夢にうなされた夜から、澪月が変わった。 もともとそんなに口数が多いほうではなかったけれど、妙に暗く沈んだ表情を見せるようになった。そんな澪月の塞いだような横顔が、武は気になってしょうがない。でも、だからと言って、何をどう聞けばいいのかもわからず、気を揉むばかりの毎日が続いていた。 一方、澪月も、武の気遣わしげな表情に、何度も口を開きかけては飲み込むことを繰り返していた。 飲み込んだ言葉。どうしても口に出来ない言葉。その言葉は時折、胸の奥底から浮き上がってくる。静かな水面を乱す気泡は、澪月の胸の中で苦く弾ける。 真実を知っているくせに、真実から故意に目を背けている。 そのことを、澪月は知っている。気づいている。忘れてもいない。けれど、それを思い出すたび、言いようのない孤独感へと追い詰められる。他人とは違う能力を宿した身体。その瞼の裏に焼き付けられた光景。その記憶に引き摺られる哀しみは、ただ積もるばかりで薄らぐことがない。あの惨事の前で感じた、身を引き裂かれるような絶望は、人と同じで在りたい、人で在りたいと願う澪月を、根底から覆す。 それでも、言葉は出たがっていた。澪月の中に隠しこまれた真実は、出口を求めて日毎に膨らんでいった。 「武様」 鬱々とした気持ちのまま、池の端に座り込んでいた武に、長倉が声をかける。 「なんや?」 立ち上がり振り返る武に、長倉が躊躇するような表情をする。 「あの……、こんなこと、武様にお伺いするのは、お門違いかもしれないんですけど……」 言い難そうに言葉を詰まらせる長倉に、「ん?」といった感じで武が先を促す。 「澪月様、最近おかしくありませんか?」 まっすぐに武を見つめて、言い切る。 「さっき、揚知客様のお使いで、都まで一緒に出かけたんですけど……」 都への買出しの殆どを、今は大内氏の従者が行っていた。 けれど画材に関しては、どうしても専門的な知識が必要で、長倉が筆を休めて出かける。その際、澪月が同行することは、この館の暗黙の了解のようになっていた。 都の賑やかな空気の中にいると、気持ちが明るくなると、澪月は言っていた。追っ手を警戒して館に留まる武は、そんな澪月を笑って見送っていた。今日も久々に都へ行けると、少しだけ明るい表情を見せた澪月だった。 その澪月が、都の雑踏の中で、突然泣き出したのだと言う。 それは、町の外れの琵琶法師の前を通り過ぎようとしたとき、不意に足を止めた澪月が、ほろほろと涙を零した。 「澪月様?」 「……あっ、ごめん」 呼び止められて、「へへ」と軽く笑いながら、涙を拭う。 「俺、これだけは、なんや……、駄目なんよ」 くすんと、鼻を鳴らしながらも、 「気にせんといて」 明るく笑って見せたと言う。 「澪月様は、普段、ほとんど涙をお見せになりません」 言って長倉の顔が、くしゃりと歪む。 その時長倉は、館に来たばかりの頃、よく泣きながら眠っていた澪月を思い出していた。無意識の中でしか泣けないこの人は、いったい何処で思いっきり泣くんだろうと、いつも思っていた。だから本当は、泣けるほうが良いとも思っていた。泣けたなら、きっと楽になれるだろうと。 けれど、今日の澪月の泣き顔は、長倉が望んだ泣き方ではなかった。心を解放する為ではなく、解放できない何かが留め切れずに零れだしたような、そんな泣き方だった。 「それが、あんなふうに泣かれるなんて……」 俯いて、自分のほうこそ泣きそうになっている長倉の肩を、ポンポンと慰めるように叩きながら、武が明るく問いかける。 「澪月、もう部屋におるんか?」 声を出すと、本当に涙が零れてしまいそうで、長倉が無言で頷く。その長倉の肩をもう一度ポンポンと叩いて、武が澪月の部屋へと向う。 長倉の不安が自身の不安と重なって、自然、武の足が速まる。踏みしめる力が強くなる。 もうこれは、聞けないなんて言っている場合じゃない。無理矢理にでも聞き出そう。そう自分に言い聞かせながら、武はドカドカと透廊を踏み鳴らしていた。 「澪月!」 襖を開けるや否や、武が厳しい声で澪月を呼ぶ。くるりと振り返った澪月は、そんな武に驚くふうでもなく、何処か思いつめたような瞳をして武を見上げた。 「ちょう、こっちこいや」 口を結んだままの澪月の手を引いて、武は母屋から離れへと向う。ぎゅっと握られた指先に、澪月は黙ったまま歩速をあわせてくる。