洛陽の月
洛陽荘

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 京都左京区の大文字山の麓に流れる白川沿いに建てられた洛陽荘の玄関口はしだれ桜が散らした花びらで覆われ、まるでピンク色の絨毯を敷き詰めたように美しく彩られている。  サッカー部専用の学生寮である洛陽荘の敷地内に足を踏み入れた東条圭と小峰史郎は、嘆息しながら三階建てのレトロな風合いの建物を眺めた。  共有の玄関ホールで靴を脱いだ圭と小峰はスリッパに履き替え、上級生の後に続いて一階奥にある食堂スペースへと足を踏み入れた。横に長テーブルが三列並び、パイプ椅子が六十脚ほど置かれている。  既に帰寮していた部員たちが一斉に振り返った。 「お前ら、軍曹に挨拶しろ」  副主将の兵藤に背中を押され、圭と小峰は部員たちの居並ぶ最前列に押し出された。 「……軍曹?」  食堂スペースと厨房の間を仕切る木製のカウンター越しに、五十過ぎぐらいに見える中年の男が顔を出した。肩で風を切り、大股で圭と小峰の元に近寄ってくる。 「坊主ども、洛陽荘への入寮おめでとう。俺が寮長の李だ」  割烹着にねじり鉢巻き、韓国籍で従軍経験があるという李はレスラー顔負けの逞しい筋肉の鎧に覆われ、とても料理人には見えない威圧感に満ちている。 「いいか、俺のことは軍曹と呼べ。あるいはシェフでも構わん」  入学前から入寮を済ませていたセレクション組の新入生は慣れた様子だが、入部テストを経た一般入部組として、遅れてサッカー部へ加入した東条圭と小峰史郎の二人は呆気にとられた顔をした。 「新入りはどいつだ?」  セレクション組の榎田が圭と小峰を李寮長の御前へ押し出した。李が腕組みをしながら値踏みするように二人をじろじろと見つめた。 「細くて小さいな。ちゃんとメシ食ってるのか?」  もともと険しい容貌をますます険しく曇らせると、筋肉の付き具合をチェックするためにであろうか、李はおもむろに圭と小峰の腕を揉み始めた。異様なほどの力の強さに圭が顔をしかめたが、李がじろりと顔を覗きこむと、ぱっと引き攣った笑みを浮かべた。 「貴様ら、名と階級は?」  李の問いかけに小峰が助けを求めるように後ろを向いた。 「……階級ってなに?」 「中学時代のポジションと経歴とか適当に答えとけ」  榎田が素知らぬ顔をして答えた。圭と小峰は互いに肘で突き合い、どちらが先に名乗るかを牽制しあった。なかなか問いかけに答えようとしない二人に焦れたのか、李の表情がますます険しくなった。  身の危険を察したのか、意を決した小峰が先に名乗りを上げた。 「小峰史郎です。中学時代はサイドバックをやっていました。よろしくお願いします!」  張り上げた声は掠れ気味で、小峰の首筋には滝のような汗が滲んでいた。 「うむ、元気があってよろしい」  李の眉間に刻まれた縦皺が幾分か和らぎ、射るような視線が圭に向いた。 「東条圭です。去年までキャプテンだった俊一の弟です。よろしくお願いします」  圭は李と視線を合わせず、ぼそぼそと聞き取りづらい声で言った。 「シュンイチ?」  李の目が見開かれ、圭は一歩後ずさった。ずんずんと近寄り、李は圭の頭をむんずと掴んだ。純粋な恐怖からか、圭の視線が上下に泳ぐ。 「そうか、よく来た! シュンは模範的なフットボーラーだった。弟をよろしくと頼まれている。無論、そのつもりだ」  頭をわしゃわしゃと撫で回された圭の髪は乱れ放題だったが、髪の毛を気にする余裕もない様子で、ひたすら直立不動の姿勢を保持している。 「いいか、ケイ」  下士官に訓示を垂れる上官のような厳かな面持ちで李が言った。 「俺の作る献立の栄養バランスは完璧だ。食えば、必ず強くなる。ゆえに残すな」  一瞬首を横に振りかけた圭だったが、李の眉間に皺が寄るのを見て、首を縦に振った。 「門限は午後十時だ。いかなる理由があろうと破ることは許さん」  李の捻じ込むような視線に圭が何度も頷く。 「就寝は十一時だ。それまでに寝ろ。十時以降は携帯電話類の使用は不許可、テレビも見るな。朝は六時に起き、朝食を食べてから朝練へ行け」  圭は壊れた人形のようにがくがくと頷く。 「その心配はないと思うが、最後にひとつ言っておく」  李は圭の両肩を掴んだ。 「女は連れ込むな。洛陽荘は女人禁制だ」  李はそれだけ言い終えると、圭の両肩を目いっぱいの力でばしばしと叩き、満足げな表情を浮かべた。李がくるりと踵を返し、厨房の奥へと引っ込んだのを合図に圭と小峰を取り囲んだ二、三年生が一斉にクラッカーを響かせた。  あたり一面に破裂音が轟き、色鮮やかな紙吹雪が舞った。 「洛陽高校サッカー部へようこそ。お前ら二人も今日からチームの一員だ」  兵藤が音頭を取るような調子で叫び、誰かれ構わず円陣を組み始めた。左右にゆらゆらと揺れながら、ラップ調に編曲した校歌を朗々と歌い上げる。 「貴様ら、後片付けはきちんとしろよ」  厨房の奥からひょっこりと顔を出した李がにやりと笑った。円陣に組み込まれた権丈が親指を立て、「了解」のサインを返す。  開いた硝子戸から心地よい春の風が舞い込んできた。

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