洛陽の月
再転向

小説を栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 風呂から上がった権丈がトレーニングルームを覗くと、黒田と小峰が早速、筋トレに精を出していた。  黒田はベンチプレス、スクワット、デットリフトを順々にこなしていく。服の上からでも分かる分厚い胸板、丸太のように太い腕はウェイトトレーニングの如実な効果を物語ってはいたが、サッカー選手というよりボディービルダーの体型に近い気がした。  頬を真っ赤に染め苦悶の表情を浮かべながらも、激しく軋む己の筋肉にどこかしら恍惚感を覚えているらしい黒田のストイックさに権丈は尊敬の眼差しを向けた。 「凄いね、そのバーベル何キロ?」  筋トレの補助役として駆り出された小峰が答えた。 「90キロらしいです」  黒田はぜえぜえと荒い呼吸を繰り返し、首筋に流れる滝のような汗を大きめのハンドタオルで拭った。黒田はハンドタオルを首にかけると、小峰から怪しげな色合いの液体で満たされたシェーカーを受け取った。 「夏までには100キロを越えたい」  ココアのような色をしたプロテインを摂取しながら黒田が端的に答えた。遠征や合宿の際に黒田は持参したプロテインの粉末を水や牛乳で割って、ことあるごとに飲んでいた。去年の暮れ頃から名実ともにトレーニングルームの主と化していた感のある黒田は、週に二度、ないし三度の筋トレを欠かすことがなかった。  高校入学当初は40キロのバーベルを持ち上げることさえ苦労していたが、今や100キロに迫ろうとしていると聞いて、陳腐だが「努力は嘘をつかない」という格言が脳裏に浮かんだ。 「権丈、明日の朝練に少し付き合って欲しいんだが」  小峰に筋トレのやり方を指導しながら、黒田が低い声で言った。 「いいけど、何の練習?」  朝練は決して強制ではなく、登校までの小一時間ほどの間に何を練習するにも自由であるため、大抵の部員は個人スキルの向上に費やすことが多い。パートナーを必要とするような練習は、放課後に行うのが通例だ。 「クロスボールを上げて欲しい。センターフォワードに再転向しようと思っている」  黒田の表情はまさしく真剣そのものだった。高校入学時から背が高く、横幅もあったが、見た目ほどは筋力が伴っておらず、身長が高いわりにはヘディングで競り負けることが多かった。  サッカー指導者の間では「背の高いフォワードを育てるのは時間と手間がかかる」という定説があるが、中学からサッカーを始めた黒田もその例に漏れず、細かい技術がなかなか身につかなかった。  おそらく、黒田本人も悩んでいたのだろう。  大葉監督と相談の上で、センターフォワードを諦め、センターバックへとコンバートされたが、守備ではアプローチが遅く、裏は取られ放題で、ラインコントロールもままならず、肝心のヘディングにも勝てない、という散々な状況が続いた。  フォワードとしてはボールが足元に収まらないため、攻撃の起点になれない。ディフェンダーとしての適性にも欠ける。昨年の半ばまでそんな有様だったから、まともに試合に出場することさえ叶わず、ベンチを温めるだけの日々が続いた。  それでも黒田は途中で投げ出すことなく、こつこつと努力を続けた。  寮生活を共にしたチームメイトなら誰もが知っている。今では足元の技術も人並み程度に上達し、簡単には当たり負けしない屈強な肉体も手に入れた。そんな黒田が自らの意思でセンターフォワードへと戻ると宣言したからには、どこまでも本気なのだろう。 「クロがフォワードに戻る気なら俺もとことん付き合うよ」  権丈が笑いかけると、黒田も小さく笑みを浮かべた。ほんの一年ほど前には見ることのなかった自信に満ちた表情だった。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません