洛陽の月
月までの道筋

 平岡は、ベッドの下からスタンド付きの作戦ボードを取り出した。赤と青のマグネットにペンが付属しており、平岡はフィールド半面に赤のマグネットを十一個並べた。 「誰をベンチ入りメンバーに選ぶかより、権丈はどういうサッカーをしたいかの方が重要だ。自分がやりたいサッカーを実現するためのメンバーを各ポジションに当てはめていく方が合理的だね」  平岡はゴールマウスに一人、ディフェンスラインに四人、中盤に五人、フォワードに一人という4―5―1のフォーメーションを図示した。 「去年はワントップに東条先輩がいたからこういう形だったけど、今年はこの形に拘る必要はないと思う。まったく別物のチームだからね」  平岡が最前線の赤いマグネットをぐるぐると回した。志木が昨年の選手権大会の二回戦、桐郷学園戦でのプレーを引き合いに出した。 「東条先輩はポジションがあってないようなものだったし、神出鬼没だったからね。桐郷学園戦のディフェンスなんて神懸かりだったよね」 「あんなことが出来るフォワードはどこにもいないよ。それこそヨハン・クライフぐらいだ」  平岡が珍しく手放しで称賛した。それほどに凄いプレーだった。 「権丈君も覚えているでしょう。あの時、一緒に出ていたんだし」 「もちろん。よく覚えているよ」  権丈はあの試合、二年生にして唯一レギュラーだった平岡に疲れが見えた後半途中に交代してピッチに入った。  それは残り時間数分という緊迫した時間帯のことだった。  オフサイドトラップを狙って洛陽ディフェンス陣が一斉にラインを押し上げる中、前線から物凄い勢いで自陣へと後退する人影があった。  オフサイドの網をかいくぐって二列目から最終ラインの裏へ抜け出た桐郷学園の選手の走る先に、その影が忽然と立ちはだかった。  他でもない、東条俊一だった。  相手の意図を見抜いて、最前線からカバーに戻ったのだ。味方の最終ラインの背後へ回り込み、危機を未然に防ぐアタッカーなど目にしたことはなかったから心底驚いた。  この先、何が起きるか、彼だけが「見えていた」のだろう。 「ああいう絶対的なオールラウンダーが中心に一人いれば、残りのメンバーは中盤を厚くしてひたすら献身的に守ってさえいればいい。月まで走れ、っていう標語はまさしくあの世代のためにあるようなものだね」  平岡がどことなく棘のある言い方をした。  あの試合、平岡は体力的にガス欠をきたし、試合終盤に交代を余儀なくされた。最後まで走り切れなかった自分に対して、平岡なりに悔しさと自責の念をずっと抱き続けていたのかもしれない。  ふとそう思ったが、平岡の考えは権丈の想像の埒外にあった。 「でも、あの試合は走り過ぎたから負けたんだ。走らなかったから負けたわけじゃない」  一瞬、平岡が何を言っているのか理解できなかった。あの試合の敗因は他でもなく、自分が最後にPKを外したからだ。それ以外の敗因など有り得ないはずだ。 「走り過ぎたから負けたって、どういう意味?」  権丈が憤ったように訊ねると、平岡は目を細めた。 「もしかして、権丈がPKを外したから負けたって思っている?」  権丈が小さく頷くと、平岡が否定するようにかぶりを振った。 「それは違うよ。東条先輩が奇跡的に防いだけど、東条先輩以外のフォワードであればああはいかない。どのみち、あの試合はPK戦に入る前にもう負けが決まっていたのさ」  その解釈は明らかにおかしいだろう。敗北が決定的な場面を水際で防いだ。東条先輩が手繰り寄せたチャンスを俺が潰したのだ。 「どのみち今年、東条先輩はいないんだ。今のメンバーであの日と同じ試合展開になったとしたら、PK戦に入る前に負けが決まっているよ」  平岡が噛んで含めるように言った。権丈が俯き、腹の底からやっとこさ絞り出したようなか細い声で答えた。 「……それなら理解できる」 「ボールを動かせ、ボールは疲れない。これはオランダの伝説的名選手ヨハン・クライフの言葉だけど、俺もそういうサッカーがしたいと思っている」  平岡の言いたいであろうことのおそらく半分ぐらいは理解できる。  従来のポジションに捉われず、目まぐるしく動き回る全員攻撃・全員防御のトータルフットボールを平岡は志向している。  だが、プロ選手を目指しているわけでもないメンバーが多く集まる今の自分たちに華麗なパスサッカーなど求むべくもない。ひたすら泥臭く、それこそ月まで走るがごとくにピッチ上を駆けずり回るしか道はないのだと思う。 「平岡がやりたいサッカーは分かるつもりだけど、いきなりは無理だと思う。洛陽の合言葉にもそぐわないし」  権丈がやんわり否定すると、平岡の目から笑みが消えた。 「洛陽の合言葉って、月まで走れのことだよね」  志木が張りつめた空気を解きほぐすように柔らかく笑った。 「そう。俺、洛陽が選手権に初出場した時のサッカーに感動して、それで越境してここに来たんだ」  権丈も黒田も兵藤も京都出身ではなく、洛陽高校の清々しいサッカースタイルに憧れて入学してきたクチだ。三年生の中で地元出身なのは平岡ぐらいだ。 「ぼくもそうだよ。ぼくはたいしたゴールキーパーじゃないけど、こんなに献身的に動き回ってくれるフィールドプレーヤーのいるチームのゴールマウスを守りたいって思った」  熱っぽく語る権丈に志木が相槌を打った。 「でも、平岡は考え方が権丈君とちょっと違うんだ」  志木がちらりと平岡の方を向いた。 「俺は、月まで走りたければ勝手に走れと思っている。走り過ぎると疲れるから、俺はあまり走りたくはない。それよりボールを動かしたいと思っている」  平岡は床に置いてある作戦ボードを手元に引き寄せた。 