俯いて、自分の足先だけを見つめている。タンと戸が閉じられる。部屋の中央に澪月を座らせ、その正面に胡坐をかいて、武は澪月の顔を覗き込む。じっと下を向いたままの澪月に、そっと話しかける。 「なぁ、おまえ、今日、泣いたんやて?」 澪月は表情も変えず、ただ俯いている。 「琵琶法師の、何が気にかかったんや?」 澪月は、どうして武がその事を知っているのかわからなかった。 けれど、それを確認することも出来ないくらい、気持ちが動揺していた。 溢れようとする感情。留めようもなく脈打つ鼓動。それら全てが、澪月から冷静さを奪っていた。もう、抑えが効かない。 本当は、ずっと、確かめてみたかった。他人とは違う、忌まわしい能力を持った自分が犯しているかもしれない罪を、武に話してみたかった。多分真実は、今となってはもう、誰にもわからない。そうとわかっているのに、それを確かめたがるのはどうしてだろう。それも、わからない。ただひとつ、わかっていることは……、 もしも武に、自分を否定されたなら、自分はもう、立ち上がることは出来ないだろうということだけだった。 もしも、同じような不思議を持った武にまで忌避されるなら、その時は、今度こそ、この心は砕かれる。そうわかっていても、何もかも話してしまいたい。その後に来るものがなんであっても、もう何もかも話してしまいたい。どうしてそんなことを思ってしまうのか、それすらわからなくても。 澪月の視線が上げられる。武の真っ直ぐな瞳に、澪月の感情が呑まれていく。 「諸行無常って、なんやろな、思っただけや」 ぽつんと言って、澪月が瞼を伏せる。 「変わるのが当たり前なんやって、人は思うんやなって、思っただけや」 投げやりに言いながら、澪月の瞳は思惟に揺れていた。 自分はとうとう、話そうとしている。自分の何もかもを。その諦めが、痛みに変わって、澪月の指先を震えさせる。その指先をぎゅっと握りこんで、澪月の視線が、武に返される。 「俺が生まれたんは、応永二十年や言うたら、信じる?」 武の瞳が、僅かに瞠られる。 「嘘みたいやろ? やけど、ほんまやねん」 くすりと笑って、スイと視線を逸らせる。 「でな、此処には、五年おるんやけど、俺、全然変わらんねん。年恰好だけやないで。髪も爪もそのまんまやねん。怪我しても、翌日には治ってまうねん。髪切っても、翌日には元通りになんねん」 ふふっと笑って、 「武も、ずっと変わらん言うてたな。けど、おまえの怪我は、すぐには治らんかった。俺のほうが、よっぽど、化け物じみてる、思うで」 自分を嘲るように言う。 澪月の言葉は、武を酷く切ない気持ちにさせた。澪月は、武が歳をとらないことを知っている。けれど、その武以上に、自分は普通じゃないと言う。唯でさえ重い、人を逸脱した現実を、苦く見据えた澪月の言葉が、武の心を揺する。 「そうなんか?」 けれど、揺すられた心を押さえ込み、武は出来る限りの平静さを保って問いかける。 「まっ、あれやな、歳は俺が勝っとるで。応永二十年言うたら、おまえまだ四十そこそこやろ? 俺、多分、もっと長いで。生まれた年号も、もう憶えとらんけどな」 武の思いがけず軽い声音に、澪月が俯いたまま、視線だけを上げる。その視線を捉え、武が淡く笑んで見せる。 「それにな、おまえは俺の何知ってるん? 俺、自分が歳とらんことは言うたけど、おまえ、それしか知らんやろ?」 見つめる視線の優しげな色に、澪月がきゅっと唇を噛み締める。そして、諦めたように瞳を瞑り、噛み締められた唇を、ゆっくりと解いていく。 「やけど、武は……、人、……殺したこと、ないやろ?」 背筋から、何かが流れ出していくような冷やりとした感覚に、澪月がぶるりと身体を震わせる。武の眉が、顰められる。わずかにゆがめられた武の表情に、澪月の視線が落とされる。 「俺、夜盗に拐かされそうになってから、その後のこと、憶えとらんねん」 武の思考が、あの老松の根元へと巻き戻される。 「揚知客さんは、俺のこと、吉野で見つけた言うんやけど、俺、自分がなんで吉野におったんか、知らんねん」 話の辻褄が微妙にずれているように感じて、武が確認するように問いかける。 「……揚知客さんが、助けてくれたんか?」 こくんと頷く。 武の問いかけは、揚知客が夜盗から澪月を助けたことを確認するものだった。