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 赤松氏の将軍暗殺。世に言う「嘉吉かきつの乱」。  室町幕府六代将軍足利義教よしのりの恐怖政治に、赤松氏が反旗を翻した嘉吉元年。  新築した自邸に義教を招いての暗殺には多くの犠牲があり、周防の守護、大内持世もちよはこの時瀕死の重傷を負い、後日死去していた。  当時揚知客は二十一歳。隠遁いんとんに近い生活をしていてさえ、都の騒ぎは耳に届いていた。けれど大内氏から、騒乱の際には決してこの場所を動かぬようにと言い含められていた揚知客と長倉は、ただじっと報が届けられるのを待っていた。そして、揚知客が父と慕った大内持世の悲報は、揚知客と同じ二十一歳で家督を継ぐことになった大内教弘のりひろから伝えられた。  それから何年か過ぎたある日、大内氏が揚知客にぽつりと問いかけた。 「お前は、絵が好きで描いているのか?」  当然です、と応えなければいけない問いだった。なのに、どうしたことか、揚知客の口から応えは出なかった。言い澱む揚知客にちらりと視線を投げかけ、大内氏が淡々と続ける。 「俺はお前に、描くことを強要してるわけじゃない。描かなければいけないという気持ちで描かれた絵なら、俺はいらない」  その言葉に、落胆の色を滲ませ俯く揚知客に、大内氏が言葉を重ねる。 「間違うなよ。これは命令なんかじゃない。まして、見切りの言葉でもないぞ」  言いながら、大内氏がくしゃくしゃと自分の髪をかき混ぜる。 「俺は、言葉が上手くない。もっと、良い言いようもあるんだろうけどなぁ」  少しだけ情けなく呟く大内氏に、揚知客の視線がついと上げられる。その視線を捕らえ、大内氏が朗らかに笑う。 「あのな、実はこれ、父上の遺言なんだ。いつかお前が、自由に色んなものが描けるようになるまで、見届けろってさ」  揚知客の瞳が、苦悶にゆがむ。 「父上は、お前に無理矢理描かせる為に、此処を用意したわけじゃないんだからな」  言葉を継げない揚知客に、大内氏は穏やかに言う。 「だから、無理はするな。描きたいと思うようになったら描けばいい」  君主と庇護されるものという間柄でありながら、同い年の大内氏と揚知客には兄弟に近い情があった。本当の息子のように接してくれた大内持世は見守るに徹していたけれど、教弘は違っていた。揚知客に対して友人のように、時には兄のように、屈託のない言葉を投げかけてくる。その大内氏の言葉にある、深い情愛を、揚知客は知っていた。  くらりと眩暈のようなものを覚えて、揚知客は頭をふる。  それらは遠い日々の出来事のはずなのにあまりにも鮮やかで、思い出のはずの風景がその一瞬の空気の色まで甦って、意識が錯雑と乱れていく。過去と現在が一緒くたに流されて、混ざり合っていく。  瞳の前にある古びた書状は、過ぎ去った時をこえ揚知客の前にあった。  めぐる追憶に、今を見失いそうになり、揚知客は視線を庭へと移す。今を瞳に刻もうと移したはずの視界には、風にたなびく菊花が魅せる、幽玄の世界がある。秋雨が奏でていた、やわらかな雨音は消えていた。開け放たれた蔀戸の向こうは、ぼんやりと明るさを取り戻している。溜息のようにゆっくりと霧がたちのぼり、色もあやなる乱菊らんぎくつゆに濡れ、霞がかった風景にあでやかな色を零す。あからかに瞳に染み入る光景に、軒先に揺れる沙羅双樹さらそうじゅが、風にかそけく啼く。  ―― 我が道を得んと願うなら、桜の皇子を尋ね候へ  伎芸天の謳うような声音が、不意に思い出され、揚知客の瞼が熱く滲む。何もかもから逃げるように旅立った朝の風景が、夕暮れの、逢魔おうまときの景色に重なる。  揚知客にとって、描く事は生きる事だった。描けないという事は、息を止められるよりも苦しい事だった。なのに今は、一本の線さえまともに描けない。  幼い頃、見たものを素直に描き、命を吹き込んでいたあの頃は、足の指先でさえ欲しいものが描けた。褒めそやされることしか知らなかった自分が、描くことに迷っているなど口が裂けても言えなかった。だから自分を騙し騙し、師に言われるままに、中国絵画の模写に明け暮れていた。