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 色界しきかいの最上位、色究竟天しきくきょうてんより、欲界よっかいに食いつくような視線を送っていた伎芸天が、ほっと肩の力を抜く。 「恙無つつがなく……、か?」  大自在天の問いかけに、くるりとふりかえって、伎芸天がぷぅっと膨れる。 「こんなに手間がかかるなんて、知りませんでした」  不満げな表情の伎芸天に、大自在天が小さく笑う。 「其方は、母を知らないからな」  その一言に、伎芸天が大自在天にちろりと視線を投げかけ、ぽつんと呟く。 「母上……って、そんなに良いものなんですか?」 「人によるだろうな」 「ふ~ん」  母を持たない伎芸天に、澪月の哀しみは理解できなかった。  すぐに別れるはずの、ほんの一時の養い親に、桜が共鳴してしまうほどの哀しみが生まれるなんて、伎芸天には思いもよらないことだった。その最初の躓きから、伎芸天は未だに澪月の心の機微を掴み切れずにいた。  今は何も悩むことなんかないはずなのに。本当なら、もっと早く先に進まなくてはいけないのに。人の命には限りがあるのだから、少しの時間も無駄には出来ないのに。  そんなことばかり考えて、苛々と欲界を見つめる伎芸天を宥めたのは、大自在天だった。  ―― もう少し、待ってあげなさい。きっと時が、なにもかも良くしてくれるから。  大好きだった母上の、嫌悪に満ちた瞳。幼い胸をきしませた、異端いたんしるし。それは澪月の心に深く根ざしていた。そして、その記憶が揺り起こされるたび、澪月は澪月自身を否定してしまう。澪月には、むべきものと見下してしまった自分を、それでも必要だから此処に有るのだと、信じる力が必要だった。あっては成らないものだと焼き付けられた心では、これから先の、永い時を生きることは難しい。  滔々とうとうと諭された言葉を、ぼんやりと反芻はんすうしていた伎芸天に、大自在天が問いかける。 「託宣たくせんは、これで終わりなのか?」 「へっ? あっ、いえ、……あとひとつ」  不意打ちの問いかけに、伎芸天の返事が躓く。 「残りひとつか。では、そろそろ「ついうつわ」にお目にかかれるのかな?」 「あっ……、……はぁ……」  なんとなく曖昧な伎芸天の返事。  最初の教えの際、「依り代」は「対」で動かすようにと言ってあったにも関らず、今の今までその存在が見当たらないことを、大自在天は気にかけていた。 「なんだ。まだ見つけてないのか」 「いえ、見つけてはいるんですよ。見つけてはいるんですけど、な~んかひねくれちゃってるんですよねぇ」  胡坐あぐらをかいた片膝に肘をついて、思案げに言う。 「まぁ、でも、逢っちゃえば大丈夫ですよ。きっと」  ぴょんと背筋を伸ばして、行き当たりばったりなことを言う技芸天に、大自在天の眉がぴくりと動く。 「其方、まだ懲りてないのか?」  夜盗の件を思い出した大自在天が、きろりと技芸天を睨む。 「えっ? なにがですか?」  夜盗に対する所業しょぎょうについては、あの後こってりと絞られたはずの技芸天が、しらばっくれて問い返す。なんとも軽い技芸天の応えに、大自在天の表情がにわかに変わる。 「なにが? じゃないだろ! 其方がちゃんと見守っていたら、捻くれるはずないだろ! そもそもな、」 「だから今回は大丈夫ですってば。大丈夫、大丈夫」  このまま此処にいては、また大自在天の小言こごとにつかまるとばかりに、伎芸天がその場からポンと姿を消す。ふわりと消えてしまった伎芸天。後には大自在天の、大きな溜息だけが残された。

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