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 暗闇から表れ出た人相の悪い男たちは、澪月たちのわずかな荷物を投げ散らかしていた。 「しけた奴らだぜ。金になりそうなものひとつないぞ」  夜盗やとうの一人の不満気な言い分に、別の男があごをしゃくって澪月を指す。 「まぁ、そう言うな。みろよ、この小僧」  夜盗たちの視線がいっせいに、瞬きひとつ出来ずにいた澪月に向けられた。 「たしかに、すっげぇ上玉じょうだまだ」  品定めする目の、舐めるような動きに、けっけっと、野卑やひな笑いが重なる。 「とんだ拾いもんだ。こりゃ、高く売れるぞ」  途切れた思考が、瞬時に危機を察して、澪月は闇の中へと駆け出した。 「逃げ切れると思ってるのか!」  遊び半分に、ニヤニヤと笑いながら、夜盗たちが澪月を追いかける。闇に慣れた夜盗たちは、瞬く間に澪月を追い詰め、大木を背に身動きひとつ出来なくなった澪月を取り囲んだ。へっへっへっと、下卑げびた笑いが闇に不気味に響き渡っていく。  自分は此処で、この夜盗たちに、捕まってしまうんだろうか。だとしたら、何のために、この辛い旅路があったんだろう。何のために、自分は生きて此処まできたんだろう。いったい、なんのために……。  答えのない問いを繰り返し、涙で視界がゆがんでいった。そのゆがんだ視界に、夜盗の手が映りこんだ。 「さわるなッ!」  叫んだ瞬間、自分の身体が異常な熱を持って、発光した。炎の中に身を投じたような焦げつく衝撃に、意識が翔んだ。  一瞬の、空白。  気づいたときには、ねっとりと絡みつく臭気の中に、ぽつねんと座りこんでいた。シンと静まり返った森の中。動くものは、何ひとつなかった。鈍く痛む頭を抱えたまま、ゆるりと動かす膝の上から、何かがころんと、転がり落ちた。自分が後生ごしょう大事に抱えていたそれは、けたけたと笑っていた、夜盗の首だった。 「ヒッ!」  ぎょっとして、後ずさる掌がぬるりと滑る。辺り一面を浸す血の海に、ぽつぽつと散らばる白い欠片、それは、かつては人であったはずの、手や、足や、首だった。 「あっ……、あ……」  灯りひとつない深更の闇をものともしない、自分の目が映しだす惨劇に、身体ががくがくと震えだす。  じっとりと血に濡れた身体。真っ赤に染まった手は、白い肌を全て、覆い尽くしている。  ―― 俺が、……殺ったん、か?  爪にまで沁み込んでいる血が、澪月を心底怯えさせる。誰もいない闇が、まるでその問いかけに答えているようで、呻くような声が、ぶるぶると絞り出される。くぐもった咆哮ほうこうが、狂気をはらんだ叫び声に転じようとしたその刹那、口元が、目頭が、何かに覆われた。眩みだした視界が、真っ白にかわり、そして暗転。自分の身体の一部が抜け落ちていくような感覚に、澪月はぎゅっと瞼を閉じた。  閉じた瞼の裏で、ゆうるりと世界が回っていた。自分の身体が、何処へともなく飲み込まれ、澪月の目の前から、ありとあらゆるものが、忽然と消え去っていった。  何が起こったのか、今もわからない。自分が何をしたのかも、まるで憶えていない。けれどあの場所で、生きていたのは自分だけだった。自分だけが血溜まりの中でうごめいていた。 「俺は、まともやない……。あんたらのことやって、どうするかわからんで」  自嘲気味に言い捨てて、澪月がひんやりと笑う。けれどその瞳は、哀しげに潤んでいる。今また、かっくりと落とされた肩に、捲り上げられた夜衣がさらりと落ち、白い腕を隠す。桜色の衣は、まるで澪月を守ろうとするように、小さな身体を包み込んでいた。 「澪月は……」  やわらかく名前を呼ばれて、俯く視線がちらりと動く。 「私が唱えた経は、苦しかった?」  潤んだ瞳が、僅かに眇められる。 「握らせた数珠は、痛かった?」  ゆっくりと、瞼を伏せる。 「自分がわからないと言うなら、わかるまでいればいい」  澪月が、ふっと笑う。 「わかった瞬間、あんたらの寝首、くかもしれんで」 「それはない」  澪月が嘲るように放った言葉を、揚知客はぴしゃりと否定する。