そして、見も知らない人の筆跡を辿りながら、見たこともない風景だけを描き続けることの息苦しさを、誰かに言うことはもちろん、問うことさえ出来ずにいた。鬱々と胸に溜まっていったおりは、揚知客の筆先を躊躇わせ、水墨を濁らせ、最初の頃はずっと後ろにいたはずの門下生達が、次々と揚知客を追い越していった。  ―― 助けてください……  誰にともなく、呟いていた。  ―― 私は、描きたいのです!  夢に行き留まった混沌は、出口を求めて荒れ狂っていた。  失くしてしまった夢。その夢を、どうしても、もう一度この手に掴みたくて旅立った朝。描きたいと思うことそのものが、自分には過ぎた願いのように思えて苦しくて。誰でもいいから、間違ってはいないと、望みのままに生きろと、そう言って欲しくて。  ざん、と大きな音を立てて、木の間を風が駆け抜けた。葡萄色に染まるゆうまぐれに、木の葉に残る露の雫が散っていく。きらきら、きらきらと、あえかな光りを零しながら。  深く陰鬱なしじまの中に見つけた、ひとすじの光明。それは朝露にたわむ蜘蛛の糸よりも、脆く儚いものだった。その、刹那な糸。触れたなら、ぷっつりと切れて散ってしまいそうな糸。その糸の、出所は知れない。確たる証もない。たわむれの言告ことつげと見下すことさえ出来た糸。けれど、それでさえ、縋らずにはいれなかった。  そして、已むに已まれぬ想いを秘めた旅の果てで、揚知客は澪月を見つけた。  ―― さてさて聖人、如何される?  伎芸天の悪戯な言問いが木霊する、奇蹟の花積はなつ渓谷けいこくで、時忘ときわすれの花は言祝ことほぐように揺れていた。その花弁はなびらが舞い遊ぶ中に、花めいた皇子みこはいた。見つめる瞳が妖しく煌めき、その身体があやかな光りに包まれた。苦悶にゆがむ頬は、揚知客が唱える経に徐々にその強張りをとき、震える指先に数珠を握らせると、かっくりと揚知客の腕の中にもたれかかってきた。  時の流れがしんと留まる、水底のような闇の中。先の見えない、行き先も知れない闇の中を、ただ這いずり回るだけの自分に、澪月はしがみついてきた。まるで頼りとするものの全てが、揚知客であるかのように。無意識のままに縋る指先は、可哀想なくらい細かった。握り返す指先、白い項、淡く色づく頬さえも、あまりに冷たくて、もしもこの手を離したなら、すぐにも儚くなってしまいそうな澪月を、どうしても独りには出来なかった。  今も……、そう、今も。今、この目の前で、何もかもを諦めたように笑う澪月は、生きて其処にいるのかと、そう問いたいほどに、儚い。 「いくあては、あるのか?」  それは揚知客が口にした、二度目の問いだった。いくあてはない、誰も待つ人もいない。そう知ってからの問いに、澪月がふいと視線を逸らせる。 「あんたには、関係ない」  逸らされた視線ははじめ俯き、そしてゆっくりと上げられる。見つめる先は、開け放たれた蔀戸の向こう。今はもう、群青の闇ばかりの、彼方。 「無理に出て行かなくても此処にいればいい」  揚知客の声は、やわらかに続けられる。 「都も、……まわりの国々も、今はなんだか落ち着かない」  押し付けるでもなく、諭すでもなく、ただ告げられる。 「でも、此処でなら、静かに暮らせる」  感情を示さない澪月の瞳をじっと見つめて、揚知客が微かな笑みを含んで言葉を揺らす。 「それに、こんな荒れた世に、何ももたない子供を放り出すなんて、私たちには出来ないよ」  その声音にぴくりと動いたのは、しっとりと弓張り月を描く眉。「子供」という言葉に不満をもったのか、澪月はわずかに口元を尖らせ、ぽそりと言う。 「……俺、子供やないで」  言って自分の掌に視線を落とし、指先をぎゅっと握りこむ。 「一揆のどさくさで流れてもうたけど、あと少しで、元服げんぷくの予定やった」 「えっ!」  大きな声は長倉だった。その声にくすりと笑って、澪月が長倉を振り返る。 「ほんまやで。こんなナリでも、もう充分、大人なんよ」  長倉の驚きの声は、素っ頓狂にその場に響いた。けれど澪月の苦笑は、その長倉に向けたものではなく、驚いて当たり前だと思ってしまう、自分に向けてのものだった。 「やから、……平気なんよ」  澪月が呟くように言う。それはまるで、自分に言い聞かせているようにも聞こえる。 