洛陽の月
ピンポイントクロス

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 権丈がグラウンドに到着すると、黒田は本職のセンターバック二人を相手にポストプレーとヘディングシュートの練習に勤しんでいた。ゴールマウスの中には無数のボールが転がっているが、枠外に転がっているボールの方が多いようだった。  ランニングシューズからスパイクへ履き替えた権丈はピッチの外から練習風景を眺めた。  筋トレに続いて朝練時の練習パートナーも仰せつかった小峰史郎がハーフウェーライン付近からドリブルを開始する。  右サイドから駆け上がってきた小峰がクロスボールを蹴り込むが、黒田が飛び込んだ先へどんぴしゃの高さとタイミングというほどの精度はなく、ピンポイントクロスと呼ぶには程遠いものだった。  ボールは黒田の頭上を通過し、二年生のセンターバック橋本が難なくクリアした。黒田に比べると上背も筋力にも劣るが、ポジション取りが巧みで前線へのフィード能力にも長けた技巧的な選手だ。身体の強さや高さを活かしてプレーする黒田とは違い、どちらかというと読みで守備を行うタイプである。  小峰は精度の低いクロスボールを蹴り込むたびに黒田から殺気にも似た鋭い視線を送られ、無言のプレッシャーを受け続けて精神的に疲弊しているようだ。入念な準備体操を終えた権丈は、小峰に声をかけた。 「お疲れ。ちょっと代わろうか」 「いえ、……はい。ありがとうございます」  権丈から声をかけられた小峰は一瞬だけキッカー役の交代を拒んだが、結局は大人しく引き下がった。易々と代わりたくはないが、代わってもらえるならありがたく代わりたい。内心そう思っているのが丸見えの態度だった。  ハーフウェーラインへ引き下がった小峰と代わり、権丈が右サイドへ向かう。小峰が緩く蹴りだしたボールを、権丈はワンタッチで黒田の元へ放り込んだ。シュート性の速さのボールを黒田が頭から叩きつける。  ワンバウンドしてゴール前で高く弾んだボールがサイドネットへ突き刺さる。  二人のディフェンダーを平然となぎ倒した黒田は右手を横に突き出し、権丈の方を見ずにすっと親指を立てた。黒田は芝の上に仰向けに倒れた橋本と石塚の手を掴み、引き起こした。 「先輩、朝から勘弁してくださいよ」  石塚はパンツの尻についた芝の切れ端をはたき、早朝から手を抜くことを知らない黒田に向かって苦笑した。黒田はにこりともせず、ただ黙って首を横に振った。黒田とセンターバックの先発スタメンの座を争うことが多かった石塚は、体格的には黒田にも見劣りしない選手だ。   橋本が技巧派タイプのディフェンダーなら、石塚は武闘派タイプだ。黒田がセンターフォワードへと再転向するとなると、このコンビは先発の座の最右翼といえる立場にいることは間違いない。 「クロスボールの精度の差はいかんともしがたいね。シロー、下手過ぎ」  東条圭は権丈と同じタイミングで寮を出たはずなのに、ずいぶん遅れてグラウンドへやって来た。生あくびを噛み殺しながら、小峰史郎をさりげなく挑発した。 「んだと? じゃあお前、蹴ってみろよ」  案の定、挑発に乗った小峰が圭の胸ぐらを掴んだ。朝っぱらからぎゃあぎゃあと喧しい言い合いに発展し、権丈が慌てて駆け寄った。  たった一度蹴っただけでサイドラインを離れた権丈を見て、黒田が表情を強張らせた。クロスボールを上げるものがいなくては練習にならない。誰でもいいからクロスを上げてくれるやつはいないか、とでも思ったのか黒田はグラウンド上をぐるりと見渡した。 「おいおい、クロ。水臭いぞ、クロスなら俺が上げてやるぜ!」  派手な寝癖の目立つ兵藤が左サイドに猛ダッシュで回り込み、大声で吠えた。兵藤はコーナー近くに転がっていたボールを左足で蹴り込んだ。ボールは黒田の遥か頭上を越え、ディフェンスの構えをしていなかった橋本と石塚は揃って快晴の大空を見つめた。 「……練習にならんな」  黒田がぽつりと漏らすと、枠内に転がったボールを拾い集めた。 「やあ、大変そうだね」  ゴール裏に黒縁眼鏡をかけた平岡が立っていた。長袖ジャージのポケットに両手を突っ込み、シニカルな笑みを浮かべている。普段はコンタクトだが、気まぐれに眼鏡をかけることもある。カールした長めの髪に眼鏡という出で立ちは、寮暮らしのサッカー部員というより博識な文学青年という雰囲気を醸し出している。 「おい、どうしたヒラ! お前が朝練に顔出すなんて、今日は雪か」  左サイドから駆け寄ってきた兵藤が平岡の肩をぶっ叩いた。 「朝から煩いね。気持ちのいい朝が台無しだよ」 「まったくだ」と、黒田が同意する。  平岡はゴール横に転がっていたボールを無人の左サイドへ、ちょこんと蹴った。ころころと転がったボールはサイドラインの手前で測ったようにぴたりと止まった。 「とりあえず十本ぐらいでいい?」 「ああ、悪いな。頼む」  黒田が頷くと、平岡はポケットに両手を突っ込んだままボールを無数の方向に向かって蹴りだした。平岡がボールの元へ歩いていく間に黒田がゴールに正対し、橋本と石塚は黒田を挟みこむような形のディフェンスを敷いた。  平岡は数歩の助走をとると、三人の位置関係をちらりと見てから右足を鋭く振り抜いた。  空中でカーブしたボールはジャンプした橋本の頭上を越し、背中に石塚を背負った黒田の鼻先へ、ぴたりと合った。まさしく、ここしかないというほどのピンポイントクロスに黒田は難なく頭で合わせてゴールネットを揺らした。  ようやく口喧嘩を中断した小峰史郎は口をあんぐりと開け、東条圭は御見逸れしましたとばかりにぱちぱちと両手を叩いた。 「兵藤なら、これぐらい楽勝でしょ」  センターサークル付近へゆっくりと歩いていく平岡が、兵藤を挑発するように言った。 「当たり前だ」  兵藤がふんと鼻を鳴らし、偉そうに胸を反らした。いつの間にか圭と小峰と権丈もセンターサークル内に集まっており、平岡を中心に輪が出来ていた。 「俺がボールを出すから、君らがクロスを上げなよ。兵藤は左コーナー、小峰は右コーナー、東条は左45度、権丈は右45度の辺りから放り込む感じで」  平岡が矢継ぎ早に指示を出すと、四人は言われるがままの位置にポジションを取った。  黒田がディフェンダー二人と競り合う中、平岡が指定の四ヶ所に散った面々に向かって順不同にボールを配球する。クロスボールが上がるたび、黒田が頭からダイブする。  淡々と四ヶ所へ配球しながらも、ディフェンス陣の位置関係に綻びが見えるやいなや、平岡はミスを指摘するようにディフェンスの死角へ、ボールを直接蹴り込んだ。 「先輩、そろそろ上がりましょう」  ボールが上がるたびに全力で黒田をマークしていた橋本がへばり、ピッチ上に倒れ込んだ。石塚はぜえぜえと肩で息をしている。 「ああ、そろそろ時間だな」  黒田はメイングラウンドの四方を囲う防球ネットの先に佇む時計塔を見上げた。ようやく身体が温まってきたらしい兵藤がボールを寄越せと大声でわめきながら腕をぐるぐると回しているが、黒田は手近なボールを拾い始めた。

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