぽっかりと目覚めた澪月が、闇に揺れる灯火とうかを見つめる。瞳に残る涙で滲む視線を、そっと動かす。  そして澪月は、開け放たれた蔀戸しとみどの前に、揚知客の優しげな瞳を見つける。気遣うだけの暖かな眼差しが、翔る時の中から放り出された澪月を、じっと見つめている。  ふわりと視線を外し、澪月が口元だけで笑う。 「俺……、変やろ?」  細い声が、静寂をことりと揺らす。 「やけど……、これが俺なん……」  言葉と一緒に、まなじりからぽたりと雫が零れ落ちる。米神を伝って流れる雫が、真っ白なしとねに沁みこんでいく。闇に浮かぶ灯火が、見えない手にあおられたように、ゆらりと揺れた。  長倉の浅い眠りは、澪月の頼りない声に呼び覚まされる。瞬いた瞳に、ゆっくりと笑みを象ろうとする、澪月の顔が映る。 「気味、悪いやろ?」  自嘲気味に、笑う。 「……母上の……」  言おうとして、澪月はぐっと言葉を飲み込む。  今はもういない母の、その血筋を話したところで、なんになると言うんだろう。母は、そのことを気に病んでいた。だからこそ、あんなにも哀しい瞳をしていた。そう知っていながら、自分は何を話そうというんだろう。  古い宮司ぐうじを生家に持つ母は、その上代かみよより不思議の多かった自身の血筋を、少なからず気にかけていた。そして生まれた澪月に、自然のことわりから外れた、あってはならない力があることに気づき、それを知られることを恐れていた。  ―― それは人ならざるじゅつ。決して使ってはなりません。  母の言葉は、今もはっきりと思い出せる。けれどそれは、遠い約束。澪月が願ったうつしし身を得てからは、口の端にのぼることすらなかった。そして、今となっては、自分の不思議を確かめるすべもない。ただ有るのは、奇異な姿の、この身だけ。  言ってもどうしようもない言葉を頭の中で握り潰して、澪月は細く息を吐く。自分を守りたいために、言い訳のように母の秘密を話そうとした自分を恥じて、苦く笑う。 「こんな、得体の知れん奴、傍におったら迷惑やろ?」  言いながら、澪月の閉じた瞼が熱く滲んでいく。他ならない自分自身を、「得体の知れない奴」とさげすむ、自分の言葉が情けない。 「……明日んなったら、すぐに、……出て行く」  澪月の呟きは、澄んだ水のように静謐せいひつだった。けれど、一時前まで零れていた涙に、その頬は濡れたままで、感情を押さえ込んだ気丈な声音は、酷く不自然にその場に響く。  ―― 俺、此処におっていいんやろか……?  心許なく問いかけた、その唇で、  ―― こんなん、俺やない!  水鏡に映る自分の姿に怯えながら、叫ぶように繰り返したその唇で、澪月は言葉を紡ぐ。白々と。何かを悟ったように。何もかもを、諦めたように。笑みのかたちのままの口元が、ひんやりと夜気やきに浮かぶ。蔀戸の向こうからは、清々せいせいと、群青の静寂が流れ込んでくる。しんと冷えた静寂が、灯火を頼りなく揺らす。  紫に近い濃紺のたもとから覗く、揚知客の指先は白く凍てついていた。とこかたわら、長倉の正面に端坐たんざし、その膝にたおやかに白い手をのせたまま揚知客が問う。 「いくあては、あるのか?」  揚知客の静かな言問いに、澪月の瞼が薄く開かれる。俯く瞳が、長い睫の影で思惟しいに揺れている。何処を見るでもない瞳がひっそりと、また閉じられる。  こんな姿になった今、自分はいったい何処へ行こうと言うんだろう。ひとりだ、と思った。本当に、ひとりぼっちになってしまったんだ、と。  ―― ……ならば……、  澪月の口元に、病んだくらい笑みが浮かぶ。  声もなく冷笑する澪月をじっと見つめ、感情の色のない面を保ったままで、揚知客は問いを重ねる。 「赤松氏を、訪ねるつもりなのかな?」 「えっ?」 