否定された瞬間、澪月の瞳がきらりと赤く閃き、揚知客を睨みつける。 「あんたに何がわかるんや! 俺が何してきたか、なんも知らんくせに、勝手なこと言わんといてや!」  それは、吐き捨てるような言葉だった。  拳をぎゅっと握り締め、澪月はわなわなと震えている。それでも揚知客の瞳は、水を打ったような静けさを失くさない。その冷静さに苛立つように、澪月の赤く変わった瞳が、ぎらぎらと闇に浮かぶ。頤を上向け、澪月は紅をはいたような口の端を、きゅっとつり上げる。幼く、あどけなささえ残す面が、それだけで妖艶さをおびる。自分の正面に端坐する揚知客にそろりと近づき、しんなりと指先をあげる。  桜を模したような、薄紅の衣。そのなめらかな袖が、揺れる。片手をしとねにつき背筋を撓らせ、艶めかしい仕草で、揚知客の首筋近くまで指を伸ばす。 「なぁ、俺、素手で人殺せるんやで。刀もなんもいらんねん」  笑おうと、澪月は笑おうと、思っていた。 「それでも、まだ……」  けれど瞳は既に、何もかもをはねつけようとする、尖った煌きを失くしていた。 「一緒に暮らせる、……言うんか?」  澪月の、今はただ潤むだけの瞳をじっと見つめたまま、揚知客は身じろぎもしない。今にも首筋を引き裂かれそうな距離にいながら、ただじっと澪月を見つめ返す。  澪月の全てを、自分は知らない。澪月が「殺せる」と言うのなら、それも本当かもしれない。そう思いながら、けれど「殺せる」と言いながら哀しげに瞳を潤ませる澪月に、恐れよりも何よりも、哀れさが先にたつ。 「なんで、なんもせんのや?」  澪月の、言葉尻が震える。 「なんで、逃げんのや?」  抵抗してくれと、懇願するように。 「あんたは、殺されたいんか!」  叫ぶように言いながら、その声音には、涙が滲んでいた。  怒りではない、もっと激しい何かを爆発させて澪月は震えていた。言いたくない、認めたくない何かを吐露しながら、自分自身に怯えるように。哀しみばかりが濃くなっていく澪月の瞳の色に、揚知客の中で何かが噛み合わさる。  ―― 唯人にはあらず。されど、物の怪にもあらず。  技芸天の、歌うような言の葉が、揚知客の思いに重なる。  澪月は自分をわかっていない。きっと、なにひとつ。自分の姿を嘲りながら、自分が何ものであるかは、少しもわかっていない。もちろん、揚知客自身、澪月が何ものであるのかは知らない。けれど澪月が言い捨てる、言葉の端々についてまわる違和感は消えない。すぐにも壊れてしまいそうな繊細さを持って、折れそうに華奢な肢体で「殺せる」と言い張る。それがどんなに痛々しく他人の瞳に映るか、それすら気づけずにいる澪月は、投遣りなほど残酷に自分に言い聞かせている。自分は「悪しき者」なんだと。  薄闇に浮かぶ澪月の、透き通るように白い面。伸ばされた指先も、寒々しいまでに白く儚い。赤い妖光が消えた瞳は、灯火を映して蜜色に染まっている。 「……死にたいのは……」  その瞳を見つめながら、揚知客が、静かに、静かに、言葉を紡ぐ。 「澪月? おまえ自身じゃないのか?」  瞬時に表情を強張らせる澪月に、揚知客はさらに言葉を繋ぐ。 「澪月には、殺せない」  その言葉に、確信はなくても、 「澪月は、誰も殺せない」  今、目の前にいる童子どうじが、自分を殺せるとは、とても思えない。 揚知客の言葉を肯定するように、向かいに座った長倉も、ぴくりとも動かない。もしもこの場に殺気があったなら、すぐにも澪月を押さえつけるだろう長倉が、ただじっとふたりのやりとりを見つめている。 「もしもその手が、誰かを殺したと言うなら、私を引き裂いて見せればいい」  告げる言葉の意味とは裏腹に、揚知客の声音は、穏やかに闇に溶けていく。  揚知客の逸らされない瞳に怖じけるように、澪月の瞳が揺れる。引き裂けと言われながら澪月は、どうすればいいのかわからない。伸ばされた指先が、ちりちりと震える。ひっそりと動きを止めていた揚知客の眼差しの色が深まり、白い指先がたゆたうように揺れる。