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 前年の優勝校である神奈川代表・桐郷学園との因縁浅からざる再戦は、全国高校サッカー選手権大会の準々決勝の舞台で実現した。駒沢陸上競技場を埋め尽くした大観衆を前にして、試合開始のホイッスルが高らかに鳴り響く。  権丈は大きく息を吸い込むと、弾かれたように全力疾走した。  左腕に巻いたキャプテンマークは、己の力不足を思い知るばかりの重荷でしかなかったが、いつしか腕に馴染んだ。今では、偉大な前任者と共に戦っているかのような力を与えてくれる。  県内有数の名門校である桐郷学園のユニフォームは、胸に菱形の連なる伝統的なアーガイル柄で、重厚な赤は古城を思わせる風格が漂っている。見るからに歴史に裏打ちされた威圧感が醸し出されており、去年は試合前のウォーミングアップの段階から圧倒された。二年生だった権丈は後半途中からの交代出場で、スタンドの大歓声に呑まれ、思うように身体が動かなかった。口から心臓が飛び出しそうな気がして、まったく生きた心地がしなかった。  しかし、今年は違う。試合前の高揚感はあったが、熱し過ぎず、冷め過ぎず、非常に安定した精神状態で試合に挑めた。  桐郷学園の攻撃で試合が始まった。前線から権丈が猛チャージをかけ、相手のパスコースを限定する。権丈の頭越しに大胆なサイドチェンジを繰り出されたが、兵藤が難なくカットした。  兵藤が回収したボールを平岡が保持し、相手ディフェンダーをいなすようにゆったりとボールを回した。寄せては返す波のように、押しては引き、引いては押して、中盤の底でボールを回しながら、桐郷学園の守備網に綻びが見えるまで、じっくりと機を伺う。  チームを月まで導かんとする司令塔の平岡は内心、前年の試合で途中交代を余儀なくされた口惜しさを秘めていたのだろう。前年の敗戦の責任を背負い込んだ権丈と同等か、あるいはそれ以上に平岡の目の色が違った。静かなる炎が熾火のように燃えている。  攻撃を組み立てる指揮者コンダクターたる平岡のパスには、明確な意思がある。自陣でゆっくりとボールを回す時は慌てず、騒がず、しかし相手のディフェンスが崩れたと見るや、抜け目なく攻撃のギアを入れる。平岡は天才肌ゆえに自然とディフェンスの穴が見えるのだろうが、いったい、どんなタイミングで攻撃のスイッチを入れているのか、チームメイトである権丈にも理解できない部分があった。  平岡が繰り出すあらゆるパスには明確な意思があっても、チームメイトがそれを察知し、連動して動けなければ宝の持ち腐れだ。  月まで走れ、がチームの合言葉だが、得てして月はかげるもの。  目まぐるしく戦況の変わる試合中では、目的地であるゴールを見失う苦しい時間帯が存在する。平岡はそれを「月が翳る」と表現した。  目的地を見失っているのに、がむしゃらに走ってもしょうがない。平岡の言い分は理解できる。しかし、平岡以外に目的地が見えないのは問題だ。  平岡はひとつひとつのパスにメッセージを込めている。  今は月が翳っているから無駄に走るな、と言われれば、ペースを落とす。月までの道が開けた、今こそ走れ、と発破をかけられれば、全速力で走る。パスの受け手だけでなく、フィールドに散った全員が平岡のパスの意図を正確に汲み取らなければならない。  平岡の狙い通りにチームが連動するのが理想だが、パスに込められた意図が高度過ぎて理解できないこともある。  チーム練習の折、権丈は平岡に訊ねた。 「平岡はパスを出す時、どんなことを考えているの?」  権丈があえて言語化を願い出ると、平岡は一瞬、考え込んだ。 「サポートのポジショニングによって、パスの種類を変えている」  サポートとは、ボールを持った選手を助ける動きのことだ。  ボールを持っていない選手が近くに寄ったり、サイドに開くなど、パスコースを作ってあげる動きを指す。 平岡も感覚的にこなしていたことで、言語化するには若干の時間を必要としたが、結論はとてもシンプルなものだった。  サポートの三原則を、平岡は序破急の三段構成に落とし込んだ。  