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 宵闇よいやみは、静かにさやけく、時をきざんでいた。珊瑚色のすぐり酒に映るのは、銀の穂先のような下弦の月。観月台に並ぶ和灯篭が、ゆらゆらと宴の席を照らしていた。  久方ひさかたの穏やかな空気に、普段ならそんなに飲まない揚知客も、楽しそうな大内氏に付き合うように杯を重ねていた。白瑠璃の器は、揚知客と大内氏の間を行ったり来たり。その度に浸される盃洗はいせんの水が、紅花べにのはなを絞ったように色付いていた。ほろ酔い加減の大内氏が、御簾みすの影からふたりの様子を窺っていた長倉を、目聡めざとく見つける。 「おい! そんなところで何をやってるんだ? お前も早くこっちにこい!」  斜向ななめむかいにある席を指差して、大内氏は子供のように手招く仕草をする。 「ただいま参ります!」  明るく応える長倉の隣で、桜色の水干を纏った澪月が、意を決して唇を噛み締める。 「大丈夫ですか?」  長倉の問いかけにコクンと頷いて、澪月は観月台の中央に向かって歩く。  和灯篭に映し出される薄紅の紗衣しゃぎぬ。若草色のひとえに結ばれたのは、濃緑こみどり胸紐むなひも袖露そでつゆ。可憐な面差おもざしに艶麗えんれいな笑みを浮かべ、澪月がさらりとその場に平伏ひれふす。 「先ほどは、失礼致しました」  観月台の中央にうずくまる、その姿はいとけない。 「知らぬこととはいえ、大変なご無礼ぶれいを申しました」  幼い容姿に不釣合いな事慣ことなれた仕草に、大内氏の視線がわずかにすがめられる。 「お詫びに、お目汚めよごしではございますが、舞を披露したく存じます」  静かな観月台をコトリと揺らしたのは、大内氏が白瑠璃を膳に乗せる音。自身の表情を隠すように扇を広げ、大内氏は扇の影から問いかける。 「……舞、とな」 「はい、お嫌いでなければ」  澪月の面が、ふわりと上げられる。  扇の上から除き見る大内氏の視線は鋭い。けれど澪月の黒目がちな瞳は、大内氏の強い視線に臆する事なく、まっすぐに向けられる。その真摯な、何かを必死に訴えかけるような蜜色の瞳に、大内氏の口元に、ほのかな笑みが浮かぶ。 「舞ってみろ」 「ありがとうございます」 「我は「西行桜さいぎょうざくら」を所望しょもうする」 「えっ?」 「季節はずれでも良かろう。その薄紅の衣に映える、舞が見たい」  そこで初めて澪月が、少しだけ戸惑った表情を見せる。  音合わせはしていない。長倉は「西行桜」も吹けるのだろうか。そんな不安を持ちながら、視界の端にいる長倉に視線を移す。すると長倉が、その不安を打ち消すようにゆっくりと頷いた。長倉の、任せろと言わんばかりの深い頷きに、澪月がもう一度その場に平伏す。 「主君しゅくんのお望みのままに」  澪月の涼やかな応えに、大内氏がパチリと扇をたたむ。ゆったりと脇息きょうそくにもたれかかり、観月台の中央に視線を据える。  群青の闇に、笛の音が高く鳴り響く。 〽あら名残おしの夜遊やゆうやな  笛の音に、透き通る声が乗る。 〽えがたきは時 会いがたきは友なるべし 春宵一刻値千金しゅんしょういっこくあたいせんきん  幼さを残す声が、白銀が散る宵闇よいやみに、玲瓏れいろうと木霊する。 〽花に清香せいこう 月に影 春の夜の 花の影より 明けめて  薄紅の雫が、風に舞う。優雅に優美に、夜を舞う。 〽待てしばし 待て暫し 夜はまだ深きぞ 白むは花の影なりけり    幽玄夢幻ゆうげんむげんの、観月の間。  細い腰にたなびくのは、薄紅の紗。  ひらひらと揺れるのは、若葉の袖。  藍の空に煌々こうこうと輝くのは、獣の爪した下弦の月。  消え入りそうな輪郭は、細く鋭利に夜空を切り取る。  差す手にたわむ、銀の雫。