洛陽の月
東条ブランド

 平岡が寮に姿を見せなくなってから二週間が過ぎた。  どうにも今年の梅雨入りは例年より早いらしく、連日雨続きで雲が低く、窓の外に広がる白川沿いの景色もどこか陰鬱に見えた。  月末には中間考査を控え、サッカー部も一週間はチーム練習がお休みとなり、試験勉強に邁進する辛い季節を迎えた。  珍しく学習机に向かっている兵藤は、ものの数分で集中力が切れたらしく、国語の教科書を放り捨てた。 「ああ、サッカーボールを蹴りたい」  兵藤は椅子の背もたれに寄りかかると、白い天井に向かって欲求不満の声をあげた。権丈は二段ベッドの下段で左足の太腿をさすっている。痛みは引くどころか、日を追って増すばかりで、歩くたびに激痛が走った。ここ数日は三階から食堂のある一階へ下りるのも苦労するほどだった。 「海に行きたい。思い切り焼きたい」  季節はまだ六月にもなっていないというのに、脳内が現実逃避しているのか、はたまた慣れない試験勉強に脳細胞が焼け焦げたのか、兵藤はしきりに「海に行きたい」という戯言を繰り返した。 「鴨川で十分じゃないですか」  東条圭は床に寝転がり、教科書を読む代わりにクラスの同級生の女子に借りた少女漫画を熱心に読んでいる。高校に入学して初めての定期試験だというのに、随分と余裕のある態度である。 「鴨川の川べりでいちゃつくカップルの顔がすべてサッカーボールに見えるのだが、俺は幻覚を見ているのだろうか」  兵藤が真剣な面持ちで言った。 「じゃあ、シュートしてきたらいいんじゃないですかね」  圭は少女漫画をぱらぱらとめくりながら、適当な返事をした。 「圭はさっきから何を読んでるんだ? まさか国語の教科書か」  兵藤は自身が放り投げた国語の教科書を拾うついでに圭が山積みにしている少女漫画を一冊手に取った。二十冊近くありそうな量だ。 「……漫画じゃねえか」 「はい、漫画です」  圭は悪びれることなく答えた。 「どんな話だ?」 「なんか男子校のサッカー部に一人間違って女の子が入部する話みたいですね」  圭は一冊を読み終えると、漫画の山の上から次の巻を手に取った。 「……王道だな」 「王道ですね」  どうやら兵藤も少女漫画の内容が気になったらしく、山の上から一巻を探し出してめくり始めた。 「そういえば、どうしてうちのサッカー部って女子マネージャーがいないんですか。男女半々の共学なのに」  その質問を耳にした兵藤は、圭が読んでいた少女漫画を取り上げ、脇に置いた。 「正座しろ」  床に寝っ転がっていた圭は一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、兵藤に言われるがままに正座をした。 「よろしい」  兵藤が重々しく頷いた。 「なぜイケメン揃いの我がサッカー部に女子マネージャーがいないのか。その質問に答えて進ぜよう」  圭は兵藤が床に置いた漫画に手を伸ばしたが、兵藤はさっと自身の後ろに隠した。 「実は去年までは大量にいたのだ。三年生のマネージャーが七人もいて、最盛期にはそれこそサッカーチームが組めるぐらいにいた。リザーブチームまで余裕で組めるぐらいに人材が豊富だった」  兵藤が力説したが、圭は漫画の続きが気になっているようだった。 「それは凄いですね」 「なのに今年は一転してマネージャー、ゼロだ。由々しき事態だが、なぜだと思う?」  圭はあまり興味なさそうに首を捻った。 「東条先輩が卒業したからだ。あいつらマネージャーはサッカー部が目当てではなく、全員東条先輩目当てだったのだ。畜生め!」  兵藤が圭の頭をぐりぐりと撫で回した。髪が滅茶苦茶に乱れる。 「今年は東条先輩の弟が入部したのに女子マネージャー、ゼロだ。なぜ弟には東条ブランドがないのだ」 「俊兄は東条家の突然変異ですから」  圭は兵藤の無茶苦茶な言いがかりを意にも介さず、自主的に正座を解いた。 「いいか、圭。モテで兄に敵わないならば、せめてサッカーでは勝て」 「べつに張り合っていないんですけど」  おもむろに立ち上がり、その場から離れようとした圭のシャツの裾を兵藤が引っ張った。 「いいか、世の中には『アスリート=次男最強説』というものがあってだな。あるいは『末っ子最強説』と言い換えてもいいが……」  兵藤は熱弁を振るうが、圭はさっさと逃げるように二段ベッドの梯子を上った。 「兵藤先輩はべつに女子マネージャーが欲しいわけじゃないでしょう。平岡先輩に帰って来て欲しいだけで」  遮光カーテンの影から顔を覗かせた圭が兵藤を見下ろした。核心を突かれたのか、兵藤は一気にトーンダウンし、押し黙った。 「ああ、それと権丈先輩は早めに病院に行ったほうが良いですよ。俊兄が現役の時に通っていた形成外科なら場所知ってますけど」

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