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 春は弥生。  桜の開花は、春まだ浅い宵のうち。ふっくらと膨らんだ蕾がひらひらと、闇に雫を零すように花開く。暗闇にふうわりと浮かびあがる花々は、風に揺れ、静けさをまとってゆらめく。影もおぼろの、花の闇。仄白ほのじろかすみの底で、何かがしんと息を潜め、生あるものを見つめている。  時は室町。  平安の風雅が色濃く残る貴族文化と、質実剛健な鎌倉文化が融合し、日本文化のいしずえが花開く頃。盛者必衰のことわりを嘆く平家物語や、今は昔と語られる口承文芸。昔語りの主人公は、時に不思議な力に守られていた。けれどその神秘のすべうつつには溶け込めず、異形のものとして恐れられていた。  ―― 享徳三年。宇治川のほとり。 「澪月みづき様」  冷たい夜風に、慣れた声がのる。 「澪月様」  さわさわと鳴る、葉ずれの音を掻き分けながら。 「なんや」  ぶっきらぼうな声が、空から降って来る。 「何処どこにおられるんですか?」  声の方角を探るように、視線がめぐる。 「お前の上」  見上げる其処そこは、大きな松の木の根元。澪月は天辺近くの細い枝に腰掛けて、足をぶらぶらと宙に泳がせていた。 「気づいてたんなら、すぐに返事してくださいよ」  溜息交じりの抗議の声。 「気づかんかったもん」  暮れかかる空を見上げたまま、澪月がしれっと応える。 「嘘ですね。私が必死になって探してるの、また楽しんでたでしょう?」 「んなことせんよ」  諦めたように肩を落とす長倉に、澪月が悪戯っぽく笑いかける。  夕暮れ時になると、自分を迎えに来てくれる長倉が、澪月は好きだった。名前を呼ばれると、なんだか自分がとても大切なものになったような気がして、胸がほっこりと暖かくなる。だからいつも聞こえないふりをした。何度も呼んで欲しくて。ずっと探し続けて欲しくて。 「降りて来てください」  長倉が、大きな身体で両手を広げる。枝先に、すっと立ち上がった澪月が、薄い水干すいかん陽炎かげろうの翅のようになびかせて、長倉の腕めがけて飛び降りてくる。最初の頃こそ面食らった長倉も、今では慣れたもので、当たり前に澪月を受け止める。小柄な身体が、長倉の腕の中にすっぽりと納まる。 「また裸足で……」 「やって、庭から出たんやもん」  長倉のたしなめにそっけなく応えて、澪月が長倉の腕から離れる。振り分け髪が肩先で揺れながら、薄紅に染まる頬にかかる。松の枝葉が離れ難くするように、澪月の髪に留まっている。その枝葉を優しく払い、長倉は膝を落として澪月の顔を覗き込む。 「揚知客ようしか様がお待ちですよ」 「なんで?」 「もう夕餉ゆうげの時刻だって、ご存知でしょう?」 「あっ、もうそんななんか」  あっけらかんと応える澪月が、本当に気づいていないのか、わざと忘れたふりをしているのか、長倉にはわからない。ちょっと疑ってはいるけれど、澪月を前にするとどうしてか、責める言葉を口に出来ない。それよりも夜露よつゆに濡れる素足が可哀想で、長倉は澪月をすっと抱き上げる。 「なっ、なん?」 「裸足のままじゃ、歩かせること出来ないでしょ」 「えっ、いい。平気や」 「ダメです」 「やって、いつものことやん」 「そのせいで風邪をひいちゃったのは誰でしたっけ? また同じことをしたら、揚知客様に叱られますよ」 「……告げ口、するんか?」 「澪月様が大人しくしてくれたらしませんよ」  長倉の言葉に、ぷぅっと頬を膨らませ、紅い唇を尖らせる。不満げな表情をしながらも、澪月の腕が長倉の肩に回される。  細いおとがいを包み込む、亜麻色の髪。まげを結う為に伸ばしたくても、時を止めた少年の髪はいつもそのままだった。何年時が過ぎようとも、少年は細い肩のまま、少女のように高く透きとおった声で話す。過ぎる時の中で黒蜜色くろみついろの瞳だけが、大人の憂いを得て寂しげに揺れていた。

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