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 ―― 時をさかのぼること五年。宝徳元年。 〝しかる程に、我が道を得んと願うなら、桜の皇子みこたずそうらへ〟  それはある夜の夢枕。夏も間近の、梅雨の終わり。目にも鮮やかな朱赤色しゅあかいろはかまをまとった伎芸天ぎげいてんが、うたうように告げた。  京の都の外れ、滔々とうとうと流れる宇治川のほとり。水墨画に天賦てんぷの才を認められた揚知客ようしか周防すおうの守護大名、大内氏の別宅で暮らしていた。  芸能芸術に造詣ぞうけいの深かった大内氏が、揚知客と初めて逢ったのは、将軍の御供おともで訪れた相国寺でのことだった。  当時、室町幕府の御用絵師、天章周文てんしょうしゅうぶんに師事し中国絵画の模写を主だった修練としていた揚知客は、師匠と自身の画風の違いに悩み、自分にとっては架空でしかない風景を描き続けることに限界を感じ始めていた。それを察した大内氏は、都の中心から離れた宇治に別宅を設け、揚知客を庇護する。けれど、大内氏の庇護は、束の間の安穏を与えはしたものの、揚知客の苦悩が晴れることはなかった。  絶対主君を持つ都の息苦しさから逃れ、民衆の混沌からも離れ、それでも揚知客の手にかつての才気は戻らない。迷いながらの絵筆は、揚知客の画を日毎に曇らせていく。  当代随一のほまれ高い周文の元を離れ、自分は何をしようと言うんだろう。いったい自分は何を目指し、何処へ行こうとしているのか。繰り返される自問自答に、答えは返らない。画紙に向かうこともできないまま、時だけが無意味に過ぎていった。  そんな折の夢枕。季節外れの、桜花爛漫おうからんまんの夢。揚知客はわらにもすがる思いで、桜の聖地、吉野へと向かった。  幾重にも山が連なり渓谷けいこくへだたれた吉野の里は、険しい山道の彼方かなたにあった。  春のよいには全山を埋め尽くしていたであろう桜の花が、今はひっそりと静まり返り、薫風くんぷうは青葉のさざめきだけを乗せて流れる。ふもとの村を過ぎ、下千本、中千本、そして上千本。吉野の里の、奥の、奥。奥千本のそのまた奥で、若草萌える初夏の息吹が瞬時、途切れた。  鬱蒼と茂る樹木の陰が、にわかに開け放たれた渓谷。深い谷底に向って流れ落ちる滝の水飛沫みずしぶきが、薄紅に染まっていた。そして、花散る色に煌めくかげろいの向こうに、今がさかりと咲き誇る桜の大樹があった。  時忘ときわすれの花は美しく、清々すがすがしい香りが、辺りいちめんにひろがっている。  季節外れの爛漫らんまんの光景は、歩きづめで疲れ切った揚知客の、目にも心にも沁みる。ほとんど夢見心地でふらふらと、桜の大樹に近づいた。 「誰や?」  不意に足元から細い声が聞こえて、揚知客のあゆみが、びくりと止まる。はっとわれに返って、天を仰いでいた視線をおろす。  揚知客の瞳に、膝を抱え、小さくうづくまる少年が映る。  狩衣姿かりぎぬすがたの少年は、武器どころか、手荷物ひとつ持っていない。秘境の谷にはあまりにも不釣り合いな身軽な姿に、揚知客が首を傾げる。思わず伸ばした指先に、少年は視点のともなわない瞳のまま、震えながら首を振った。 「さわらんといて……」  花影はなかげに溶け込んでしまいそうに細い声は、明らかな怯えを含んで震えている。  おとがいそろえられた亜麻色のはなち髪が、さらさらと桜香おうかに揺れていた。ほんのりと桜色に染まる白い肌に、ふくよかな唇が熱を持ったように紅く色を落としている。黒目がちな瞳が、視界を磨くようにパチリと瞬いた。牡丹色の袖露そでつゆつややかな浅葱色あさぎいろ狩衣かりぎぬに薄紅色の単衣ひとえの姿は、まるで桜の化身けしんのようだった。  