けれど澪月の同意は、行くあてのない自分を、此処に連れて来てくれたことに対するものだった。 「やったら、夜盗は、……捕縛されたんやないの?」 揚知客が、ひとりで夜盗に立ち向かえるとは思えない。連れの従者か呼びに行った役人か、それが誰かはわからなくても、夜盗たちは何らかの手によって、戒められたんだろうと問いかける。 澪月の顔色が、さっと青褪める。 「違うんか?」 澪月の紅い唇が、震える。そこで初めて澪月は、武の問いの意味に気づく。 「揚知客さんは……、俺が、夜盗に襲われたんは、知らんと思う」 「えっ?」 「俺、言っとらんから……」 視線を落としたまま、ゆるく首を振る。 「揚知客さんが知っとるんは、俺が変わってるってことだけや。細かいことは、言うとらん」 其処まで言って、澪月が腿の上の衣を握り締める。 「俺の目の前で、乳母も、従者も殺された。俺は、その場から逃げたんやけど、すぐに追い詰められてもうた」 もう、抑えることが出来なくなった震えが、澪月の髪を揺らす。 「夜盗に回り囲まれて、捕まる思うた。やけど、……そっから俺、……記憶ないんよ」 伏せられていた視線が、僅かに上げられる。けれどその瞳には、何も映っていなかった。 「気づいたら、俺の周りは血の海やった。目の前に、夜盗の首が転がって……、千切れた手や足がいっぱい、いっぱい、散らばってて……、でも、それしか見えんかった。いっぱいおったはずの夜盗が、ひとりもおらんかった」 まるで今、目の前に惨劇があるかのように、澪月が怯えた表情をする。 「俺は、……なんも憶えとらん。やけど、俺の手も、身体も、真っ赤やった。爪ん中まで血が沁みとった」 震える自身の手を広げ、どこを見るでもない目をしていた澪月の視線が、その手に引き絞られていく。 「動いてたんは、……俺だけやったんよ」 不意に、涙に潤んだ瞳が、武へと向けられた。 「どう、思う?」 その瞳が、自嘲するように歪められる。 「俺が殺ったとしか、思えんやろ?」 武の耳に、澪月のあの夜の、叫び声が甦る。 ―― 俺やない! どんなに長い間、澪月はその事を知られることを恐れていたのか。そして、どんなに長い間、それらを覆してくれる何かを求めていたのか、それが瞬時に、武にはわかった。 忘れたいと願うことほど、人は忘れられない。そして記憶にこびりついたそれらは、唐突に心を突いてくる。まるで今しがた起こったかのような鮮明さで、心を追い詰めていく。 「おまえが血だらけやったんは、そら、あたりまえやろ?」 思いも寄らない武の言葉に、澪月がぱちりと瞬く。 「傍におったら、返り血もあびるやろ?」 澪月の揺れる瞳に、武がやわらかく笑って見せる。 「おまえがなんでひとりだけ、其処に取り残されたんかはわからんけど、おまえには無理やと思うで」 そっと、澪月の頬に触れる。 「だいたいなぁ、気ぃ失っとる者に、何が出来る言うねん」 震えの残る、まろみのある頬を、ぺちぺちと叩く。 「まぁ、それでも、今俺が「おまえやない」言うたところで、おまえは納得出来んのやろ?」 忘れろなんて、無責任なことは言えない。 「やけど、な? 俺は今、此処におるおまえが、人を殺せるなんて思えないんよ」 過ぎたことはしょうがないなんて、慰めも言わない。 「もしも、な? もしも、やで? 仮におまえが人殺しだとしても……」 ただ、今、心をこめて、言える言葉はただひとつ。 「俺は、澪月が好きやよ」 武の言葉に、澪月の瞳が瞠られる。 「おまえの過去がどんなんでも、この気持ちは変わらん」 澪月は、武の身体の芯に巣食った飢えを、その優しさで癒してくれた。 「この気持ちは、澪月がくれたものや」 澪月が「俺ら」と言ってくれたとき、永い間抱えてきたものが、一気に洗い流されたような気がした。生まれて初めて、許されたような気がした。それがたとえ、澪月が自身の不思議と重ね合わせた結果だったとしても。 「俺は、ずっと、ひとりやった」 ひとりでしか、生きられなかった。全てを知って、受け入れてくれる人はいないと、そう信じきっていた。 「こんな自分は、誰も好きになったらあかん、思うとった」 自分には既に、人間らしい感情なんて失くなってしまっていると、そう思っていた。 「澪月は俺に、誰かを想う気持ちを、思い出させてくれたんよ」 そんな武の、絶望の淵にひとりきりで沈んでいた心を、澪月は救い上げてくれた。 