「それとも、南朝の隠れ里?」  もの柔らかに問われた言葉に、驚きの声をあげたのは長倉だった。それまで何処か投遣なげやりな態度を示していた澪月が、床の中から射るような視線を揚知客に向ける。  今の今まで澪月は、自分の素性を一言も話していなかった。揚知客と会話らしい言葉を交したのは、これが初めてだった。  ―― なのに、なぜ……?  澪月の強い眼差しを一度受け止め、揚知客が俯く。胸元に視線を落とし、すっと指先を滑らせるような仕草で、懐から何かを取り出す。ひらりと広げられたのは、一通の書状。それを、澪月の目の前にかざす。 「この書状をもって、後南朝の隠れ里にいくつもりか?」  揚知客が手にしていたのは、薄茶けて、所々に黒いシミの残る、忘れもしない赤松氏から渡された書状だった。  ばさりと夜衣よぎを投げ去り、澪月が揚知客からその書状を奪い取ろうとする。ほとんど反射的に、長倉は起き上がった澪月の肩を掴んでいた。澪月の指先が、書状に届く寸前でくっと留まり、虚しく空を切る。  触れたなら、はらりと崩れて散ってしまいそうに古びた書状。その書状に視線を滑らせ、揚知客がまた問う。 「此処に書かれている「一揆」は、播磨の国のことだね?」  長倉に羽交い絞めにされて、その手を振り解こうと暴れる澪月に、揚知客の問いに応える余裕はない。 「澪月は、赤松氏が亡くなったことを、知らないんだね?」 「なっ……!」  思いも寄らない揚知客の問いに、全身で威嚇いかくしていた澪月の身体から、ふっと力が抜ける。 「赤松氏は将軍を暗殺し、その後、幕府方討伐軍に追い詰められ、自害されている」  告げられる言葉に、瞠目した瞳が揺れる。 「一揆が起きたのは、正長二年。今は宝徳元年。もう、二十年も前のことだ」  遠くに、宇治川の流れが聞こえる。微かに聞こえるその音は、見えない時の流れのように、澪月の耳に木霊する。さらさら、さらさら……  ―― 一番に、迎えにいきます。  大きな掌の、暖かなぬくもりが、胸を突く。果たされなかった約束が、虚ろにゆがむ記憶の中に、消えていく。  ―― 望みは、絶たれた ――  その言葉は、ひんやりと胸の中に落ちていく。  ―― 自分を待つものは、もう、何処にもいない ――  血の通った何かを、ばっさりと切り落とされても、意識は冷めていた。  ―― ならば、……ならば……、  父の首は、澪月の目の前で、おのねられた。農作業用の、研がれてもいない斧で。武士とは違う、急所を知らない無数の刃に責められた後に。幾度も幾度も振り下ろされる斧に、父の断末魔は延々と続いた。襖の陰で口元を覆われ、澪月はその場面を凝視していた。不意を突かれた暴動に、従者達は成す術もなくバタバタと薙ぎ倒されていった。殺戮さつりくの後に彼らが放った火は瞬く間に燃え広がり、真っ暗な空を焦がしていた。  澪月から全てを奪った紅蓮の炎。松明たいまつを手に、その火を見上げていた農民達の顔。闇を染め抜く烈火に浮かび上がった幾多の顔は、澪月の脳裏に焼き付いている。それでも、その者達をべるのが、やがて自分の勤めとなる。だから、彼らを恨んではいけない。憎んではいけない。そう言い聞かせ続けてきた。  けれど今はもう、自分が守らねばならないものはなかった。自分を縛り付けていた使命は、この姿とともに消えた。だとしたら、なんとしても、父と母の仇を討ちたいと、そう願った。今の自分なら、この姿なら許される。もう、失くすものはなにもない。  なのに……、その最後の願いさえ、深淵しんえんの中に沈んでいく。  澪月が仇と目する者の、今は知れない。澪月を助けてくれた赤松氏さえ、既に亡い。なにもかも、なにもかも、とろりと滴る闇の中に消えていった。  答えは失い、何処にも失い。  