その揚知客の、水が流れるようになめらかな動きに、澪月は虚をつかれたように見入っていた。敵と対峙するにはあまりにも無防備に、澪月は揚知客の指先を見つめていた。  そっと上げられた指先が自分の指先に触れた段になってはじめて、澪月の身体が驚いたようにびくりと跳ね、揚知客の指先を払う。その弾みで、澪月の身体が揚知客から離れる。けれどもう澪月には、揚知客に詰め寄るだけの意気地はなかった。胸元で指先を握りこみ、震える身体を宥めるだけで精一杯だった。 「澪月は、誰も、殺していない」  澱みない揚知客の声音に、澪月の瞳が瞠られる。じっと見つめる揚知客の視線に縛られたように、澪月は動けなかった。「何も知らないくせに」と否定したい言葉が、喉元に詰まって、出て行かない。静まり返った空間に、露を含んだ風が、音もなく忍び込んでくる。 (この人は、何を言ってるんだろう……?)  澪月が当惑したように、ゆうるりと小首を傾げる。癖のない亜麻色の髪が、さらりと風に揺れる。 (この人は、……何も知らない。でも……、)  幾つもの幻夢がまた、澪月の意識を過る。そのほとんどは、意味の成さない光りと色彩の奔流だった。ぐつぐつと煮えたぎるような熱を持った荒波に、ともすれば息苦しさで拡散しそうになる意識を、澪月は必死に集中させる。留まりようもなく走り出す記憶。封印を解いて逆行する光景は、澪月の脳裏を鮮やかに駆け抜けていく。 (俺が、……殺ったんか?)  誰にともなく、問いかけていた。 (俺やない!)  心が、叫んでいた。 (俺やないんよ!)  必死になって否定する自分が、からからと空回りしていた。  真実は闇の中。残されたのは、血潮に濡れた、じっとりと重い身体だけ。  だから、自らが手を下したのだと、そう思わざるをえなかった。自分はもともと、普通ではなかったから。  でも、思い出せるのは、殺戮さつりくの後だけ。その瞬間の記憶は、今もない。けれどあの時、あの瞬間、誰が、自分以外の誰が、あの惨事を引き起こせるだろう。その瞬間を、自分は欠片も思い出せない。その、思い出せない全てが、澪月は無性に怖い。自分自身の覚束おぼつかなさに、何もかもが壊れていく。 「やけど……、やけど、俺、……まともやない」  ゆるゆると首を振りながら、澪月が呟くように言う。苦しげに、切れ切れに、胸の中で膨れ上がるばかりの感情を、押し出すように。強く否定するはずだった言葉が、酷く情けない、震える声に取って代わる。 「でも、澪月は「物の怪」じゃない」  はっきりと言い切る揚知客の言葉に、澪月がぴくんと息をつめる。 「もしも「あやかし」なら、あの数珠は握れない。経は痛みにしかならない」  あの、桜の根元。焦げつきそうな熱に取り込まれて、息さえ止まりそうだった、あの時。灼熱に焼かれる皮膚とは裏腹に、身体の芯はぞくぞくとした悪寒に浸されていた。湿った身体はじっとりと重く、指先ひとつ満足に動かせなかった。そのなにもかもが、揚知客が唱える経にゆるやかに凪いでいった。  思い当たる何かを見つけて、澪月がゆらりと瞳を泳がせる。薄く開いた唇が、物問いたげに震える。そんな澪月を見つめる揚知客の眼差しに、やわらかな笑みが浮かぶ。 「たとえ澪月が人と違った力を持っていたとしても、それは決して「悪いもの」じゃない」  どんなに問いかけても、見つからなかった答え。どんなに否定したくても、否定する相手さえ見つけられなかった闇の中。 (俺が、……殺ったんか?)  あの記憶の場所に、答えはなかった。 (俺やない!)  どんなに叫んでも、答えは見つからなかった。けれど今、揚知客の言葉が、その答えの代わりのように、澪月の胸に届く。  澪月の瞳は、今はただまっすぐに、揚知客に向けられていた。揚知客の言葉を求めて、自分を納得させてくれとねだるように。 「一緒にいる理由が欲しいなら、帰る場所がないもの同士で良いだろう?」  出逢いのその時から、ずっと変わらない、優しい声音。 「私も長倉も、この身以外、何もない」  この人は、自分を傷つけたりしない。