武の願いをこめた言の葉に耳を澄ませながら、澪月は揚知客の言葉を思い出していた。 ―― 澪月は、誰も殺せない あの言葉は、夜盗のことは、欠片も知らない言葉だった。けれど武は、その全てを聞いても「おまえやない」と、言ってくれる。そして、仮に自分が、この手で誰かを殺めていたとしても、それでも良いと、言ってくれる。 「武。ちょう、後ろ向いててくれんか?」 「ん?」 「……俺が、良い、言うまで、後ろ、向いて」 その願いに、座ったままで回れ右する武を見つめ、澪月がそっと立ち上がる。 瞼を伏せ、両手を合わせる澪月の身体が、指先から流れ出すあやかな光に取り込まれ、その姿が変わる。ゆっくりと瞼を開き、澪月は自分の指先を見つめる。指先から抜け落ちた色素に、薄蒼く浮き出た血管を確認し、その手をぎゅっと握り締める。 「……たける……」 恐々と震える声に呼ばれて、くるりと振り返った武を、澪月は不安げに見下ろす。白銀の髪に赤い瞳で、じっと武を見つめる。 澪月がこの姿を初めて知ったのは、もうずいぶん昔のことだった。 そのきっかけは、思い出せない。けれど、幼い日にこの姿を母に見られ、酷く叱られたことは憶えている。それからはもう二度と、現さないつもりでいた。けれど時々、自分の身体がこの姿に変わることを知っていた。少し感情が昂ぶるだけで、瞳の色が変わることも。 すると、座ったままで澪月を見上げる武の頬に、滲むような笑みが浮かんだ。 その表情は、澪月が思い描くどれとも違って、澪月が戸惑ったような表情をする。 「……武?」 問いかける呼び声に応えるように、武がすっと立ち上がる。怯えたように身体を竦める澪月の、華奢な肩を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。 「みかえり兎って、知っとる?」 「……ぇっ……」 武の腕の中、不意に問いかけられ、澪月の声が上ずる。 「神様のお使いする兎でな、宇治は兎に連れて来てもらうところやねんて」 それは古くから宇治に伝わる神話のひとつ。 祭神の菟道稚郎子命が、河内の国から宇治に向かう途中で道に迷ってしまったとき、一羽の兎が道案内してくれたというものだった。ひょっこりと現れた兎が振り返り振り返り、菟道稚郎子命を先導したとする逸話は、「みかえり兎」として今に伝えられていた。 (神様の……、お使い?) 武の言葉を反芻する澪月の頭の中に、後ろ足で立つ、真っ白な兎が思い浮かぶ。 「嬉しいって、思ったら、あかんか?」 その兎が、ぴんと立てた薄紅の耳を欹て、赤い瞳で振り返る。 「やって俺、兎に、此処に連れてきてもらったんやで」 くるりと方向を変え、真っ白な兎が、ぴょんと跳ねる。 「神様のお使いが、俺を助けてくれたんよ」 (神様、……の?) 問い返す言葉を口に出来ない澪月を、武は腕を緩めて見下ろす。微かに震えながら、おずおずと顔を上げる澪月に、武がこの上もなく幸せそうに笑んで見せる。月の雫を留める、青褪めて透明な瞳。澪月が魅せられ続けた瞳が、まっすぐに澪月を見つめる。 「今の、おまえに、や」 武を見上げる澪月の瞳が、みるみる潤んでいく。 誰に対しても表面は取り繕いながら、心のどこかで垣根をつくり、その安全な内側からまわりを見渡す澪月の心の中には、小さな尖った小石が散らばっていた。ちょっとしたはずみでころころと転がるその小石は、大切な事から瞳を逸らし続ける澪月の、痛みだけに聡い心の壁を引っ掻く。 自分の想い、自分の過去、なにひとつ言葉に出来ないまま、ただ浅ましくこの場所にしがみつくだけの自分を、ずっと許せずにいた。自分で自分が、許せなかった。それが、どんなに卑怯なことか、知っていたから……。 そんな澪月にほとりと落とされた、水滴のような武の言葉は、胸の中でえんえんと弧を広げていった。静かに寄せる波のようにゆっくりと、孤独にしがみつく澪月の心を、優しく引き剥がしていった。 武の胸に瞼を押し付けて、澪月が肩を震わせる。武の暖かな手は、澪月の背中で緩く組まれている。澪月の耳元に、武の鼓動が聞こえる。しずしずと流れ込んでくる宵闇が、繭のような優しさで、重なる鼓動を包み込んでいた。
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