ピュンッ! と長倉の後ろを何かが走り抜けた。 「……えっ?」 そのあまりの速さに、一拍以上の間をおいて長倉が振り返る。当然、既にそこには何もなく「気のせいか」と呟いて長倉はまた仕事に戻る。 静かな館に響くのは、包丁が俎板を叩くトントンと軽い音。季節の根菜を煮詰める、コトコトとやわらかな音。焼き物を乗せた火鉢が、時おりパチンと爆ぜる。夕焼けの橙色の風景に、優しい音が滲んでいく。大内氏を迎える祝いの膳は、一の膳から五の膳までが並ぶ、本膳料理。武家の出だった長倉が、見よう見まねで作った本膳料理は、大内氏のお気に入りだった。 いくつもの灯篭が並ぶ観月台に全ての料理を運びきり、長倉は準備が整ったその場を見渡す。自分の仕事の出来栄えに満足することは、此処最近めったにないことだった。今日はどうしてこんなに順調だったんだろうと、ふと思い返して、「あっ」と小さく声をあげる。 通常であれば、長倉の傍らでくるくると忙しなく纏わり付いている、澪月がいなかった。澪月本人に邪魔する気はさらさらないわけだけれど、それは置いておいて、澪月がいるだけで長倉の仕事は倍に膨れ上がる。その澪月の姿が見当たらない。 見上げる空は、既に群青色に染まっている。観月台から身を乗り出して裏庭に視線を懲らす長倉の瞳に、とっぷりと暮れた夕闇が重なり合う。人影どころか草の影さえ朧な闇が、長倉の瞳に映る。 子供じゃないんだから心配なんかするなと言い張る澪月。でもその姿は、どんなに多く見繕っても十五に満たない。着の身着のままで出かけた澪月は、行燈も持っていない。気になりはじめると、留まらない。良からぬことばかり思い浮かぶ。もしも、誰かに拐かされでもしたら……。とんでもない予感に、長倉は走り出し、勢い込んで門を開け放つ。 「おぅ! なんだ、いきなり出迎えか?」 門の数歩先、木戸の前にいた大内氏が、驚いたように言う。 「ようこそ、おいでなされませ」 慌てて叩頭する長倉に、大内氏が嬉しそうに笑う。 「声をかける前に門が開くなんて、思ってもみなかったぞ」 たまたまの偶然だとは言いにくい状況に、長倉が笑みを繕って見上げる。 上機嫌の大内氏は茄子紺の着流しに、薄蒼い被衣を片肩に掛けている。艶やかな黒髪は撫でつけられただけで、背の中程で緩く結ばれている。精悍な顔立ちが勇ましい印象を醸しはするけれど、帯刀がなければ、どこぞの遊び人といった風情。 「お供の方は?」 「さっき帰らせた。いるとうざったいだろう?」 言ってカラカラと笑う。少しも変わらない、大内氏の豪快な笑い声に、長倉の頬に懐かしげな笑みが浮かぶ。 「ご無事の御帰り、心より嬉しく思います」 「お前も変わりないか?」 「はい」 頷きながら視線を上げ、長倉が不思議そうに問いかける。 「今日はまた、ずいぶんと軽装でいらっしゃる」 長倉の大きな瞳にまじまじと見つめられ、大内氏がバツの悪そうな笑みを浮かべる。 「あぁ、甲冑は持って帰らせたんだ」 「え?」 「どうも俺は鎧をつけてると、人相が悪いらしい」 「?」 「大人しそうな仔猫にまで威嚇される」 大内氏の隣で、揚知客がくすりと笑う。 「……仔猫? ……ですか?」 「あぁ。真っ白で、随分綺麗な猫だったんで、ちょっと悪戯したら、ホレ」 言いながら、袖をまくって血の滲んだ腕を長倉に見せる。 「これ、まだ全然手当してないじゃないですか!」 しっかりと歯形の残った傷跡に、長倉がビックリしたように言う。 「舐めとけば平気だろう?」 「そんな悠長な! ただの切り傷と違うんですよ! 早く消毒しないと!」 言うや否や大内氏の腕を掴むと、引っ張るようにして井戸の前まで連れて行く。汲み上げてあった水を柄杓ですくって、何度も傷口に流しかける。 「触っちゃダメですよ! すぐ薬草を持ってきますから、そのままでいてください!」 着流しの袖を肩まで捲り上げられた格好で、大内氏は井戸の前に立ち尽くしている。片肩にかけてあった被衣がずり落ちそうなその姿は、なんとなく情けない。 