洛陽の月
平岡教授

 その日の夜、権丈は監督室に呼び出された。インターハイ京都府予選に出場する選手のメンバー表を手に携え、寮へ戻った。 「登録するメンバーは部員同士でしっかり話し合って決めてください、だって」  権丈が空白のメンバー表を自室の机の上に置くと、ベッドに寝転んでいた兵藤が顔を上げた。 「ああ、今年もそういう方針で行くんだな」  ベンチ入りメンバーおよび先発選手は監督の一存ではなく、主将の権丈ら三年生が中心になって決定する。 部員の自主性を重んじる大葉監督らしい方針であるが、メンバーに選ばれなかった選手は少なからず不満を持つだろう。  誰をどう選ぼうと、不満の火種は必ず存在するものである以上、選ぶ側の人間には相応の責任が生じる。  昨年は東条俊一という不沈艦に乗っかっていれば良いだけの気軽な旅だったが、図らずも今年の船頭は自分だ。船長が交代した今はどこへ向かうかも不確かで、不沈艦どころか泥船のように感じられてならない。 「責任重大だよね。メンバー、どうしようか」  権丈はどこか縋るような目で兵藤を見た。 「お前の思う通りに選べばいいんじゃねえのか。部員全員で話し合うようなことでもないしな」  兵藤の言うことはもっともな気がしたが、それでは独善に過ぎるような気もした。 「兵藤ならどうする?」 「俺は自分がスタメンで出られれば、後のことはどうでもいい」  あっけらかんとした回答はまるで参考にならなかった。ならば、新入生の意見も聞いてみようかと思ったが、室内に東条圭の姿はなかった。 「圭は?」 「風呂」  権丈がため息をついた。 「そんなに悩むことかよ。試合に出るメンバーなんて今でもだいたい固定に近いだろ」 「それもそうだけど」  部員総勢六十三名のうち、試合に出ずっぱりのメンバーは権丈、兵藤、黒田、平岡の三年生四人と、センターバックの二年生コンビの石塚と橋本ぐらいのもので、その他のポジションは流動的だ。  ゴールキーパーもサイドバックも日替わりで、三年生十人が不動のレギュラーだった昨年とは状況が大きく異なる。 「ポジションが安泰なのは平岡ぐらいだよね。ヒラの代わりはいないし」  左ウイングのポジションすら確約しようとしない権丈に苛立ったのか、兵藤が小さく舌打ちした。 「一人で決められないなら、平岡教授のご高説を伺ったらどうだ。斜め上から素晴らしいアドバイスをくれるはずだぜ」 「……教授?」 「いいから行くぞ」  兵藤は権丈の腕を引っ掴み、三○三号室の平岡部屋のドアを蹴り開けた。 「よう、邪魔するぞ」  三○一号室とは大違いの整理整頓された室内で、学習机の椅子にもたれた平岡は武骨なヘッドフォンを耳につけ、静かに文庫本を読み耽っていた。 「どうしたの、兵藤」  部屋の片隅で洗濯物を畳んでいた三年生の控えゴールキーパーの志木(しき)が目を丸くする。ぴしりと折り目正しく畳まれた衣類の山を見るだけで、几帳面な性格が窺える。 「やあ、志木君。平岡教授にご相談に参りました」  兵藤は平岡のヘッドフォンを無理やり剥ぎ取りながら、志木に笑いかけた。 「どんな相談?」 「インハイ予選の登録メンバーについて、ちょっとね」 「ああ、なるほどね」  図々しく室内へ侵入してきた兵藤に対して、志木は人好きのする笑みを返した。対する平岡は不機嫌な様子だ。夕食前の貴重な読書タイムを邪魔されたからか、眉間に皺が寄っている。 「何か用?」 「ごめん、ちょっと相談したいことがあって。ところで平岡は何を読んでいたの」  権丈は、平岡が学習机に裏返して置いた文庫本に興味を示した。 「ドストエフスキー、白痴」  椅子から立ち上がった平岡は、ゆっくりと伸びをしてから志木の背後にあるシングルベッドの端に腰掛けた。 「パクチー?」  兵藤は文庫本を乱暴にひっくり返すと、まじまじと題名を凝視した。ぱらぱらとページをめくると、しきりに目頭を押さえた。 「字ばっかりだな。目眩がする」  平岡の対面で体育座りした権丈が苦笑いする。 「ぼくは出ていった方が良いかな」  公式戦の出場経験の乏しい志木が気を遣ったように言った。昨年までは不動の正ゴールキーパーが在籍しており、志木はベンチ入りも叶わず、もっぱらBチームに所属していた。 「いや、平気だよ。志木君がいてくれた方が心強い」 「あいつは要らないけど」  平岡は不機嫌を隠すことなく、兵藤に冷ややかな視線を送った。 「ついでだからクロも呼ぶか」  車座になった三人の輪に割り込んだ兵藤が仕切り出す。 「今頃、筋トレしてるんじゃないの」と平岡が言った。 「いや、昨日筋トレしているのを見たけど」  筋トレの翌日は筋線維がずたずたに破壊された身体を休めるため、連日のトレーニングは厳禁だと聞いたことがある。 「俺、ちょっくら呼びに行ってくるわ」  兵藤は言うなり、三○三号室を飛び出していった。

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