かざす手に舞い散る、金の雫。  月の雫に浸された金襴きんらん舞扇まいおうぎが、金と銀の雫を散らす。  きらきらとあやかな光が、藍の空に軌跡を残し、観月台に降り落ちる。  群青の夜のとばりの向こうに、あるはずのない爛漫らんまんの、桜の大樹が見える。  暗闇にふうわりと浮かび上がる、仄暗ほのぐらい精気を宿した満開の、桜の大樹が見える。  とどめ切れない想いを馳せ、澪月の瞳がみるみると潤んでいく。遠くを見つめる瞳が、消えていく何かに追いすがるように揺れる。  笛の音は、やんでいた。やがてこときれるように、小冠者こかじゃは空を見つめる。濡れて揺れる瞳を隠そうともせず、まるで糸が切れた人形のように、ただ空を見つめている。シンと静まり返る、観月の間。 「……澪月……様……」  長倉の声が、ためらいがちに躓く。呼んで、傍近くに行こうと腰を浮かせかけた長倉を止めたのは、扇が脇息をたたくパシリと小気味の良い音だった。 「堪能たんのうしたぞ」  舞の終わりを見切った大内氏が、あからかに告げる。大内氏の声に、ぴくりと肩を揺らし、澪月がその場に平伏す。 「艶やかでありながら品もある。其方そなたの歳でこれほど舞えるとは、恐れ入った」  「……身に、余る……お言葉……」  発した声は、震えながら途切れる。深く叩頭したまま、澪月の肩が小刻みに震える。 「舞は、よくやっていたのか?」  大内氏の問いかける言葉にも、澪月の面は上げられない。 「どうした?」  優しげな問いに返されたのは、澪月の掠れる声音。 「申し訳ございません。今一時いっとき、下がらせていただきとうございます」 「疲れたのか?」 「はい……、少々」 「下がってよいぞ」 「ありがとうございます」  搾り出すようにそう告げて、澪月は俯いたままその場を後にする。気遣わしげに見つめていた長倉が、その後を追う。  ―― ほんに澪月は、歌舞かぶが上手い。  ―― まこと、羽のようじゃ。  いつも、いつも、澪月の舞は宴の席で珍重ちんちょうされた。江口、羽衣、花月かげつに西行桜。数え上げればキリが無い舞の数々を、澪月は知っていた。さやかな風を受け舞う自身に、思い出は哀しく絡み付いてきた。  頬を濡らす雫が、止まらない。長倉の笛の音が、今も胸を叩いて涙が止まらない。泣いても何もかわらない。だったら、泣くなんて無様ぶざま真似まねはしたくない。ずっと、そう思っていた。今だって、そう思っている。なのにどうしても、涙を止められない。涙の理由は、わからない。泣くほどの寂しさも哀しみも、今は何処にもないのに、どうして涙が出るのかわからなかった。  足早に進めた歩の先には、この館で目覚めた朝、自分を映した水鏡みずかがみがあった。行く手をさえぎる池のはたに、唇を噛んで立ちすくむ。透明な水鏡を飾るのは、未だ中空に灯る下弦の月。微かに揺れる水面の上に、やわらかな光沢を煌めかせている。水に映る、今にも手が届きそうな天空の月。その鮮やかな幻を、見つめる。  幸せばかりではなかった。哀しいこともあった。そうわかっているのに、もう二度と戻ることはないという喪失感が、思い出を美しさばかりで塗り固めていく。その幻を恋しがる自分に、苦い笑みが込み上げてくる。 「泣いたって、しゃあないやんなぁ……」  ひとりごちて、おもむろに顔を洗う。ばしゃばしゃと、静かな庭に大きな水音。何度も何度も掌で水を掬い上げ、濡れた頬に打ち付ける。思いっきり首を巡らし水滴を払い、冷たくなった指先で残る雫を拭ったとき、さやかな風がついと頬に触れた。大きく息を吐いて、空を見上げる。まだ瞼に残る涙が、今にも滲み出ようとするのを、奥歯を噛み締めて飲み込んだ。 「……澪月、様」  庭の敷石の上にしゃがみこんでいる澪月に、密やかな声がかかる。  振り返らなくてもその声が、長倉のものだとすぐにわかる。