どうしてそう思ったのかは、今もわからない。けれど、その胸の内にあるだけの不確かな思いを信じたくて、澪月が縋るような瞳をする。その瞳に、揚知客が笑いかける。それは、冷え切った肌にぬくもりを滲み込ませるような、暖かな笑みだった。 「だから、一緒に暮らそう」  深い傷を負ったままの心で、ひとりで生きるのは寂しすぎるから。 「何も、話さなくていいから」  せめて、その心の痛みが、薄らぐまで。  今にも泣きそうに潤んだ瞳が、ふいと逸らされる。力一杯握り締めた拳が、震えている。 「……なんで……」  こくりと喉を鳴らして……、 「……なんで……、なんも聞かんのや?」  澪月が、搾り出すように、問いかける。 「聞く必要はない」  揚知客の躊躇いのない応えに、澪月は言葉を失う。 「澪月は、きっと、桜に魅入られたんだよ」  どこかうっとりと、揚知客が言う。 「澪月は桜の木の、根元にいた。まるで今しがた、生まれたみたいにね」  淡く笑んだまま、続ける。 「その木は、里の人たちに天人桜てんにんざくらと呼ばれている木だった」  それは桜の里、吉野の中にあって、もっとも長寿の老木と言われている、枝垂れ彼岸桜。 「桜の神木が、澪月に寄り添っていたんだよ」  ゆっくりと言葉を紡ぐ揚知客を、澪月は瞳を大きく瞠ったまま、見つめていた。そして、その瞬きを忘れた瞳から、ぽたり、ぽたりと、透明な雫が溢れ出す。その雫は、すべらかな頬を伝い、細いおとがいを辿り、震える拳に零れ落ちる。 「……俺……」  ぽたぽたと涙を零しながら、澪月は言葉を飲み込む。唇を噛み締め、両手で顔を覆い、しとねに突っ伏す。白い褥の真中で、一輪の桜が、かたかたと小刻みに震える。薄紅の袂に頬を埋めて、小さく小さく縮こまって震えている。 「もう、大丈夫だから」  幼い仕草で泣く澪月の頭を、そっと撫でる。 「もう、何処にも行かなくていいから」  優しい言の葉が、この上もなく甘やかな声音に乗せられる。 「澪月は今、生まれたんだよ」  遠い記憶。近い記憶。幾多の記憶に紛れ込む、沢山の哀しみ。  あまりに早すぎた時の流れの中に、澪月の心だけ、おいてきぼりにされていた。心が何かを知る前に物事は流れて、何もかもがただ、通り過ぎていった。  父母を殺された寂しさを、慰めてくれた乳母めのと夫婦。その乳母めのとを切り裂いた、夜盗たちの群れ。乳母まで失った絶望的な孤独を、思い返す余裕さえなく見せ付けられた惨劇。怖くてたまらなかった、夜盗たちの下卑た笑い。血まみれだった自分の身体。ぬるりとした感触に、身体中が粟立った。  けれど今、揚知客の言葉が、澪月を泥濘ぬかるみの中から救い上げようとしていた。  ―― 澪月は、誰も、殺していない。  その言葉に、確信なんかなくても。  ―― 澪月は、桜に魅入られたんだよ。  その言葉を、信じることは難しくても、今は、今だけは、その言葉に縋らせて欲しい。今だけでいいから。  旅立ってからずっと……、ずっとずっと怖かった。何もかもが哀しかった。でも、そうと認めてしまったら、もう一歩も動けなくなる。だから、絶対に泣くものかと誓っていた。でも、でも、本当は……。  堪えに堪えていた、熱い塊が、やっと澪月の胸の中から搾り出された。  ―― 母上  もう、我慢することはない。  ―― 父上  自分はもう、あの国には帰らない。心をだまして、人々をべる必要もない。  ―― 母上、……父上!  何もかもが流れていく。小さな身体から、何もかもが、押し流されていく。  ―― 澪月は、今、生まれたんだよ。  泣きながら眠りについた澪月の、夜具やぐを整える長倉の前で、揚知客は明けはじめた空を眺めていた。薄墨を刷いたような空が、ゆっくりと淡い藤色に変わっていく。朝の、透徹とうてつとした風が、ひんやりと流れ込んでくる。 「……今日も、いい天気になりそうだね」  一夜の慌しさが嘘のように静かな声音で、揚知客がぽつりと問いかける。 「そうですね」  同じように、秋の空に視線を移し、長倉が応える。  