洛陽の月
11メートル

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 試合後、どうやってロッカールームへと戻ったのか、記憶は定かではなかった。権丈が目を開けると、そこは既に緑の芝ではなく、無機質な白く濁ったリノリウムの床があるだけだった。  大葉監督が今日の試合を最後に引退する三年生を労う言葉をかけているようだが、失意の権丈の両耳は初老の指揮官の言葉をまともには拾わず、意味をなさない音の羅列が右から左へと素通りしていくだけだった。  床のあちこちに汗と涙の入り混じった水溜まりができていた。汗と熱気の充満するロッカールームで、ユニフォーム姿の選手たちは誰ひとり着替えることなく、嗚咽を漏らしながら泣き続けた。 「今日の試合に関しては切り替えるのは難しいな。だから五分間だけ泣こう。みんなよく戦った。お疲れさん」  主将の東条が毅然とした口調で言った。宣言通りに五分が過ぎたが、ロッカールームの床に座り込んだ選手たちのすすり泣く声は、いつまでも途切れなかった。 「顔を上げろ、権丈」  東条はキャプテンマークをその腕から外し、権丈の小刻みに震える左腕に巻いた。 「結果は残念だったが、俺は権丈の勇気を称えたい。新チームの主将キャプテンは権丈にやってもらうことにする。俺の独断だが、異論はあるか」  床の上に力なく座り込んだ選手たちの顔を一人ひとり見回した東条は、無言のまま首を横に振った権丈の肩を抱き、ゆっくりと立ち上がらせた。  皆、すすり泣くばかりで、異を唱える者はいない。  堪えていた涙がまた零れた。目の下をいくら拭っても、ダムが決壊したかのように涙が止めどなく溢れて止まらなかった。  己の無力さが口惜しくて、歯痒かった。 「今日の忘れ物はまた来年、取り返しにこよう。お前はあの場面でよく蹴ったよ。よく蹴った。蹴ることに意味があるんだ。挑戦したことに意味があるんだ」  遠征用のバスに乗り込み、宿舎に着くまで、東条は権丈の頭を抱き抱え、寄り添っていた。 「あと、たった11メートルだったのにな。果てしなく遠いな、この短い距離が」  ゴールラインからペナルティスポットへの距離、11メートル。  宿舎にたどり着くまでの間、最後方の席で窓の外を見つめていた東条が何気なく呟いた一言が、いつまでも消えずに脳裏にこびりついたままだった。

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