いたわるように優しい声音に、長倉の心配そうな顔が思い浮かぶ。涙を搾り切った、乾いていくばかりだった胸に、長倉の優しい声が沁みていく。 「なんや?」  背中を丸めたまま、澪月はぶっきらぼうに返事を返す。  その投げやりとも言える声音に、長倉はほっと安堵の息を吐く。それは、澪月の気丈さを装う声と知っていた。けれど、気丈さを装えるくらいなら大丈夫だということも知っていた。近づいて小さな顔を覗き込むと、澪月はプイといった感じで他所を向く。勢い良く回された首の反動で、濡れたままの前髪から水滴が散る。 「また水干、濡らしちゃいましたね?」 「えっ?」  長倉の言葉に、澪月が慌てたように自分を見下ろす。今は水干ばかりではなく、小袖も、袴も、しっとりと水に濡れていた。 「その格好じゃ、もう、大内様の前には戻れませんね」  揚知客が自分のために新調してくれた一揃ひとそろい。それは大内氏の為の準備のはずだったのに、それをふいにしてしまったことに、澪月がしゅんと肩を落とす。 「でも、もう遅いですから、大内様には私から御暇おひまを申し上げますね」  言いながらすっと立ち上がって、澪月の腕を掴んで立たせる。不安そうに自分を見上げてくる澪月を、おもむろに抱き上げる。 「なっ、なにすんねん!」  突然のことに、ビックリして暴れ出す澪月に、笑いながら言う。 「そんな格好でいつまでもしゃがみこんでたら、風邪をひいてしまいます」 「平気や! 下ろせや!」 「駄目です。しっかりつかまっててください。暴れたら落としますよ」  落とすと言う言葉にぴくんと息を呑んで、澪月が諦めたような表情をする。暴れたところで、一度抱き上げられた身体が下ろされることがないことは、経験上よく知っている。それでも、こんなふうに子供扱いされることを納得出来ずにいる澪月が、しぶしぶといった感じで長倉の肩に掴まる。  澪月の少し怒って膨らんでしまった頬を見下ろしながら、長倉はふと思う。自分には、ずいぶん素直な表情を見せるようになったはずなのに、それでもまだ、澪月は泣き顔だけは見せようとしない。初めて逢ったあの日、澪月は小さく小さく縮みこんで、袂で顔を覆ったまま泣いていた。どんなに泣いても許される場面でさえ、澪月は自分の声を噛み殺し、ただ小さく震えるだけだった。  だとしたら、意地っ張りなこの人は、いったい何処で思いっきり泣くんだろう。そう想うと切なくて、抱えた腕に力が入る。言葉に出来ない問いかけは、長倉の胸の中に小さな波紋を落としていた。  月影は西の峰にさしかかり、和灯篭の灯火も、ほそくたおやかに翳りはじめる。漏刻ろうこくの、ゆうるりと時を刻む水音が、静かに夜を紡ぐ。  脇息に身体を預けたまま、大内氏がぽつりと問いかける。 「あのみやびな小冠者は、お前に似ているな」  隣に座っていた揚知客が、ちらりと大内氏の横顔を覗き見る。  何も言えずにいる揚知客を伺う素振りも見せないまま、大内氏は「よっ」と軽く声を出し、姿勢をただす。投げ出していた脚を大儀たいぎそうに組みなおし、胡坐あぐらをかいた自分の膝に両肘を乗せる。 「秘めたものが多すぎて、生きずらそうに見える。まぁ、俺ひとりの見立てだがな」  独り言のように呟いて、パチンと扇をたたむ。 「気に入ってるなら、気の済むまで傍に置けばいい」  視線を軽く落としたまま、やわらかに言葉を繋ぐ。 「此処はお前の家なんだから、俺に気兼ねなんかしなくていい」  今まで一度も、大内氏にはもちろん、先代にすら何かを願い出ることがなかった揚知客に、含めるように言う。 「お前がしたいようにして、いいんだからな」  ―― 思うままに、描いてみなさい。何も考えなくて良いから。  大内氏の言葉に、父と慕ったの人の、優しい声が重なる。  