序……ボールを奪われそうな味方に近付き、パスを受けて攻撃をやり直す動き  破……前方にスペースがない時、パスを続け、有効なスペースを生み出す動き  急……マークを外し、ボールを前進させる動き 「平岡が急のパスを出した時こそ、月まで走れってことだね」 「平たく言うと、そうなるな」  平岡の説明を踏まえ、チーム全体で意志統一を図ると、これまで感覚的にこなしてきた部分がくっきりと明確になった。  相手チームのディフェンスに小さな風穴が開いたとき、平岡は「急」のパスを繰り出す。その時こそ、フィールド上の選手全員が連動し、一挙に攻撃を高速化スピードアップさせる絶好のタイミングだ。  淡々とボール回しに徹していた平岡は、一転してテンポを変えた。平岡から兵藤、もういちど平岡にボールが戻り、最前線の東条圭がするすると中盤に降りてきた。  平岡からショートパスを受けた圭はワンタッチでボールをはたき、斜めに走り込んできた権丈が思いきり蹴り込んだ。弾丸のようなシュートは惜しくもゴールバーを叩いたが、跳ね返ったボールを黒田が押さえた。  黒田はペナルティエリア内で即座に囲まれるが、すかさず平岡は「序」のサポートに走り、いったんボールを戻させた。洛陽高校が押し込む展開が続いたが、ゴールを割るには至らなかった。  しかし、試合の滑り出しとしては上々の立ち上がりだった。  洛陽高校は前半三十分近くまで優勢に試合を進めた。  だが、左サイドハーフの兵藤がサイドライン際での攻防で振り切られた。バイタルエリアへと切り込まれ、がむしゃらに追いかけた兵藤が背後から危険なスライディングを仕掛けた。  審判がホイッスルを吹き鳴らし、高々とイエローカードを掲げた。 「わりぃ……」  兵藤が平謝りするが、嫌な位置でフリーキックを与えてしまった。 「ドンマイ、兵藤。切り替えよう」  ゴール前に壁を作りながら、権丈が檄を飛ばす。二年生のゴールキーパー西田は身振り手振りで指示を出し、壁の位置を微調整した。  桐郷学園の10番がボールをセットする。軽く助走をつけると、ディフェンス陣の壁の上をすり抜けるような弾道で直接狙ってきた。左足から放たれたシュートは不規則にブレながらキーパーの手前でバウンドした。西田はまともにキャッチできず、枠外にクリアするので精いっぱいだった。 「西田、ナイスキーパー!」  兵藤が吠えるが、桐郷学園の猛攻が続く。  コーナーキックはゴールキーパーの西田とセンターバックの橋本のちょうど中間辺りに蹴り込まれた。相手のセンターフォワード、西田、橋本の三人が高々とジャンプする。激しい競り合いを制し、西田がパンチングでボールをクリアしたが、鈍い衝突音がした。  着地すると同時に、橋本と西田が地面に蹲(うずくま)る。プレーは尚も続行しており、こぼれたボールを兵藤がなんとかサイドラインの外へと蹴り出した。ようやく立ち上がったキーパーの西田は、橋本と交錯したらしく、足元がふらついている。口から流血しており、ぺっと唾を吐いた。唾に交じって、折れた歯が吐き出された。 「うわっ、歯が折れた」 「おいおい、大丈夫かよ西田」  兵藤が慌てて駆け寄るが、西田の足取りはふらついたままだ。意識はあるから、脳震盪を起こしたわけではないだろうが、このまま試合を続けるのは危険だ。権丈がベンチに向かって×印を送ると、大場監督は即座に控えゴールキーパーの志木を呼び寄せた。 「俺は大丈夫です。まだやれます!」  西田が強がるが、無情にも交代の指示が告げられた。準備運動も皆無の志木がゴールマウスを守ることになった。 「志木君、頼りにしてる」 「う、うん……」  権丈が声をかけるが、急な出番の志木の顔は青褪めている。  キーパーグローブを嵌めた両手で頬を張り、自らを鼓舞するが、チームメイト思いの志木の視線はベンチとフィールド上を行ったり来たりした。  守備の要であるキーパーの西田が抜け、センターバックの双璧の一角である橋本まで代えざるを得ないとなると、洛陽高校の守備が一挙に崩れてしまう危険性が高い。 「橋本は平気なのか」  兵藤が問うと、後頭部を擦(さす)りながら橋本が事もなげに答えた。 「平気っす。おれ、石頭なんで」  一旦試合が中断し、ピッチ外から救護スタッフが駆け寄ってきて、橋本の受傷状態を確認した。後頭部に血が滲んでいたが、止血の確認がなされると、桐郷学園のスローインから試合が再開した。  