「供の方には見せられない姿ですね」 少し遅れて歩いてきた揚知客がひそりと言って、小さく笑う。振り返る大内氏が、眉を顰めて揚知客に問いかける。 「あいつが世話好きなのは知っていたが、なんだか世話女房みたいになってないか?」 「女房というよりは、母親でしょう」 さらりと応える揚知客に、大内氏が納得したように頷く。 「例の小冠者か……」 言いながら、周りを見渡し、問いかける。 「で、その小冠者は、何処に消えたのか、見当はついているのか?」 大内氏の言葉に、揚知客はやわらかな笑みを見せる。 「きっと、部屋の隅で固まってますよ」 「なんだ、じゃ、帰ってるのか?」 「ええ、……多分」 多分と言葉を濁しながらも、その声音は落ち着いている。穏やかに笑う揚知客に、大内氏が意外そうに言う。 「お前がそんなふうに笑うのは、初めて見たな」 少しだけ驚いたような表情をする揚知客の肩を、ポンと叩く。 「うん。良い表情だ。生き生きとしているぞ」 戸惑い気味の揚知客の背中を、ぽんぽんと続けざまに叩きながら、大内氏が満足げに笑う。その笑顔につられるように、揚知客の頬もゆるやかにほころんでいく。 沁みるから嫌だと、子供みたない駄々を捏ねる大内氏の腕を引っ掴んで、無理やり薬草を塗り込めるのに一時。少しだけ不機嫌になってしまった大内氏を宥めながら、観月台に誘い込むのに一時半。憮然とした表情の大内氏に白瑠璃碗を握らせ、注いだのは長倉秘蔵のすぐり酒。 「おっ?」 大内氏の表情が、俄かに変わる。 「今日は、これ、飲ませてくれるのか?」 膝立ちの長倉を見上げ、わくわくといった感じで声を弾ませる。 「今日のために、準備しました」 長倉が漬ける果実酒は、どれも絶品だった。酸味を殺さない程度の甘さと、濁りのない色。中でも酸味が強く、漬けるのが難しいと言われている「すぐり」でさえ、長倉の手にかかれば、透き通るような珊瑚色に染まる。けれど果実そのものが小さく少ないこの品種。季節ごとにでは、飲める量が限られてしまう。そんな「すぐり酒」を、思いっきり飲んでみたいと言ってくれた大内氏の為に、長倉は去年から準備していた。 「たくさんありますから、遠慮せずに飲んでくださいね」 乳白色の瑠璃を薄い紅色に染める珊瑚の花露に、大内氏が満面の笑みを見せる。やっと機嫌を直してくれた大内氏にほっと安堵の息を吐き、長倉はそっと観月台を後にする。自分の影が御簾に隠された瞬間歩速を早め、門へと向かう。 (今、一時なら、酒盃は満たされている。膳の肴も、今一時なら、問題ない) 言い聞かせるように呟いて、長倉は夜空を見上げる。もうすっかり陽の落ちた藍の空には、下弦の月が浮かんでいる。 (早く、見つけなくては) 急く気持ちをなんとか落ち着かせ、夜道を照らすための行燈に手をかけようとしたその時、長倉の後ろでキシリと床の軋む音がした。驚いて振り返ると、夕刻からずっと姿の見えなかった澪月が、所在無さげに立っていた。 「澪月様!」 慌てて駆け寄る長倉に、澪月の肩が竦む。 「どこに行ってたんですか! 夕方までには帰るって、約束したじゃないですか!」 長倉の叱るような声音に、澪月の肩がますます縮こまっていく。少し怯えているようにも見える澪月の様子に、長倉は怒鳴りたい気持ちを飲み込んで、澪月の目線まで降りる。見下ろす視線から見上げる視線に変えて、澪月の小さな手を握ると、俯いていた視線がやっと長倉に向けられる。 「こんなに遅くまで、外にいちゃ駄目ですよ」 小さな子供に言い含めるような言い方に、澪月がきゅっと唇を尖らせる。 「俺、家ん中に、おったもん」 「いつ帰ったんですか?」 「陽ぃ暮れる前や」 その一言に長倉は、「気のせい」で片付けてしまった一瞬の気配を思い出す。あれが澪月だったんだと思い返す。 「帰ってたなら、一声かけてくださいよ」 思いっきり脱力して、長倉はしゃがんでいたその場に腰を落としてしまう。 