胸に染み入る想いの深さに、揚知客は返す言葉が見つからない。お礼の言葉なんか口にしたら、子供じみた君主くんしゅはきっと寂しい瞳をする。それがわかっているから、揚知客は黙ったまま、大内氏の視線の先にある、今沈もうとする下弦の月を見つめた。同じものを見つめることで、応えを返すように。 「俺はまた、明日から対馬だ」  少しの沈黙の後に告げられた大内氏の言葉に、揚知客が問いかける。 「次のお戻りは?」  その問いに、ちょっと眉を顰め、大内氏が難しい表情をする。 「今回は、ちょっと手子摺てこずりそうなんだな、これが」  ふう、と小さな溜息のあと、 「まぁでも、三年ってとこだろうな。長くても」  言って、う~んと大きく、伸びをする。 「帰ったら、お前と一緒に旅にでも出るか?」  すとんと下ろした腕を、また両膝の上に乗せ、揚知客と視線を合わせる。 「どちらへ?」 「何処へでも」  ゆったりとした声音で続ける。 「お前と、長倉と、愛らしい子冠者と一緒に、お前の行きたいところに行こう」  ふっと微かに笑んで、たたんだ扇を胸元に仕舞い入れ、揚知客を見つめる。 「だから、な」  ひっそりとそこにあるだけの、影の薄くなってしまった揚知客に笑いかける。 「夢だけ見ながら、俺を待ってろ」  わずかに瞳を瞠る揚知客の肩を、宥めるようにポンポンと叩いて、立ち上がる。 「次に逢うときを、楽しみにしているぞ」  灯かりの消えた、観月の間。  月影も絶えた薄蒼い闇の中に、ぽつねんと佇む細い背中があった。それは大内氏を送り出した後、寝室に引きこもったはずの揚知客だった。静けさに包まれた観月台には、すぐり酒の芳醇ほうじゅんな残り香が、微かに薫っている。  ―― あまり、考え込まないことだ。  いつも、いつも、優しさばかりを乗せる、暖かな声音。  ―― 考えたって、物事ものごとはなるようにしかならん。  思い悩むばかりの揚知客を軽くいなして、大内氏は笑っていた。けれど……。  観月台の手すりに置かれた揚知客の指先に、ぎゅっと力がこもる。揚知客の胸が、ちりちりとくすぶる。たった一つの願いはき火となって、揚知客の胸の奥底を焦げ付かせていた。  描きたい、描きたい、描きたい。  その願いは変わらない。けれど、何を描けばいいのか、自分が描くべきものはいったい何処にあるのか、わからなかった。筆を動かすだけでは、決して得ることの出来ない描ききることの恍惚こうこつ。それを失くしてから、どれほどの月日を無駄に過ごしてきたんだろう。  かつては、そう昔は、描く前に描きたいものが見えて、自分は頭に浮かんだその憧憬しょうけいに追いつこうと、その憧憬を留めようと、絵筆を動かしていた。なのに、今は何も見えない。見えないまま、何かやって来はしないかと、手探てさぐりで筆を走らせている。行きたいはずの何処かは遥か遠く、今の自分ではたどりつけない。それでもまだ、描いている。何もかもを見失い、自分の望みすら見つけられないまま、それでも……。  色褪せることのない夢と、日増しに遠のいていく希望の狭間はざま深更しんこうの闇は、揚知客の願いを飲み込んで、深淵しんえんに沈んでいく。  闇に消え入りそうに細い背は、微かに震えていた。その背中を、御簾みすの影からじっと見つめる瞳があった。御簾のふさを握り締め、黒蜜の双眸そうぼうは、心配そうに揚知客を見つめる。  寝付けない夜に、夜衣のまま布団を抜け出した澪月は、キシリと床が軋む音に観月台へと招かれた。そこに見つけた揚知客の後姿に、声をかけることも出来ないまま、同じように立ちすくんでいた。 (……何……、考えてるん?)  そう無言で問いかける澪月の姿に、揚知客が気づくことはなかった。

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