立ち上がりこそ上々だったが、予期しないアクシデントもあり、いちど歯車が狂うと、立て直すのは容易ではなかった。  試合に投入されたばかりの志木の動きは傍目にもぎくしゃくしており、なんでもないバックパスの処理にもたつく場面が見られた。味方と交錯した橋本の動きも冴えを失っている。  チーム全員がどこかしら集中力を欠いており、前半を終えるまで防戦一方で、無失点のままハーフタイムを迎えられたのが奇跡のようだった。  十分間の休憩の際、ロッカールームに戻っても、負傷した西田の姿はなかった。コーチに付き添われ、医務室に行っているようだ。  なかなか思うような試合展開にならず、司令塔の平岡は苛立ちを隠せない様子でむっつりと押し黙っている。一年生コンビの東条圭と小峰史郎は、ほとんど存在感がなかった。 「おいおい、お通夜みてえだな。元気出そうぜ」  元気印の兵藤がここぞとばかりに盛り上げを図るが、沈滞した空気を変えるには至らない。平岡がうざったそうに顔を背けた。 「誰かさんが不用意にイエロー貰うから」  ぼそりと呟いた一言が火に油を注いだ。 「ああ、俺のせいかよ」  兵藤と平岡が一触即発の剣幕で睨み合う。冷静さが取り柄の平岡までが熱くなっており、収拾がつかなくなっていた。大葉監督は口を挟まず、作戦の指示もなく、ただただ静観に努めている。大葉の金言を期待して、権丈がそれとなく視線を送るが、返ってきたのはにこやかな笑みだけだった。 「権丈組は前途多難ですねえ」  大葉監督はちらりと、権丈の左腕に巻かれたキャプテンマークを見た。  ――誰も東条君の代わりをしろだなんて言っていませんよ。東条君は東条君、権丈君は権丈君です。去年は去年、今年は今年で、また違うチームです。  キャプテン就任直後、何ひとつ上手くいかなかったとき、監督にかけられた言葉を思い出した。  監督に言われるまでもなく、自分に東条先輩の代わりなど務まりはしない。そんなことぐらいは分かっているが、偉大なる東条俊一から受け継いだ魂にまで泥を塗ることは出来ない。 「今は月が翳っているけど、俺は平岡を信じて走る」  権丈はキャプテンマークに触れると、力強く断言した。  今年のチームは、月まで導く司令塔ゲームメーカーの平岡を信じて共に走るのだ、と決めている。チームの頭脳を孤立させてはいけない。  それでなくとも平岡は、ボールに触れる回数が最も多く、相手ディフェンダーから執拗にマークされ、徹底的に削られる立場にある。チームメイトを走らせてばかりで、本人はさほど走っていないように見られがちだが、万が一にもボールを奪われないよう細心の注意を払いながら、フィールド全体を掌握しなければならないのだから、消耗は激しいに決まっている。  平岡はハーフタイム中、ずっと座り込んでいて、腰を上げることがなかった。わずかでも体力の回復を図っているのだろう。しかし、平岡には立ち上がってもらわなければ困る。 「もういちど、月まで走ろう!」  権丈が真顔で言い切ると、俯いていた平岡がくすりと笑った。  精彩を欠いていたゴールキーパーの志木も、つられて笑った。 「一丁前にキャプテンらしくなったじゃねえか、ゴンスケ。おいっ、円陣組むぞ、円陣っ!」  兵藤は嫌がる平岡の肩を掴み、勇んで円陣を組んだ。 「レッドカード貰ったら土下座だからね」 「お前こそ、ヘロヘロじゃねえか。最後まで持つのか」  二人はいがみ合いながらも、なんだかんだで信頼し合っている。 「平岡君、最後まで行けますよね」  大葉監督も心得たもので、「交代しますか」などとは口にしない。億劫そうに円陣に加わった平岡は一見するとガス欠寸前だが、目には並々ならぬ闘志が宿っている。体力的には限界でも、気力はまだ死んではいない。 「勿論です」  疲労は色濃いが、平岡は肩で息をしながらも頷いた。 「前半は大人しかったけど、遠慮はいらねえぞ、圭」  兵藤が東条圭を煽るが、兄譲りのサッカーセンスを有する小さな天才に忠告の類は不要だろう。 「最後まで走り切ろう!」  円陣が深く沈み込み、権丈が声を張り上げる。 「絶対勝つぞっ!」  手負いの野獣めいた咆哮がロッカールームの壁を震わせた。

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