洛陽の月
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 スパイクを履き、練習に復帰してからは、見慣れていたはずのグラウンド内外の景色のひとつひとつが新鮮に見えた。  怪我明けの権丈は全体練習とは別メニューで、ひとり黙々と調整に励んだ。  二ヶ月以上も練習から離れていたせいで、軽くジョギングしただけで息が上がったが、足裏から伝わる芝の感触と、全身を駆け抜ける心地よい疲労感がやけに懐かしい。  再びグラウンドへ戻ってこられた感慨を噛みしめながら、権丈はメイングラウンド周囲をゆっくりと走る。  照りつける残暑の中、時折秋めいた風が権丈の火照った身体を冷やしていく。ただ走っているだけなのに胸の奥底から笑いが込み上げきて、権丈は思わず微笑んだ。  チーム練習を横目に、権丈はグランド脇でダッシュとストップを繰り返した。  大塚医師の忠告通り、最初から全速力では走らず、痛みがないのを確認してから徐々に速度を上げていく。強く踏ん張ったりしない限り、左足の痛みはほぼ引いていた。  下半身の体力や筋力はだいぶ落ちていたが、痛みを感じずに走れることが何より嬉しかった。一年生部員からボールを借り、長らく忘れかけていた両足のタッチを確かめるように、その場で軽くリフティングをする。大袈裟ではなく、サッカーを始めた頃の、ただボールに触れているだけで無性に楽しかった幼少時代の感覚が蘇ってきた。  グラウンドに目を向ければ、活気に満ちたチームメイトの顔が見て取れる。どの顔も自信に満ち溢れており、大声を張り上げチームを鼓舞する兵藤を中心にムードは上り調子だ。  中盤の要である平岡が復帰して以来、チームの連携は目に見えて向上していた。  個人能力の面でも成長は著しく、ウイングから一列ポジションを下げた兵藤は中盤の潰し屋としての性格を強めていた。  周囲のプレーヤーの能力と戦術的理解度が上がった分だけ、平岡のゲームメーカーとしての仕事ぶりはより洗練度を増していた。  黒田は地道に続けていた筋トレの成果もあり、練習試合ではほとんど競り負けることがなく、バイタルエリアでのポストプレーは洛陽高校の強力な武器となった。  一年生コンビの一翼である小峰史郎はディフェンス面でバタつくことも少なくなり、右サイドからのクロスボールの精度は日に日に向上していた。  片や東条圭は試合中にまるでお散歩しているかのように存在感が無くなり、『消える』こともままあるし、傍目には覇気の感じられない場面が散見されるものの、それは勝負所を的確に掴む独特の嗅覚の裏返しである。事実、ここぞという場面でゴールに絡む動きには特別な冴えを垣間見せている。  インターハイ予選の頃は、一年生コンビの抜擢に否定的な意見も少なくなかったが、今ではどちらも堂々たるレギュラー選手として扱われている。 「足の調子はどうですか、権丈君」  大葉監督がそろそろと権丈に近付き、世間話をするかのように気安く話しかけた。権丈は大葉の方へ向き直ると、姿勢を正した。 「軽く走ったり、蹴ったりするぐらいであれば、もう痛みは感じません」  権丈は決して強がる風でも、無理をする風でもなく、素直にそう応じた。 「そうですか、それは良かった」  大葉が軽く頷く。 「ここまでよく我慢しましたね、権丈君」  大葉は、練習の輪の中へ今すぐにでも入って行きたそうな権丈の背中に軽く手を添えた。 「選手権にはきっと間に合う。だから、もう少しの辛抱ですよ」  リハビリに半年近くかかる場合もあると大塚医師に告げられ、目の前が真っ黒になった頃を思うと、試合復帰への道程は多少なり見通しが良くなったことには素直に喜べた。  だが、それと同時に、ピッチに立つまでには、まだ絶望的なまでの長さを感じもした。  選手権予選までに残されたわずかな時間の間に、二ヵ月間の休養と安静で失った体力と筋力、試合勘を取り戻さねばならない。最高のコンディショントップフォームまで戻さなければ、チームに迷惑がかかるし、手負いの選手などはそもそもピッチに立つ資格さえない。  出来ることは限られているのに、あまりにも時間が足りない。  それこそ絶望的なまでに。 「今までの自分の姿に戻れるのか、不安です」  権丈は隣に寄り添う大葉の方を見ないまま、ぽつりと呟いた。考えるまでもなく、素直に口からこぼれたその一言に、権丈は己の心の奥に巣食った感情の正体に気が付いた。  ああ、そうか。自分は不安なのか。無心で動けていた頃の自分を本当に取り戻せるのか、自信がないのだ。 「権丈君、君はひとつ考え違いをしています」  権丈の背中から手を離した大葉は、グラウンド内を疾駆する選手たちを見守りながら、重々しい口調で言った。 「君は怪我をしたことで、今まで見たことなかった角度からサッカーを眺め、今まで見たことのない景色を見て、今まで味わったことのない感情を味わったでしょう。新しい経験をした君は、もうこれまでの君とは明らかに違っているはずですよ」  大葉は腕組みをすると、大きく息を吐き出した。 「今までの自分に戻るのではありません。今までと違う自分になるのです」  大葉の言葉を聞いた権丈は、思わず口の端に笑みをこぼした。  この人はいつだって、何気なさを装いながら、くすぶっていた心に火をつける言葉をくれる。高度な戦術を説く監督は掃いて捨てるほどいるが、それとなく人生の指針となるような言葉を授けてくれるような監督に出会えたことは、それだけで奇跡だと思う。  今までであれば、大葉監督を名将だとは思いつつも、掴みどころのないこの人が具体的にどう名将なのかを言葉で言い表すことは出来なかった。  今ならそれがよく分かる気がする。  思い返せば、前主将の東条俊一も傷心の自分に大切な言葉をくれた。その言葉もまた、大葉監督の受け売りだという話だった。 「辛い経験や失敗は銀行預金の積み立てをしているようなものだ。いつかきっとどこかで引き出すことができるから、起きることはすべて必然と思って精進しなさい」  東条俊一がくれた言葉、それも大元を辿れば大葉監督の言葉を心の中で反芻する。  あの日、半信半疑で聞いていた言葉の意味が、遅まきながらも、ようやく理解出来たような気がした。

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