長倉の腕の中で、澪月がいきなり渇いた高笑いをあげる。  突然に笑い出した澪月に、長倉がその身体から後ずさる。身を捩じらせて哄笑こうしょうする澪月に、揚知客は切なげに眉を顰める。けれど、澪月の笑い声は途切れない。可笑しくてたまらないというように、笑い続ける。  もう、……もう……、笑うしかなくて、澪月は笑い続ける。  もう、なにもない。ほんとうに、なにひとつ。だというなら、自分はどうしてこんなモノになってまで、生きているんだろう。生きる意味の、最後のひとつが今、澪月から捥ぎ取られた。 「俺、ほんまもんの化けもんやな」  くつくつと、喉を震わせる。 「時も、なんもかんも、関係ないんや」  ははっと、投げやりに笑う。 「俺いったい、幾つや? 自分でも、ようわからんわ」  言い捨てて、前髪をぱさりとかきあげる。さらさらと零れる後れ毛が、澪月の表情に薄い紗幕をかけていく。  頷くことも、首を振ることも出来ずに、長倉は当惑したように澪月を見つめていた。言葉なんかが生まれるわけもなく、今、目の前で交されている会話にどう対処すればいいのか、信じがたいはなしばかりが、これでもかこれでもかと、覆いかぶさるように続けられる。けれど……、  腕に残る、華奢な感触。あまりに頼りなかった、澪月の薄い肩。それらを振り切るように強気に語られる言葉が、耳に痛い。決して尋常ではありえないはずの目の前の童子どうじが、どうしてか、とてもとても可哀想で、当の本人にさえ掴みきれない不可思議な感情が、長倉の胸の中に、じんわりと広がっていく。  後ずさったまま、両手を後ろ手について動けずにいる長倉を、澪月が振り返る。不意に重なる視線に、長倉の肩がぴくりと揺れる。怯えたようにも見えるその一瞬に、澪月が傷ついたように薄く笑う。そして、俯きかけたあごをくっとあげ、揚知客を見つめる。何かを悟りきったような静けさをまとって、澪月がふわりと笑いかける。 「揚知客……、さんで、いいんかな」  独り言のように呟いて、 「俺を、助けてくれて、ありがとう」  まっすぐに揚知客を見つめる。 「これ、ほんまもんの気持ちや。ほんま、助かった」  けれど、繰り返される言の葉は、重ねれば重ねるほど、痛々しくて……、 「こないな綺麗な場所で休ませてもらったん初めてや。ほんま、ありがと」  にこりと笑んだその笑顔までが、哀しく映る。  澪月の声音に、もう混乱は見られない。けれど奇妙に明るく告げられる言葉は当然、違和感を引き寄せる。無理につくろう明るさが、ほとほとと解ていく。 「……これ以上は、迷惑かけられへん」  牡丹色の口の端を、くいと引き上げ、 「俺、自分でも、自分がようわからんねん」  自分を蔑むように、くすりと笑って……、 「やから、此処は出て行く」  気丈に言い放つ。青褪めて透明な月影に浮かぶ端正な横顔に、一時前の、泣き顔が重なる。  ―― こんなん、俺やない!  風に揺れる菊花きっかに吸い込まれていった、悲痛な叫び。秋雨あきさめを呼ぶ強い風が、揚知客の耳元でうねるようにたわんだ。  池のはたで意識を失った澪月を長倉にたくし、揚知客は別棟べつむねへと急ぎ、桐の箱に寄せてあった澪月の衣を広げていた。澪月の懐に収められていた一通の書状。細く折りたたまれた和紙は、汚れているだけではなかった。見た目だけで長い年月を知らしめるように、薄香色うすこういろにくすんでいた。その古びた書状はずっと傍にあり、時折かさりと枯れた音をたてていた。気になりながら、けれど触れることさえ躊躇われたその書状を手にとり、震える指先でそっと広げた。降り出した雨が、パタパタと軒先を叩いていた。

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