その美しさに、一瞬瞳を奪われた揚知客が、伸ばしかけた指先を握りこみ、少年の目線にあわせてその場にひざまづく。 「ともの者は? 近くに誰かいるのか?」  その問いかけに、少年の身体がぶるりと震え、次の瞬間、あやしい光りが少年を包み込んでいった。 「あっ……、あぁっ!」  自らが放つ光りにつらそうに身をよじらせる少年に、揚知客は魔除けのためにと持ち歩いていた水晶の数珠じゅずを取り出し、きょうを唱え始める。揚知客に向けられる、瞳の視点は定まらない。深く浅くと瞳が揺らぐ。音階を踏みながら数珠を握らせると、震える指先が揚知客の手にしがみついてくる。冷たく凍えた指先がぽろりと落ちて、少年は揚知客の胸にかっくりと倒れこんできた。 〝その童子どうじ唯人ただびとにあらず。されど物の怪もののけにもあらず。さてさて聖人しょうにん如何いかがされる?〟  伎芸天の楽しげな言問ことといが、花霞はながすみに溶けていく。 〝われ、聞きたまいし言霊ことだまの、桜の皇子みこにあらせられるか?〟  揚知客の問いに、応えはない。  けれど、供の者も見当たらない秘境の地に、意識を無くした少年をそのまま捨て置くわけにもいかず、揚知客は少年を抱いてその場を後にした。  しんしんと、桜の花びらが散っていた。伎芸天の密やかな笑い声が、花散る里に木霊する。桜に愛された落人おちうどの里を、音もなく散る花びらが、埋めていた。  ところ変わって、宇治の館。  ひとり取り残された従者じゅうじゃ長倉は、何処どこへとも告げず、ふらりと旅立ってしまった揚知客に寂しさを覚えながら、必ず戻ってくると信じて宇治の館を守っていた。  そして、時は過ぎ、頃は秋。菊花きっかの夕べ。  澄み渡る空に香りたつ、黄菊白菊きぎくしらぎく、秋の露。待宵よいまちの月明かりに照らされた木戸が、キシリと鳴った。その微かな音に慌てて門を開くと、其処そこには待ちわびた人が立っていた。 「揚知客様!」  当たり前に、いつものようにと言い聞かせながらも、長倉の声が震える。 「御帰おかえりなされませ」  深く叩頭こうとうする身体までが、小刻みに震えだす。溢れ出ようとする感情をごくりと飲み込んで、なんとか笑みを作った長倉の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。その濡れた瞳に、揚知客の胸が熱くなる。  長倉は、まだ相国寺にいた頃からいつもこうして、ただじっと揚知客の傍にいた。長倉の控えめな気遣いは、揚知客の感傷を優しく癒していた。けれど、その想いを口にしたことはなかった。今回の旅立ちも、何も知らない長倉にしてみれば、薄情な行為だったろうと思う。打ち捨てられたと落胆し、この地を後にすることはいくらでも出来ただろうに、長倉は責める言葉はもちろん、問うことさえしない。 「心配……、かけたな」  ふわりと笑んだ揚知客の表情に、長倉の涙がぽとりと落ちる。 「いいえ、いいえ。ご無事ならそれで充分です」  涙は、嬉し涙だった。  ずっと見ることの出来なかった揚知客の優しい笑み。それは貼り付けたような、その場限りのつくり笑いではなかった。その笑顔だけでこの旅が、揚知客にとって必要なものだったのだと納得できる。たとえそれがほんのわずかな一歩だとしても、揚知客が前に進めたのなら、長倉にとってそれ以上に嬉しいことはなかった。  泣き笑いの表情を隠すようにたもとでグイと涙をぬぐった時、長倉は揚知客の腕の中ですやすやと眠る、美しい童子どうじの存在にはじめて気づいた。 「……その御方おかたは……?」

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