「でも、どこに月があるのか見当もついていないのに闇雲に走るのは間抜けなだけだろう。まずは月までの方向をきっちりと見定めるべきだ。その上で月まで走るというのなら、否定はしない」  相手ゴールを指差し、平岡がにやりと笑った。 「平岡は月までの道筋が誰よりもよく見えている。でも一人では到底たどり着けない。月まで一緒に走ってくれる、手足となる選手が必要なんだ。権丈君や兵藤君みたいなね」  志木がそう言うと、平岡がやんわりと言葉を遮った。 「いや、一緒に走ってくれとは言っていない」  平岡はぷいっと横を向いた。ようやく得心した権丈は大きく頷く。 「参考までに聞きたいんだけど、平岡が最もやりやすいと思えるメンバーはどういう感じなの」  平岡自身が気分よくサッカーが出来るために揃えるメンバー。  今まではチームの代表であるメンバーをどう公平に選ぶべきかとばかり考えていたが、少し違った角度から考えてみるのも何かしらヒントになるだろう。 「それ、本気で言ってる?」  意見を求められた平岡が意外そうな顔をした。 「うん。平岡がやりたいサッカーを実現するためのメンバーって、どんなのか興味あるし」  志木と平岡が顔を見合わせ、二人同時に笑った。 「権丈君って本当に素直だよね。誰の意見でもとりあえず聞いてみるし」 「そうかな……」 「うん、自己主張の強いサッカー選手には珍しい性格だと思うよ」  平岡はディフェンスラインに四人、中盤に四人、フォワードに二人という4―4―2のフォーメーションを図示した。中盤はダイアモンド型でトップ下一人、サイドハーフ二人、ボランチ一人という構成だ。 「とりあえず俺はここ」  平岡は中盤の底に位置するボランチに自らの名前を書き込んだ。昨年の4―5―1のシステムに比べると、ディフェンシブハーフを平岡が一人で担わなければならない分、守備の負担が増えると思うのだが、いったいどういう意図があるのだろうか。 「センターバックは橋本と石塚。守備に期待」  ボランチの真後ろに位置するセンターバックには二年生コンビの名前を書き込んだ。 「トップ下は権丈。俺の代わりに中盤全般のディフェンス頑張って」  本人は守備的な位置にいながら守備意欲はないようだ。ゲームメークに専念するから必要に応じて代わりに守れ、ということらしい。 「で、右サイドハーフは一年の小峰を抜擢。底無しの体力に期待」  いきなり隠し玉が飛び出してきた。しかも中学時代にやっていたサイドバックではなく、一列前のサイドハーフでの起用である。 「サイドバックじゃなくて?」 「ラインコントロールとかの意思疎通でポカしそうだからね。一列前なら、とりあえず守備に走り回っていてくれればそれでいい」  俺の代わりに月まで走れ。その言葉を地で行くような驚くべき起用方針だった。 「で、左サイドハーフは兵藤。ボール奪取能力にだけは期待」 「ウイングじゃなくて?」  小峰を一列上げたかと思えば、左ウイングのポジションに拘りの強い兵藤は一列下げた。  細かなテクニックや戦術眼はないが、目の前の相手をぶっ潰す対人能力に優れた兵藤と、献身的に走り回る体力自慢の一年生ルーキー小峰が、コントロールタワーを守護する近衛兵のように、平岡の左右前方に配置されている。 「兵藤は一対一でどんな相手でも抜き去れるようなドリブラータイプじゃないし、かといってシュートも下手だし、クロスなんかアバウト過ぎてほとんど使い物にならないけど、ボール奪取能力だけは異様に高いからサイドハーフの方が適任だよ」  あえて誰も口にしないことをずばりと口にした。平岡の隣で志木が口元を押さえて笑っている。 「でも、ウイングからコンバートとなると拒否すると思うけど」  兵藤の性格を考える限り、おいそれと守備的なサイドハーフに甘んじるとは思えなかった。平岡は作戦ボード上の左サイドを相手陣内から自陣までぐりぐりとペンで塗り潰した。 「左サイドは兵藤の庭さ。このスペースの支配者こそ、我らが兵藤だよ」 「物は言いようだね」  志木が笑っているが、兵藤本人がこの場にいなくて本当に良かったと思う。 「ボランチの周りに配置された選手は平岡の代わりに守備に奔走しろってことだよね」 「理解が速くて助かるよ。権丈には攻撃面にも期待しているけどね」  褒めているのか侮っているのか、いまいち判然としない微妙な言い方だった。  平岡は二人のフォワードを指差した。  「フォワードはワントップ気味に黒田。ディフェンダーを経験しているから、最前線からのプレスも期待できる」  センターバックからセンターフォワードへ再転向した黒田を早速トップの位置に置いた。 「でも、クロの足元の技術だとボールが収まらない場合があるから」  平岡はセカンドストライカーの位置に置かれた赤いマグネットに印を付けた。 「東条弟を使う。密集でもボールを収められるし、裏に抜ける動きも出来るからね」  サイドバックとキーパーは横一線だからまだ検討中と明言を避けたが、平岡案の選手起用には自分では思いつかないような新鮮味があった。  作戦ボードの奇手めいたフォーメーションを見ていると、これ以上の良案はないようにも思えてきたのが不思議だった。 「おい、お前らそろそろメシだぞ」  三○三号室の扉が開き、兵藤が顔を覗かせた。それだけ告げると、兵藤はさっさと食堂へ向かった。 「さすが左サイドの覇者。いいタイミングだね」  平岡が作戦ボードを片付けながら、微かに笑った。

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