「平気なはずはない」  揚知客のやんわりとした否定に、澪月の睫がすっと伏せられる。 「いくあてもなく、誰も知る人もなく、それで平気な「人」はいない」  澪月の耳に、「人」という言葉だけが、奇妙に際立つ。 「ひとりは寂しい。それは、子供でも、大人でも、……「一緒」だろう?」  優しげな問いかけに、とうとう堪えきれないというように、澪月の視線が揚知客へと向けられる。黒目がちな瞳に針の先ほどの煌めきが、ちらりと揺れる。揚知客の言葉は、必死になって平静を装う澪月の、秘められた感情を逆なでする。「人」という言葉が、「一緒」だという言葉が、澪月の感情を泡立てていく。 「俺は、あんたらとは違う」  物憂げに自分を見つめる揚知客をめつけ、澪月が言い切る。 「見ろや、この腕!」  桜色の夜衣よぎを肩まで捲くり上げ、真っ白な腕を揚知客の前に突き出す。 「この髪! この声!」  自分の髪を鷲掴わしづかみ、自分の胸を叩く。 「何処が「一緒」や、言うんよ!」  そう叫んだ澪月の声は、泣き出しそうに震えていた。  自分はゆるぎの中にいた。その場所を、澪月は今も、定かには思い出せない。  あれは、夢の中の出来事だったのか、それとも時をわたるための場所だったのか。ゆうらりとゆれる、水の中のような空間。その中に、何もかもが消えていった。紗幕に閉ざされた曖昧な記憶も、刻み込むように鮮烈だった記憶も、何もかも。そして、目覚めた自分は、何もかもを、忘れていた。  ふと瞼を開けた其処は、満開の桜の下。小さなうろに背中を預けて、花散る根本に蹲っていた。ぼんやりと自分を包むだけだった空間が、いきなり色を取り戻した。頬をすべる風の感触、背中に感じる洞の冷たさ、何度瞬いても消えない風景。それはあたりまえの感触で、あたりまえの風景なのに、そのあたりまえのなにもかもが、怖くてたまらなかった。  そして、薄紅のかげろいの中に、見知らぬ影を見つけた。  ―― 誰や?  やっとの思いで絞り出した声は、震えていた。翳る視界に映る影は、戸惑ったように自分を見つめ、その指先が自分へと伸ばされた。  ―― さわらんといて……、  目覚めたばかりの身体は、がくがくと震えるばかりで少しも自由にならない。そんな自分に伸ばされる指先が、ただただ怖かった。  けれど、差し出された手は優しかった。そっと包み込まれた腕の中は、暖かだった。全身を駆け巡る悪寒と、熱くなっていく身体が気持ち悪くて、抱き上げられた胸にぎゅっと頬を押し付けた。其処から伝わってくる人肌の、やわらかなぬくもりだけが心地好かった。  それからは、奇妙な浮遊感が徐々に消えていった。朧に霞む視界が目覚めるたびに磨かれ、曖昧だった感覚も少しずつはっきりしていった。そして、耳に届いたさやかな水の音は、驚くほどすっきりとした目覚めを生んだ。けれど、  ―― 此処におって、いいんやろか?  ひとりになって改めてその言葉を思い返したとき、ひやりと胸底が冷えた。急に何かとても大切なものを、何処かに置き忘れているような気がした。それでも、その疑問を問いただそうとすると、心の音が堪えようもなく速まり、視界が朦朧と霞んでいった。何処か知らない場所に引きずり込まれそうな錯覚は、澪月を怯えさせた。  目覚めてみると、自分がたゆたっていた空間が、途方もなく怖い場所に思えた。つかみ所のないとろとろとした空間に、自分自身もどろどろに溶かされて、消えてなくなりそうな気がする。だから不安にさいなまれながらも、その不安の出所を確かめることをしないまま、朱塗りの器に手を伸ばした。  けれど、其処に映った自分の姿は、見ないふりをしていた全てを引きずり出した。  がんがんと、頭の中で鐘が鳴り響いていた。暗闇に沈んでいた、記憶の断片が閃いた。胸の奥にずっとあった、震えるような恐怖。記憶の底に隠しこまれた、一瞬。その一瞬が、ひらり、ひらりと思考を掠め、霞んでは瞬き、遠のいては近づき、澪月を煽った。  そうして澪月は、全てを思い出した。澪月の中から、ごっそりと抜け落ちていた記憶。それは、澪月自身でさえ、身の毛が弥立よだつような記憶だった。

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