時の足音は、葦の葉のこすれあう音のように、かそけく響く。人の欲望や野心に、京という都が闇色に塗り固められていく。絢爛と咲き誇る花は、滅びの予感に、熟れきった花弁を散らしはじめていた。 「申し、誰ぞおらんか?」 大内氏の従者に休みを取らせていたその日、都からの使者が宇治の館の門を叩いた。木戸を開けた長倉を、舐めるように見上げ、使者が問いかける。 「某は院の使いで参った者じゃ。この館に、怪我をした猿楽者が逗留していると聞いたが、その者はおるか?」 勧進能の際の捕り物劇を思い出した長倉が、瞬時に笑んで見せる。 「いいえ。この館に、そのような者はおりませんが」 抜け目のなさそうな視線が、館の奥へと注がれる。 「こちらは周防の守護大名、大内氏の別宅と聞いておるが、間違いないか?」 「はい」 「隠し立てすると、大内氏にも咎がかかること、承知の上であろうな」 「隠し立てもなにも、本当に存じ上げませんが」 毅然と言い切る長倉に、使者が僅かに怯む。その隙を突いて、長倉がずいと詰め寄る。 「院からの使いであれば、それ相当の書状を御見せ願います。そうでなければ、此処より先、踏み入る事は許しません」 後ずさった使者に歩を進め、長倉が後ろ手で門を鎖す。ガンと閉じられた門の前で、使者が悔しげに口を開く。 「近場の薬師が、左足に深手を負った芸人をこの館で診たと言っておったぞ。その者は、本当に居らんのか?」 「ですから、館改めなら、正式な書状をお持ちくだされ。この居は大内氏のもの。私どもの勝手には出来ません」 ちっと軽い舌打ちの後、使者が憎々しげに言い放つ。 「では、正式な書状をお持ちしよう。その際には、一切の口出し無用と心得よ!」 言ってひらりと駒に跨る使者が遠ざかるのを確認し、長倉は門戸を閉め、閂を下ろす。ふーっと大きく一息吐いて振り返ると、其処には険しい瞳をした武が立っていた。 「……武、様」 「今のは、院のお使いなんやて?」 問いかける声音の強さに、長倉が言葉を飲み込む。 「隠さんでもええよ。俺を探してるんは、院の血族や。やけど、院の名前を使うなんてな。何考えとるんやろ」 笑って言いながら、武の表情には諦めと落胆が浮かぶ。 「やけど、思ったより、時間は稼げとる。俺はもう、大丈夫や」 それでも、気丈に言って、長倉に背を向ける。 武のすぐ後ろには、門前の騒ぎに、戸口まで来ていた揚知客と澪月がいた。その姿を認め、武が力なく笑んで見せる。武の指先が、澪月の頬に伸ばされる。 「お別れやな」 「……なっ……」 「もう、此処には、おれん」 「なんでやねん!」 「このまま此処におったら、揚知客さんに迷惑がかかる」 庇護がなければ描けない揚知客たちの、足枷になるわけにはいかない。自分は此処を、離れなければいけない。 「俺ひとりやったら、どうとでもなる。都に近づきさえしなけりゃ、ええんやから」 「……嫌や! 武……。武が行くんやったら、俺も行く!」 咄嗟に口をついた自身の言葉に、澪月が瞳を瞠る。同じように瞳を丸くする武の瞳に、澪月は自分の心を映し見る。 澪月が嵌め込まれた、いびつに歪んだ器。その中で澪月は、自分の気持ち誤魔化し、自分を騙し騙し進んできた。 けれど、武を知った今、もうそんな生き方は、出来なかった。泣きながら生きるなんて、大事なこと全部に蓋をして眠ったように生きるなんて、もう出来ない。諦めばかりを積み重ねていたあの頃の自分には、もう戻りたくない。ただ生きるためだけに生きるなら、この生は、いらない。 澪月が振り返る。縋るような視線を、揚知客へと向ける。 「一緒に行きなさい」 一瞬の躊躇いもなく、揚知客が言う。 「揚知客さん……」 武が、息を飲み込むように呼びかける。 「俺、なんの恩返しも出来んままやのに、……澪月まで……」 揚知客や長倉が、澪月をどれほど大切に思っているか、それに気づけない武ではなかった。なのに自分は、その澪月まで奪おうとしている。けれどそうとわかっても、武に澪月を拒むことは出来ない。武にとっても、澪月は既に失えない、大切なものに変わっていた。 言いかけて項垂れる武に、揚知客が優しく笑う。 「武がいてくれたから、私はこの宇治の館にいられるんですよ」 「えっ?」 「大内殿がおっしゃってました。自分が絵や能が好きなのは、武のおかげだと。もしも武に出会わなかったら、私の気持ちはわからなかったと」 揚知客の言葉に、青みを帯びた武の瞳が、僅かに潤む。 「さぁ、追っ手が戻ってくる前に、これを持って行きなさい」 砂金の入った小袋を、澪月に握らせる。 「長倉、駒の準備を」 「裏庭におります!」 瞬時の間もなく、長倉が応える。既に鞍を携えた駒には、小さな荷物まで積まれている。 「有り合せの旅支度です。ほんとうに、足りない物ばかりだと思います」 長倉の言葉に、武が声もなく、その手を握る。 「揚知客さん」 涙声で呼びかけた澪月が、ぎゅっと揚知客にしがみつく。揚知客の手がぽんぽんと、いたわるように澪月の背を叩く。先に駒に跨った武の足元で、今度は長倉にぎゅっと抱きつく。その澪月の腕を取って、長倉がいつものように澪月を抱き上げ、そのままふわりと、武の後ろに座らせる。 「揚知客さん、俺、きっと、また逢いに来るから。必ず来るから。待っててや」 「揚知客さん、澪月連れて、きっと遊びに来るから。皆が忘れた頃、必ず来るから」 代わる代わるの言の葉に、揚知客が応える。 「待っているよ」 駆け出した駒の姿が、薄の原に消えていく。 「……行ったか」 ぽつんと呟く揚知客の隣で、長倉はふたりの道行きを追いかけるように、遠くを見つめる。 「おまえは、行かなくて、良かったのか?」 静かに、やんわりと問われて、長倉が瞳にいっぱいの涙を堪えたまま応える。 「私は、揚知客様の御傍におります。……もしもお邪魔じゃなかったら……」 長倉の控えめな物言いに、揚知客が笑んで問いかける。 「澪月と、一緒に居たいんじゃなかったのか?」 「私が一緒にいたら、あの人は黙ったまま傷つきます」 泣き笑いの表情で、長倉が続ける。 「私が何も言わなくても、澪月様は御自分のことを、哀しいくらいわかっていましたから」 日毎に変わる風景に、溶け込めずにいる自分を。 「どんなに一緒にいたいと望んでも、いつか私があの人を置いていく日が、必ず来ます」 そしていつか、寂しい瞳をした澪月を、必ず哀しませる。自分は、ただ寄り添うことさえ許されなかった。澪月の傍で生きるために選ばれたのは、ただひとりだけ。 生まれた場所も年齢も、育ってきた環境も、何もかもが違うふたりが偶然に出会い、同じ未来を歩む。それはまるで、ふたりがふたりであるために、見えない手が必死で運命を微調整していったかのように、長倉の瞳には映る。 「いつか、もう一度、逢えるでしょうか……?」 その長倉の、僅かな期待を捨てきれない、涙を飲み込んだ言問いに、同じように遠くを見つめたままの揚知客が、夢みるように呟く。 「そうだな。……もしかしたら、……な……」
コメントはまだありません