まろやかな稜線に、徐々に赤みがさしてくる。遠くに見える山並みが、澄み切った風に染まるように、蒼へと変わっていく。冷たい空気を暖かな色に染めるのは、目覚めたばかりのやわらかな陽光。あるかなしかのさやかな風が、ふたりの頬を優しく撫でていく。  揚知客の故郷は遠く、備中赤浜びっちゅうあかはま。長倉は、常陸国部垂ひたちのくにへたれ。  互いに幼い頃の出家とともに、帰る家は失くしていた。ふたりとも、故郷に帰る望みは持っていなかった。  多くを語らない揚知客の横顔を、黙ったまま見つめながら長倉は、久しく思い返すことのなかった故郷に想いを馳せる。 (私には、澪月様の痛みがわかる。奇異な瞳で見られる苦痛を、……私は知っている)  心の中で呟いて、長倉は目の前で眠る澪月の前髪を、優しく梳く。  初めて逢った時から長倉は、澪月の薄茶の髪に、遠く忘れかけた記憶を揺すられていた。剃髪ていはつしてからは忘れたつもりでいたけれど、長倉も澪月と同じように赤茶けた髪をしていた。そしてその髪は、どんなに梳いてもまっすぐになることはなかった。そんなかつての自分に比べれば、澪月の容姿は多少色素の薄さを感じても、それほど奇異なものではなかった。むしろ美しさの方が、余程際立っていると、長倉は思う。けれど、それを言ったところで、なんの慰めにもならないだろうことも、長倉にはわかる。ほんの少し人とは違うというだけで、爪弾きされる痛みを、長倉は知っていた。  幼い頃、同じくらいの歳の子達と遊びたくても、誰も相手にしてくれなかった。「狐の仔」とはやし立てられ、石を投げられたこともあった。父も母も、嫌ったこの姿。武士の家に長男として生まれながら、出家せざるをえなかった。誰ひとりとして、長倉を跡取りと推挙すいきょする者はいなかった。  自分に対する失望は深く、心はどんどん荒んでいった。誰の言葉にも素直に頷けない、卑屈な笑みを返すだけの長倉に、誰もが背を向けた。けれど、揚知客だけは違っていた。ひとりぽつんと寺の隅で草花を写生する長倉に、時折親しげに声をかけてきた。そんな揚知客が、独り言のように呟いた言葉。  ―― 本当の哀しみは、他人には言えない。  珍しく言葉を言い切る揚知客に、長倉は俯いたまま耳を澄ませた。  ―― 人は誰でも心の奥底に、誰にも言えない痛みを持っている。  ちらりと視線を向ける長倉に、気づかぬ素振りで「それでも」と、続ける。  ―― 私たちはうつつにいるかぎり、その痛みから目を逸らすことは出来ない。  揚知客の言葉の何かが琴線きんせんに触れて、長倉が顔を上げる。  ―― 生きるとは、辛いことだな。  思わず視線を向けた長倉に、揚知客は微笑みかけた。まるで「お前も、そう思わないか?」と口にせず、問いかけるように。  何が心に触れたのか、それは今でもわからない。ただ揚知客の言葉だけは、不思議なほど素直に聞くことが出来た。決して押し付けることをしない澄んだ音色は、長倉の胸の奥深くまで沁み込んできた。ずっと長い間、自分をどうしていいのかわからずにいた。誰もがいらないというこんな自分が、どうして生きていなければいけないのか、わからずにいた。その胸にしこった冷たい疑問に、揚知客の言葉は触れた。  だから、生きてみようかと思った。この人の隣なら、生きられるかもしれないと。いつの日か、自分が生きて此処にある意味を、知ることが出来るような気がして……。  薄蒼い、氷を張ったような朝の空が、錦の色合いに染まりつつある山々を見下ろしていた。  天空から降りそそぐ陽光が、透き通った軌跡を描いて、山々を照らし出す。静寂を揺らしたのは、名前も知らない小さな小鳥。パシリと微かな音をたてて、小枝を弾いて飛び立った。  朝露が、散る。葉に残る朝露が、小鳥の羽根に砕け散る。陽光を集めて七色に煌めく朝露が、澄み切った空に、銀の粒を撒いていく。  夜が、明ける。長く陰鬱いんうつだった、夜が、明けていく。

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