「大内様がいらしてるのに、気が気じゃなかったなかったんですからね」 膝をついて情けない声を出す長倉に、澪月の小さな小さな声がかけられる。 「……………………ごめん……」 澪月の弱々しい声音に、長倉が座ったままで澪月を見上げる。 視線を逸らして俯く澪月はしゅんとしたままで、いつもの元気がない。言いたいことは山ほどあっても、肩を落とした澪月に長倉は何も言えない。所在無さげな風情が、出会ったばかりのころの寂しげな澪月を思い出させて、それ以上は叱れない。 「とにかく、御無事でなによりです。水干乾きましたから、一緒にとりに行きましょう」 いつものように無邪気な笑顔を見せてもらいたくて、長倉は勢い良く立ち上がると澪月の手を握る。水干をかけてある奥座敷に向かいながら、笑い話のように大内氏の話を振る。 「今日はとても珍しいことがあったんですよ」 長倉の歩きながらの会話に、澪月の視線が上がる。 「さっきね、大内様の腕に薬草を塗ってさしあげたんですよ」 小首をかしげる澪月を見下ろして、くすくすと笑いながら続ける。 「小さな噛み傷だったんですけど」 その一言に、澪月の心の音が、ドキンとひとつ高く打つ。 「あれほどの剣の腕をお持ちの方でも、仔猫には敵わないんですね」 (……仔猫?) 長倉の言葉を胸の内で反芻した瞬間「仔猫」の正体がわかって、澪月の頬がポンと紅くなる。長倉の腕がくい、と引かれる。歩を止めてしまった澪月がふぅとひとつ、息を吐く。 「……それ……、俺や」 「えっ?」 「やから、御殿様に噛み付いたんは、俺や」 「えぇっ!」 「やって、知らなかったんやもん」 大きく目を瞠る長倉に、澪月がおそるおそるというように問いかける。 「……怒っとった?」 握り締めた指先が、小さく震えている。長倉の驚いたような声が、澪月の不安を大きくしていた。問う言葉を投げかけながら、それを確認することに怯えるように、澪月の視線が逸らされる。 この時になって長倉は、やっと気づく。 さっきからずっと感じていた、澪月の覚束無げな様子。何を不安がっているのか、ずっとおどおどと瞳を揺らしていた。この所為だったんだとやっと合点がいって、長倉は澪月の俯く瞳を覗き込むようにして明るく笑う。 「そんなに気にしなくて大丈夫ですよ」 言って、澪月の頭をぽんぽんと撫でる。 「大内様は悪戯好きな方ですからね。澪月様も何かされたんでしょう?」 悪ふざけが大好きな大内氏は、長倉にもしょっちゅう悪戯を仕掛ける。それは他愛ない、子供のような悪戯ばかり。上手く引っ掛かれば、両手を叩いて大喜び。逆に失敗した時には、驚くほどしょげ返ってしまう大内氏だった。 「澪月様の事を仔猫だなんて言うくらいですから、平気ですよ」 「……やけど……」 言い掛けて、澪月が唇を噛む。自分のために揚知客が骨をおってくれているのに、このままではとても納得できなくて、ついと長倉を見上げる。 「……お前、笛、持っとったよな?」 その問いかけに長倉は、随分前に澪月が寝付けなかった夜、一度だけ吹いて聴かせたことを思い出す。 「謡曲、吹けん?」 長倉にとっては手慰みでしかない笛。有名処の曲を知ってはいても、吹けると胸を張って言えるものではなくて、長倉が考え込むような表情をする。 「羽衣の、「天女の舞」の部分だけで、ええんやけど」 遠慮気味に問いかける澪月に、長倉が問い返す。 「澪月様が、舞われるんですか?」 「うん。前はようやってたんよ。憶えてるかどうかは、怪しいんやけど……」 自信無さげに俯いていた澪月が、キッと前を見据える。 「やけど、このままには出来ん」 また少し不安げに小首を傾げて、心許なく呟く。 「大内様は、舞は好きなんやろか?」 自分に出来る何かを一生懸命に探っている澪月の問いかけに、長倉は自分の中にある怯む気持ちを捨て、澪月の思い立ちを、後押ししようと心に決める。 「大内様は風雅を好まれる御方ですから、舞が嫌いなんてことないです」 そして、優しく告げる。 「きっと、お気に召していただけますよ」
コメントはまだありません